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8月15日、伊33は呉を出港し、[[チューク諸島|トラック]]を経由した後に[[ソロモン諸島]]方面へ向かい、[[マキラ島|サンクリストバル島]]近海のS散開線に配備される。その後、24日の[[第二次ソロモン海戦]]に参加する。同日1105、{{coor dm|09|21|N|163|35|E|}}の地点を浮上航走中、米空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]から発進して哨戒中の[[SBD (航空機)|ドーントレス]]の空爆を受ける。伊33は急速潜航してこれを回避する。30日には米機動部隊を発見するも、攻撃位置への移動に失敗。9月25日、伊33は[[チューク諸島|トラック]]に到着。 |
8月15日、伊33は呉を出港し、[[チューク諸島|トラック]]を経由した後に[[ソロモン諸島]]方面へ向かい、[[マキラ島|サンクリストバル島]]近海のS散開線に配備される。その後、24日の[[第二次ソロモン海戦]]に参加する。同日1105、{{coor dm|09|21|N|163|35|E|}}の地点を浮上航走中、米空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]から発進して哨戒中の[[SBD (航空機)|ドーントレス]]の空爆を受ける。伊33は急速潜航してこれを回避する。30日には米機動部隊を発見するも、攻撃位置への移動に失敗。9月25日、伊33は[[チューク諸島|トラック]]に到着。 |
2021年7月21日 (水) 11:20時点における版
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(1953年に引揚げられた際の姿) | |
艦歴 | |
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計画 | 第四次海軍軍備補充計画(④計画) |
起工 | 1940年2月21日 |
進水 | 1941年5月1日 |
就役 | 1942年6月10日 |
その後 | 1944年6月13日沈没 |
除籍 | 1944年8月10日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:2,198トン 常備:2,584トン[1] 水中:3,654トン |
全長 | 108.7m |
全幅 | 9.30m |
吃水 | 5.14m |
機関 | 艦本式2号10型ディーゼル2基2軸 水上:12,400馬力 水中:2,000馬力 |
速力 | 水上:23.6kt 水中:8.0kt |
航続距離 | 水上:16ktで14,000海里 水中:3ktで96海里 |
燃料 | 重油:774トン[2] |
乗員 | 94名[3] |
兵装 | 40口径14cm単装砲1門 25mm機銃連装1基2挺 53cm魚雷発射管 艦首6門 九五式魚雷17本 |
航空機 | 零式小型水上偵察機1機 (呉式1号4型射出機1基) |
備考 | 安全潜航深度:100m |
伊号第三十三潜水艦(いごうだいさんじゅうさんせんすいかん、旧字体:伊號第三十三潜水艦)は、大日本帝国海軍の潜水艦で、伊十五型潜水艦(巡潜乙型)の14番艦。後述にあるように、3に纏わる事故が多発したことで知られる。
艦歴
1939年(昭和14年)の第四次海軍軍備補充計画(④計画)により計画され、三菱重工業神戸造船所で建造された。1940年2月21日に起工。1941年3月25日、伊号第四十一潜水艦と命名される。1941年5月1日に進水。同年11月1日、伊号第三十三潜水艦に改名される[4]。1942年6月10日に竣工した。竣工と同時に一等潜水艦に分類され、呉鎮守府籍となり、第六艦隊第1潜水戦隊第15潜水隊に編入された。
8月15日、伊33は呉を出港し、トラックを経由した後にソロモン諸島方面へ向かい、サンクリストバル島近海のS散開線に配備される。その後、24日の第二次ソロモン海戦に参加する。同日1105、北緯09度21分 東経163度35分 / 北緯9.350度 東経163.583度の地点を浮上航走中、米空母エンタープライズから発進して哨戒中のドーントレスの空爆を受ける。伊33は急速潜航してこれを回避する。30日には米機動部隊を発見するも、攻撃位置への移動に失敗。9月25日、伊33はトラックに到着。
26日、伊33は珊瑚礁に衝突し、艦首第6発射管維持針装置が損傷したため、修理を受けるために特設工作艦浦上丸(福洋汽船、4,317トン)に横付けした。修理作業中の0921、伊33は艦のバランスを崩し、艦尾ハッチから海水が侵入、33mの海底に着底した(実際は36mともいわれる)。この事故で航海長以下33名が死亡する。同日、第15潜水隊から除かれる。
浦上丸、特設運送船(給水船)立山丸(馬場商事、3,787トン)、同日豊丸(岡崎汽船、3,764トン)他救難船1隻の活躍により同年12月29日に引き上げ作業を完了。1943年(昭和18年)3月2日に日豊丸により曳航されてトラックを出港する。このとき、護衛として特設砲艦長雲丸(長崎合同運送、1,914トン)、同平壌丸(朝鮮郵船、2,627トン)、駆逐艦夕凪の護衛を受ける。船団は17日に佐伯に到着し、解散。翌18日、伊33は曳航されて呉に到着し、呉海軍工廠にて修理と改修を受ける。この時、22号電探と逆探が装備された。
