コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

なかにし礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なかにし 礼
誕生 中西 禮三(なかにし れいぞう)[1]
(1938-09-02) 1938年9月2日
満洲国の旗 満洲国牡丹江省牡丹江市
死没 (2020-12-23) 2020年12月23日(82歳没)
日本の旗 日本東京都
職業 小説家作詞家
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 立教大学文学部仏文科卒業
代表作 作詩
『天使の誘惑』
『今日でお別れ』
『北酒場』
『石狩挽歌』
『時には娼婦のように』
小説
『兄弟』
『長崎ぶらぶら節』
『赤い月』
『夜の歌』
オペラ
『天国と地獄』
『ワカヒメ』
『静と義経』
主な受賞歴 日本レコード大賞(3回)
日本作詩大賞(2回)
直木三十五賞(2000年)
配偶者 石田ゆり(中西由利子)[2]
公式サイト なかにし礼公式ホームページ
テンプレートを表示

なかにし 礼(なかにし れい、本名:中西 禮三(なかにし れいぞう)、1938年〈昭和13年〉9月2日 - 2020年〈令和2年〉12月23日)は、日本小説家作詞家

来歴

[編集]

満洲国牡丹江省牡丹江市(現在の中華人民共和国黒竜江省)生まれ。元は北海道小樽市に在住していた両親は、渡満して酒造業で成功を収めていた。終戦後、満洲からの引き揚げでは家族とともに何度も命の危険に遭遇、この体験は以後の活動に大きな影響を与えた。実兄・正一は立教大から学徒出陣として陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されたが終戦となった。8歳の時に小樽に戻るが、兄の事業の失敗などで小学校時代は東京青森青森市立古川小学校)で育ち、中学から東京品川区大井町に落ち着く[3]青森市在住時には入会していた読売ジャイアンツのファンクラブの誘いで青森市営野球場での試合のバットボーイを担当したが、その試合は藤本英雄が日本初の完全試合を達成することとなった。東京都立九段高等学校卒業後、シャンソン喫茶でアルバイトをし半年ほどアテネフランセに通う。シャンソンの訳詩を手掛け、大学の入学資金も稼ぎ、大学在学中にヒットメーカーになる[4]。一浪して1958年立教大学文学部英文科に入学する。中退と再入学と転科を経て、1965年立教大学文学部仏文科を卒業する(立教仏文の第1期生)。大学在学中、1963年に最初の妻と結婚する。一女をもうけ、1966年に別居、1968年に離婚する[5]

タカラジェンヌで、シャンソン歌手の深緑夏代に依頼されたことがきっかけで始めたシャンソンの訳詞を手がけていた頃、妻との新婚旅行中に静岡県下田市のホテルのバーで『太平洋ひとりぼっち』(映画1963年公開)を撮影中の石原裕次郎と偶然出会い知遇を得る。石原に「シャンソンの訳なんてやっていないで、日本語の歌詞を書きなさいよ」と勧められ、約1年後に作詞作曲した作品(後の「涙と雨にぬれて」)を自ら石原プロに持ち込んだ。それから数ヶ月後、石原プロがプロデュースした「涙と雨にぬれて」がヒットする。1969年には、作品の総売上が1,000万枚を超える。コンサートや舞台演出、映画出演、歌、作曲、翻訳、小説・随筆の執筆や文化放送セイ!ヤング』パーソナリティ、NHKN響アワー』レギュラーなども務める。

1971年週刊ポスト(7月9日号)に俳優や歌手などの乱れた関係を暴露する「芸能人相愛図」を掲載するが、後に、週刊ポストの記者から強要されて書かされたものだとして告訴。記者2人が逮捕される事件へ発展する[6] が、後に和解した。1974年9月には、兄・正一と共に重役を務めていた芸能事務所、アド・プロモーションと風吹ジュンの契約問題でトラブルが発生し、風吹から刑事告訴されている。 挙式の見届け人は児玉誉士夫だった[7]

