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復讐するは我にあり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

復讐するは我にあり』(ふくしゅうするはわれにあり、Vengeance Is Mine )は、佐木隆三の小説。

概要

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5人を殺害した西口彰事件を題材にした長編小説である。第74回直木賞(1975年下半期)を受賞。1979年に映画化、1984年2007年テレビドラマが放映された。

書き下ろしで講談社から出版[1]。佐木はトルーマン・カポーティの『冷血』(1965年)を意識して執筆した。タイトルの「復讐するは我にあり」は、新約聖書ローマ人への手紙・第12章第19節)に出てくる「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり」という言葉の一部で[2]、悪人に報復を与えるのは神である、を意味する[3]。こういう男がいたことを調査したとして、佐木自身は主人公を肯定も否定もしない気持ちを込めてタイトルに引用したという[4]

2007年に改訂新版が弦書房から出版された。

ストーリー

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昭和38年。当時の日本の人々はたった一人の男に恐怖していた。榎津巌(えのきづ いわお)。キリスト教カトリック信者で「俺は千一屋だ。千に一つしか本当のことは言わない」と豪語する詐欺師にして、女性や老人を含む5人の人間を殺した連続殺人犯。延べ12万人に及ぶ警察の捜査網をかいくぐり、78日間もの間逃亡したが、昭和39年熊本で逮捕され、43歳で処刑された。映画ではこの稀代の犯罪者の犯行の軌跡と人間像に迫る。

映画

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復讐するは我にあり
Vengeance Is Mine
監督 今村昌平
脚本 馬場当
池端俊策
製作 井上和男
出演者 緒形拳
三國連太郎
ミヤコ蝶々
倍賞美津子
小川真由美
音楽 池辺晋一郎
撮影 姫田真佐久
編集 浦岡敬一
配給 松竹
公開 日本の旗 1979年4月21日
上映時間 140分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 6億円
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黒木和雄深作欣二藤田敏八らと競った末に今村昌平が映画化権を取得[5]。映画は松竹と今村プロダクションの共同製作、配給は松竹。1979年4月21日に公開された。

馬場当池端俊策が脚本を担当、主演は緒形拳1968年の『神々の深き欲望』で各映画賞を受賞して高い評価を受けたものの、同作の長期間の撮影が災いして今村プロダクションはおよそ2000万円の負債を抱え、以後はテレビのドキュメンタリー番組を手がけていた。当時、苦境にあった今村昌平にとっては、起死回生の10年ぶりの新作劇映画である[6]

キャッチコピーは、「惜しくない 俺の一生こげなもん…」[7]。同年度キネマ旬報ベストテン1位。第22回ブルーリボン賞ならびに第3回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞。配給収入は6億円を記録し、松竹作品としては盆と正月の『男はつらいよ』2本に次ぐその年の3位の成績を収めた[8]。本作のヒットで今村プロダクションはそれまでの負債を返済し、配給元の松竹も利益をあげたことで次作『ええじゃないか』の制作にゴーサインが出た[9]

3分の2がロケ撮影され、残りが浜松の家のセット撮影である。浜松駅に榎津が降り立つシーンは撮影当時すでに高架化工事とともに駅前再開発が進んでいたため、事件当時の浜松駅の雰囲気が残っていた土浦駅で撮影された。その他の浜松でのシーンは文京区目白台で撮影されている。 弁護士殺害シーンは実際の殺害事件の現場であるアパートで撮影されたが[10]、事件が発生した部屋そのものではなくその向かい部屋が使用された[4]。その後マンションに建て替えられた[10]

逮捕に至る経緯は事実とも原作とも異なる形で簡略化されている。ここでカットされた部分に焦点を当てたのが2007年のテレビドラマ版である、 ソフト化はDVDの他、松竹から米国版HDマスターを元にしたBlu-ray Discがリリースされている。