1944年4月1日、伊33は呉鎮守府部隊所属となる。
6月1日、修理と改装が完了し、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊所属となる。
13日0700、伊33は訓練のため呉を出港する。0840、伊予灘で2回目の急速潜航訓練を行うが、右舷ディーゼル機関吸気用弁が閉鎖されず、機関室に浸水する。乗員はメインバラストタンクを部分的にブローする。10分後、艦首が数秒間海上に出るが、止まらない浸水により由利島付近、水深60mの海底に着底する。この時、前部魚雷発射管室に乗員13名が、電動機室に乗員31名が閉じ込められた。浸水が止まらないため、艦長以下司令塔にいた乗員は最後の脱出手段としてハッチを開放。乗員8名が脱出に成功する。彼らは由利島及び青島に向かったが、大半が行方不明となり、わずかに乗員3名が漁船に救助されるも、1名は死亡した。一方、前部魚雷発射管室に閉じ込められた乗員13名は脱出しようとするも、水圧によりハッチが開かず、大半が窒息死し、最後の乗員は自殺した。
生存者は松山海軍航空隊に連絡し、松山海軍航空隊は呉鎮守府に連絡する。その後、潜水母艦長鯨が長浜港で生存者を乗せ、着底地点に向かう。14日、伊33遭難の報により飛び立った偵察機が、重油が浮游する海域を発見。長鯨を誘導する。15日、長鯨からのダイバーが伊33を発見。司令塔内部から乗員2名の遺体を収容する。また、ダイバーは直径5cm、長さ2mの円材を発見する。呉での修理・改装中にこの木片が機関吸気用配管に入り込み、2回目の潜航訓練の時に弁に挟まったことによりできた隙間から浸水して着底したのだろうと判断された。16日、浮揚のために呉から起重機船が到着するも、同日夕方、台風による悪天候により、浮揚・救助活動が打ち切られた。事故の詳細な調査は、調査に関与する将校がサイパンの戦いに参加していたため行われず、その後の戦いでそのほとんどが戦死した。
沈没により、艦長の和田睦雄少佐以下乗員102名が死亡した。
1944年(昭和19年)8月10日除籍。
引揚
1953年(昭和28年)7月23日北星船舶工業により浮揚、前部魚雷発射室に空気が残っており引き上げ作業は難航した。前部魚雷発射室では腐敗せずに残っていた乗員13名の遺体が発見され、電動機室からは遺書などが収容された。その後日立造船因島工場(現:ジャパン マリンユナイテッド因島工場)で解体されたが、その際に元海軍技術士官だった3名が前部魚雷発射室においてガス中毒で亡くなるという事故も発生した。
ジンクス
大日本帝国海軍の潜水艦乗りには「3」またはその倍数などが不吉な数字として嫌われていたという。伊33にはとかく「3」という数字がついてまわったので、戦時中に悪い噂が流れていたといわれる。
なお、本艦の「3」にまつわるエピソードには以下のようなものがある。
- 艦名がそもそも伊「33」。
- 建造したのは「三」菱。
- 修理中の事故で「33」mの海底に着底、「33」名が死亡。
- 伊予灘での事故で漁船に救助されたのは「3」名。
- 日立造船で解体中、「3」名がガス中毒で死亡。
歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』409頁による。
艤装員長
- 小川綱嘉 中佐:1942年4月20日 -
艦長
- 小川綱嘉 中佐:1942年6月10日 -
- 和田睦雄 少佐:1944年5月4日 - 6月13日殉職
ギャラリー
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司令塔
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指令室
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充満した有毒ガスで解体作業員が犠牲となった魚雷発射室
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乗組員らの遺書
脚注
- ^ 常備排水量:2,589トンとする資料もある。
- ^ 燃料搭載量は『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』より。752.6トンとする資料もある。
- ^ 乗員数は『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』より。
- ^ 昭和16年11月1日付 海軍達 第333号。「昭和16年7月~12月 達(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070111100
参考文献
- 吉村昭 『総員起シ』 ISBN 4167169061
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0462-8
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
- 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
外部リンク
- せとうちタイムズ(写真3枚),悲運の伊33号潜水艦 ドックでの最期の姿