若い頃から何度も繰り返した心臓疾患[2] や離婚に加え、1970年代後半には、特攻隊の生き残りで戦後はニシン漁に投資して全財産を失うなど、破滅的な人生を送った兄・正一の膨大な借金を肩代わりして返済に苦しむ困難を抱えたこともある。1998年にはその兄の人生を描いた小説『兄弟』で第119回直木賞候補となり、2000年に『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞した。NHK連続テレビ小説てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の照子さん』を始め『赤い月』『夜盗』『さくら伝説』『戦場のニーナ』『世界は俺が回してる』『夜の歌』などを執筆する。

1990年代後半から、テレビ朝日系列で放送されているワイドショーワイド!スクランブル』のコメンテーターを務めていたが、2012年3月5日の放送で食道癌であることを報告。治療のため休業することを明らかにした[8]。医師たちから抗がん剤、放射線治療、手術という治療法の説明を受けるが、自身の心臓は長い手術や放射線治療には耐えられないと考え、インターネットを活用して陽子線療法の存在を見つける。2012年2月から6月にかけての闘病の様子は著書『生きる力 心でがんに克つ』に詳しい。闘病の結果がんを克服、同年10月に復帰。執筆、コメンテーター等の仕事も再開し、『ワイド!スクランブル』には2014年3月31日まで出演した。

2015年3月、自身のラジオ番組『なかにし礼「明日への風」』で癌を再発し、休養することを明らかにした[9]。その後、同番組を休止することが発表された[10]

2015年6月、単行本「生きるということ」刊行。がんの再発と向き合いながら平和の尊さについて多く触れている。2012年のがん闘病以降、自らの戦争体験に基づき平和の尊さや核兵器・戦争への反対を訴える著述が多く、自ら「僕たち戦争体験者は若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければいけません」とも語っている。核兵器、原発に反対する歌「リメンバー」(歌唱:佐藤しのぶ)の作詩、毎日新聞からの依頼で書き起こした詩「平和の申し子たちへ! 泣きながら抵抗を始めよう」など、平和で自由に生きることを人間の根源的な権利とする主張を続けている。2015年6月、『サンデー毎日』で小説「夜の歌」連載開始。戦争体験が自分をどう作り上げてきたか、自らの戦争体験に基づき内面的な葛藤を描いた、もう一つの自伝的小説と言える。2015年9月、『週刊現代』のインタビューで再発がんが消えたことを語り、公式サイトでも発表。テレビ出演などの活動も再開。

2016年4月、植え込み型除細動器(ICD)と心臓ペースメーカーを体内に植え込む手術を受ける[11]。2016年12月、サンデー毎日に連載していた「夜の歌」が単行本化され発刊。がん再発、穿孔による大量出血の危機が迫る危機的状況の中で書き始められた小説である。2016年、BS日テレの報道番組「深層NEWS」に毎月1回のペースでほぼ定期的に出演した。2017年10月、『サンデー毎日』でエッセイ「夢よりもなお狂おしく」連載開始。2018年10~12月、読売新聞連載記事「時代の証言者」(「言葉を紡いで」なかにし礼)。

2020年秋に持病の心臓病が悪化し療養していたが、同年12月23日午前4時23分に心筋梗塞のため東京都内の病院で死去[12][13]。82歳没。

なかにしの没後、遺稿を整理し出版された『血の歌』が刊行されている。この中で長年謎の歌手とされていた森田童子がなかにしの姪(兄・正一の子)であったことが明らかにされた。森田のマネージャーで夫と思われている前田亜土は、前述のアド・プロモーションの社長でもあった[14]

兄正一とは異母ないし異父兄弟の説もある。また礼自身は、青島幸男の弟子でもあったことはあまり知られていない事実である[要出典]

長野県軽井沢ログハウス造りの別荘を所有していたが、没後2022年に商社の堀正工業の経営者に売却された。なお、堀正工業は翌2023年粉飾決算で事実上倒産している[15]

作品

[編集]