1989年「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)では第113位にランキングされている。

ストーリー

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専売公社の集金係2名を殺害した榎津は、詐欺を繰り返しながら逃走を続けていた。自宅には病身の母親と敬虔なクリスチャンの父親が旅館を経営し、榎津の妻子とともに暮らしている。妻の加津子は、義父である鎮雄に心酔し、榎津は2人の関係を疑っている。警察が専売公社雇人殺しの容疑で榎津を全国指名手配するなか、榎津は裁判所で被告人の家族に接近。弁護士を装って保釈金を預かる手口で詐欺を働き、仕事の依頼と称して老弁護士に近づき、殺害して金品を奪って逃げ続ける。やがて浜松の旅館に大学教授を装って投宿し、宿の女将ハルと懇ろになる。ハルの母親は元殺人犯で収監された経歴を持ち、ハルの情夫で旅館のオーナーでもある男の機嫌を取りながら、競艇に明け暮れる日々を送っていた。ある日、榎津とハルが映画館へ入ったところ、ニュース映画で榎津の指名手配写真が流れ、ハルは榎津の正体を知る。榎津に惚れていたハルは榎津を匿い、逃走を手助けする。それを知ったハルの母親は榎津を競艇に誘い、自分たちの前から消えるよう要求した。結局榎津はハルと母親を殺害し、質屋を旅館に呼んで二人の所持品を売り払う。榎津を以前客に取ったことのある売春婦がその様子を目撃したことから、榎津は逮捕され、死刑判決を受ける。面会に訪れた父親の鎮雄は、榎津が教会から破門されたこと、自らも責任を取って脱会したことを伝える。死刑執行後、榎津の遺骨を抱いた妻の加津子と鎮雄は、山頂から空に向かって散骨した。

映画化権トラブル

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映画化をめぐりトラブルが発生した。今村昌平より前に黒木和雄藤田敏八深作欣二の順番で映画化を申し入れて、口約束ながら3人全員に佐木が映画化を承諾したことから大きな問題となった[11]。順番はまず1975年の原作発刊と同時にATGを拠点に映画製作を行っていた黒木が1976年1月8日に正式に佐木に映画化を申し込んだら「ぜひやっていただきたい」と承諾を得た[11]。その後版元の講談社から大手で配給をお願いしたいと言われたため、松竹から内諾も取り、黒木は佐木と計4回話し合った[11]。次に藤田が1976年1月26日に佐木に会い、佐木から「お任せする」と言われたため、OKを得たものと認識していた[11]。続いて深作が1976年2月7日に佐木と京都で会い、「ぜひ、いい作品にして下さい」と言われ、その気になった[11]。うかつにも3人とも「文書の契約」はなかった[11]。結局、1976年2月19日と一番遅く正式に申し込んだ今村昌平監督の手で映画化されることになった[11]。コケにされた3監督は「映画にさせない!」などと激怒したと伝えられる[11]。怒りを買った佐木は後に「うれしくて、ついどうぞと申し上げたが、別に正式な契約はしてなかった」と言い訳した[11]

黒木とは2回、深作と藤田とはそれぞれ1回ずつ会い、その際にどの監督にも了承の印象を与えて、口約束ではあるが佐木から承諾されたと主張しており、後から正式に契約を交わした今村プロが映画化権を得たことに抗議。ただ、いずれも手付け金や契約のサインはなかったという。

黒木監督は脚本に中島丈博、主演に原田芳雄を起用して松竹配給を想定、佐木からは新宿の飲み屋では約束でOKされたとし、黒木監督による映画化を『報知新聞』がスクープとして報道。一方、深作監督は東映でアクション映画調で撮ろうという構想で、同社の日下部五朗が佐木夫妻を京都に招いて接待。藤田監督はホリプロダクションで動き、東宝も五明忠人と藤井浩明の両プロデューサー、大映徳間康快社長が映像化権の争奪に参加していたという。結局、『神々の深き欲望』の評価や作風が決め手となり、窓口である講談社と佐木が今村と井上和男プロデューサーと正式契約し、1977年の正月映画として公開予定と発表。野坂昭如が主役に立候補した。

これに対して、黒木は告訴も辞さないとコメントし、深作と藤田もこれに同調。1976年3月に黒木・藤田両名と深作の友人で劇作家の内田栄一(藤田作品の常連脚本家であり、佐木が属する新日本文学会のメンバーでもあった)の3人が佐木と話し合い、佐木が今村プロとの契約を白紙撤回する旨の念書を書き、これを青年行動隊にやらせた[11]。今村プロ側は、契約書で1976年に2年間の期限付きで1977年1月公開予定としており、契約を白紙撤回する念書に法的効力はないとした。内田栄一は自身の主宰する劇団東京ザットマンで、「佐木隆三を個人攻撃する会」という芝居を1976年4月16、17日に天井桟敷地下劇場で開催する徹底ぶりだった[11]

また、深作監督が撮る予定だった東映の日下部五朗は、「映画化権を得たものの、東映社長の岡田茂から、『もう実録もののような暗い話は当らない。そんな原作はどこかに売却しろ』と怒鳴られた」と話している[12][13]。日下部は榎津を『ジョーズ』に見立て、観客が「榎津が来た!次はこいつが殺られる!」とハラハラドキドキさせるホラー映画を構想していたと話している[12]

藤田監督も映画化の意欲が失せたということで、そのまま今村プロによって映画化された[14][15][16][17]

後年、1980年に佐木隆三が発表した『海燕ジョーの奇跡』が深作欣二が映画化権を取得して日本国外でロケハンまでするも流れる経緯を経て[18][19]、藤田敏八により1984年に映画化された。クランクインした1983年に佐木は藤田敏八、内田栄一と会食し、『復讐するは我にあり』のトラブルを和解したという[20]

この映画化トラブルは、週刊誌などでスキャンダルとして大きく報道された[11][21][22][23][24][25]。佐木とはお互いの無名時代の知己でもあった作家の筒井康隆は、自作『アフリカの爆弾』に複数の映画関係者から映画化の申し入れがありながら、その後は何の音沙汰もなかった自分の経験を振り返り、「一方的に佐木を責めるわけにはいかんのではないか」と佐木に同情する言葉を残している[26]畑正憲も口約束で契約をする当時の映画界の慣習を批判し「ちゃんとした契約書を取交し、映画化原作料の半金でも支払っているなら大騒ぎしたって構わないけれど、そうでなければ、近代的な商取引とは言い難い」と、佐木を擁護するエッセイを書いている[27]菅原文太は「本当にみなさんの危機感の現れと思いますけど、初めてじゃないですか、一つのものにそれも一応の人たちが4人も5人も群がってね、何か本当にヤクザ映画の喧嘩みたいなことをやってましたね」などと評している[28]

スタッフ

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キャスト

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受賞

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テレビドラマ

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1984年版

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1984年4月7日の「ザ・サスペンス」枠で、『一億人を敵にした男 復讐するは我にあり』の題名でTBSにより制作・放送された。主演は根津甚八

スタッフ

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キャスト

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ほか

2007年版

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復讐するは我にあり
ジャンル テレビドラマ
原作 佐木隆三
脚本 西岡琢也
監督 猪崎宣昭
出演者 柳葉敏郎
大地康雄
岸本加世子
山口愛
前田愛
オープニング 作曲:遠藤浩二
製作
プロデューサー 森田昇(テレビ東京)
大藤博司
元信克則
制作 テレビ東京
放送
音声形式ステレオ
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間2007年3月28日
放送時間20:00 - 22:48
回数1
公式サイト
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ユニオン映画により3時間枠のドラマスペシャルとして制作、2007年3月28日の20時00分 - 22時48分にテレビ東京系列で放送された。主演は柳葉敏郎。同作品の映像化は、TBS版から数えて約23年振り。

映画版では描写されなかった、榎津巌が逮捕されるまでの3日間を映像化。人を信じない殺人犯・榎津と、人を信じる事を説く教誨師・吉村の静かな戦いを描く。

監督には田中登が予定されていたが、2006年10月4日に急死したため、猪崎宣昭が担当した[29]