主な作詞曲

[編集]
あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や・ら・わ行

アルバム

[編集]
  • マッチ箱の火事フォーライフ・レコード、1977年、なかにしが自ら全作詞・全作曲・全歌唱した作品)
  • 黒いキャンバス(東芝EMI、1979年、なかにしが自ら全作詞・全作曲・全歌唱した作品)
  • 昭和 忘れな歌〜なかにし礼アンソロジー〜(ユニバーサル ミュージック、2004年 - 作詞・訳詞曲を集めた3枚組アルバム)[16]
  • なかにし礼と12人の女優たち(日本コロムビア、2015年1月、映画・舞台・ドラマなどを通じて縁のある12人の女優たちがなかにし礼作品を歌唱)
  • なかにし礼と75人の名歌手たち(日本コロムビア、2015年11月) - 作家生活50周年記念のオムニバスアルバム [17]
  • なかにし礼と13人の女優たち(日本コロムビア、2016年9月、なかにし礼 作詩家・作家生活50周年記念アルバム、シリーズ第2弾)

クラシック音楽

[編集]

プロデュース

[編集]
  • 島田歌穂 - 「マンガチックロマンス」(1981年)

著書

[編集]

詞集

[編集]
  • 『エメラルドの伝説』(作品集 新書館、1969年)
  • 『シャンソン詩集141・さらば銀巴里』(さがみや書店、1991年)
  • 『なかにし礼訳詞によるモーツァルト歌曲集』(音楽之友社、1991年)
  • 『昭和忘れな歌―自撰詞華集』(新潮文庫、2004年)
  • 絵本詩集『金色の翼』(響文社、2014年)
  • 『平和の申し子たちへ 泣きながら抵抗を始めよう』(毎日新聞社、2014年)

創作

[編集]

随想・回想

[編集]
  • 『ズッコケ勝負―終わりなき愛の遍歴』(双葉社、1969年)
  • 『青春の愛について』(新書館、1972年)
  • 『遊びをせんとや生まれけむ~なかにし礼の作詩作法』(毎日新聞社、1980年)
  • 『音楽への恋文』(共同通信社、1987年) - 改題「音楽の話をしよう」(新潮文庫)
  • 『翔べ!わが想いよ』(東京新聞出版局、1989年)、のち文春文庫、新潮文庫 - 自伝
  • 『時には映画のように』(読売新聞社、1997年) - 改題「口説く」(河出文庫)、改題「恋愛100の法則」(新潮文庫)
  • 『愛人学』(河出書房新社、1997年)、のち河出文庫
  • 『天上の音楽・大地の歌』(音楽之友社、2001年)
  • 『道化師の楽屋』(新潮社、2002年)、のち新潮文庫
  • 『三拍子の魔力』(毎日新聞社、2008年)
  • 『歌謡曲から「昭和」を読む』(NHK出版新書、2011年)
  • 『人生の教科書』(ワニブックス、2012年)
  • 『生きる力 心でがんに克つ』(講談社、2013年)
  • 『天皇と日本国憲法 反戦と抵抗のための文化論』(毎日新聞社、2014年)
  • 『生きるということ』(毎日新聞社、2015年)
  • 『闘う力 再発がんに克つ』(講談社、2016年)
  • 『芸能の不思議な力』(毎日新聞出版、2018年)
  • 『がんに生きる』(小学館、2018年11月)
  • 『わが人生に悔いなし 時代の証言者として』(河出書房新社、2019年7月)
  • 『作詩の技法』(河出書房新社、2020年10月)
  • 『愛は魂の奇蹟的行為である』(毎日新聞出版、2021年4月)、遺著

翻訳

[編集]