スタッフ

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キャスト

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ほか

脚注

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  1. ^ 佐木隆三『わたしが出会った殺人者たち』新潮社、2012年、p.2
  2. ^ 大正改訳の文語版Romans 12Study Bible
  3. ^ トルストイの『アンナ・カレーニナ』にも登場する言葉
  4. ^ a b 今村昌平、佐木隆三「『復讐するは我にあり』の犯人像とその周辺」、『キネマ旬報』1979年5月上旬号、pp.88-91
  5. ^ 『シネアルバム 日本映画1977 1976年公開日本映画全集』佐藤忠男、山根貞男責任編集、芳賀書店、1977年、p.194
  6. ^ 今村昌平『映画は狂気の旅である 私の履歴書』日本経済新聞社、2004年、p.153
  7. ^ 『キネマ旬報』1979年5月上旬号
  8. ^ キネマ旬報社編『映画プロデューサーが面白い』キネマ旬報社、1998年、p.214
  9. ^ 香取俊介『人間ドキュメント 今村昌平伝説』河出書房新社、2004年、p.342
  10. ^ a b 田沼雄一『続・映画を旅する [復讐するは我にあり] [就職戦線異状なし] ー東京都・鬼子母神ー』小学館〈小学館ライブラリー101〉、1997年12月20日、89–96,250頁。ISBN 9784094601015 (『キネマ旬報』1997年5月下旬号が初出)
  11. ^ a b c d e f g h i j k l 「NEWSOFNEWS 『映画にしたいこの"ドロ仕合" 片や原作者と監督、片やタイトルで ちと乗り過ぎた直木賞の佐木隆三氏』」『週刊読売』1976年3月20日号、読売新聞社、32頁。 「NEWSOFNEWS 『復讐されたカッコ悪い佐木氏 直木賞受賞作の映画化めぐるゴタゴタも"完"』」『週刊読売』1976年5月8日号、読売新聞社、32頁。 
  12. ^ a b 日下部五朗「『日本映画』最後のプロデューサー わが映画稼業繁盛記《『女』路線篇》」『小説新潮』2003年2月号、新潮社、387頁。 
  13. ^ 白井佳夫との対談では深作が「岡田社長から映画化OKも取った」と話している(白井佳夫『監督の椅子』話の特集、1981年、p.224
  14. ^ 「邦画新作情報『復讐~』の映画化権は今村監督が獲得」『キネマ旬報』1976年4月上旬春の特別号、pp.203-205
  15. ^ 「もめた復讐するは我にあり映画化 先約三監督とシコリ」『中日新聞』1976年3月6日夕刊
  16. ^ 「佐木隆三氏が『念書』 『復讐するは我にあり』の映画化権問題 三監督にわびを入れた形」『中日新聞』1976年3月15日夕刊
  17. ^ 「伝説の映画プロデューサー日下部五朗が明かす 有名女優たちの知られざる素顔」『週刊現代』2010年1月23日号、p.66
  18. ^ 立松和平『映画主義者 深作欣二』文藝春秋、2003年、p.155
  19. ^ 『キネマ旬報臨時増刊 映画監督深作欣二の軌跡』キネマ旬報社、2003年、p.100
  20. ^ 佐木隆三「佐木隆三のページ 勤労にいそしむ日々」『噂の真相』1983年10月号、p.120
  21. ^ 「まるで娘ひとりに婿三人・佐木隆三氏『作品映画化』での困惑ぶり」『週刊ポスト』1976年3月12日号
  22. ^ 「深夜の"団交"で念書まででた佐木隆三氏、"作品映画化争奪"の核心メモ公開」『週刊ポスト』1976年3月26日号
  23. ^ 「クロスロード 映画化権は我にあり」『週刊小説』1976年3月12日号
  24. ^ 「『映画化』にヨワかった直木賞作家の"誤算"」『週刊サンケイ』1976年3月18日号
  25. ^ 「『復讐するは我にあり』の映画化権をめぐる騒動」『流動』1976年5月号
  26. ^ 筒井康隆『腹立ち半分日記』角川文庫、1982年、p.106
  27. ^ 畑正憲『ムツゴロウの本音』文春文庫、1993年、p.92
  28. ^ 総特集=菅原文太-反骨の肖像- /【討議】ヒーローの虚像と実像(1976年)菅原文太+川本三郎」『現代思想』2015年4月臨時増刊号、青土社、39頁、ISBN 978-4-7917-1298-4 
  29. ^ 小沼勝『わが人生わが日活ロマンポルノ』国書刊行会、2012年、pp.257-259

関連項目

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外部リンク

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