その他

[編集]
  • 『月夜に飛んで人を斬る』(作画:ふくしま政美芳文社、1979年)- 劇画原作
  • 『さくら伝説―松坂慶子写真集』(フォーブリック、2002年) - 原作・監修
  • 『人生の黄金律―なかにし礼と華やぐ人々』(2003-2004年、清流出版)- 対談集(全3巻)
  • 『なかにし礼と12人の女優たち』(日本コロムビア、2015年)-12人の女優によるなかにし礼作詩曲の競演アルバム
  • 『なかにし礼と75人の名歌手たち』(日本コロムビア、2015年)-作詩家・作家生活50周年記念アルバム。時代を追ってオリジナル歌手の歌唱で収録されたコンピレーションアルバム
  • 『なかにし礼と13人の女優たち』(日本コロムビア、2016年)-女優たちによるなかにし礼作詩曲の競演アルバム、前作のヒットにより第2弾リリース。
  • 『昭和レジェンド 美空ひばりと石原裕次郎』(テイチクエンタテインメント、2016年)-なかにし礼が手掛けた、美空ひばり・石原裕次郎のすべての音源を収録。

映画

[編集]

関連文献

[編集]
評伝
  • 添田馨『異邦人の歌 なかにし礼の〈詩と真実〉』論創社、2021年8月5日。ISBN 978-4-8460-2060-6 

脚注

[編集]
  1. ^ 中日スポーツ1971年10月17日9面
  2. ^ a b 中西康夫「父・なかにし礼は最期まで危険な香りのする人でした」(全5ページ)”. 婦人公論.jp (2021年6月20日). 2021年6月20日閲覧。
  3. ^ 『「家」の履歴書』 光進社、2001年 147-151頁
  4. ^ 『黄昏に歌え』なかにし礼:著/朝日新聞社:刊/1,800円+税 有隣堂Web版「有鄰」第450号、平成17年5月10日発行
  5. ^ 清水秀子(語)、高山文彦(文)「それからのわたし」飛鳥新社、2004年。
  6. ^ 「強要された衝撃の告白 なかにし礼氏が告訴 週刊誌記者2人を逮捕」『中國新聞』昭和46年8月24日 15面
  7. ^ 中日スポーツ1971年10月17日9面
  8. ^ “なかにし礼氏が食道がん告白、治療に専念へ「初期より少し進んだ状態」”. スポニチ Sponichi Annex. (2012年3月5日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/03/05/kiji/K20120305002766030.html 2012年3月5日閲覧。  “なかにし礼さん 番組で「がん」”. nikkansports.com. (2012年3月6日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20120306-913229.html 2012年3月6日閲覧。 
  9. ^ “なかにし礼さん、がん再発し休養”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2015年3月6日). オリジナルの2015年3月7日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/MiXWA 2015年3月7日閲覧。 
  10. ^ 第24回 《2015年3月20日 ON AIR》”. アンファーPresents なかにし礼「明日への風」. 文化放送. 2015年3月26日閲覧。 “がん再発なかにし礼氏のラジオ明日への風一時休止へ”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2015年3月20日). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1449601.html 2015年3月26日閲覧。 
  11. ^ “なかにし礼氏、突然死の恐怖消えた!体内にICD埋め込み”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2016年6月9日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/06/09/kiji/K20160609012748560.html 2016年6月9日閲覧。 
  12. ^ なかにし礼が82歳で死去、「北酒場」「時には娼婦のように」など約4000曲の作詞手がける”. 音楽ナタリー. ナターシャ (2020年12月25日). 2020年12月25日閲覧。
  13. ^ なかにし礼さん心筋梗塞死去 作詞家で作家 82歳”. 日刊スポーツ (2020年12月25日). 2020年12月25日閲覧。
  14. ^ 「僕たちの失敗」の森田童子の父親は、なんとあの人だった(高野 慎三) @gendai_biz”. 現代ビジネス. 2022年1月1日閲覧。
  15. ^ 堀氏は現在雲隠れしており、誰も連絡が取れない状態”. 文春オンライン (2023年). 2023年8月19日閲覧。
  16. ^ 昭和 忘れな歌〜なかにし礼アンソロジー〜 - CD Journal(2004年3月24日)
  17. ^ TOKIOから美空ひばりまで!なかにし礼、作家生活50周年4枚組アルバム”. 音楽ナタリー (2015年11月10日). 2015年11月10日閲覧。
  18. ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
  19. ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
  20. ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
  21. ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター

外部リンク

[編集]