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2021年8月4日 (水) 11:00時点における版

河口 純之助
出生名 河口 宏之
別名 河ちゃん
生誕 (1961-04-26) 1961年4月26日(63歳)
出身地 日本の旗 日本 東京都世田谷区
学歴 東京都立桜町高等学校
ジャンル ロックJ-POP
職業 ミュージシャン
音楽プロデューサー
幸福実現党宣伝局長代理
担当楽器 ベース、ギター、コーラス
活動期間 1985年 -

河口 純之助(かわぐち じゅんのすけ、本名:河口 宏之(かわぐち ひろゆき)、1961年4月26日 - )は、日本ミュージシャンであり音楽プロデューサー。幸福実現党宣伝局長代理。元THE BLUE HEARTSベーシスト。現在はTHE LONDON TIMESギタリストとして活躍している。東京都世田谷区出身。東京都立桜町高等学校卒。既婚。

元々はTHE BLUE HEARTSのマネージャー(ライブのブッキング、宣伝等)をやる予定だったが、初代ベーシストのマサミ(望月正水)が脱退、助っ人でベースをやるが、その後正式にバンドに加入。

メジャーデビュー前のライブパンフレット、デビュー直後のファンクラブ会報等には本名の「宏之」と記載されていたが、その後の全てのメディアに於いて「純之助」と記載される。

来歴

人物像

  • 通称「河ちゃん」。
  • 自称「つっぱり」である。
  • THE BLUE HEARTS時代は自己紹介の時に「アホの町人」とよく名乗っていた。
  • 甲本ヒロト曰く、「出会った頃は痩せていて格好よく、憧れだった」。
  • 矢沢永吉の大ファン
  • 肉料理は食べない。
  • 昔から、顔が井上陽水に似ていることを周囲に指摘されている。
  • 弟が1人いる。

逸話

  • 初めて買ったギターは、ヤマハフォークギター。お金は半分は自分の小遣い、もう半分は祖母が出してくれたという。
  • 中学3年生の時に初めてバンドを組み、その後はミサイルズ、ウォールズ・アイスクリームなるバンドを結成し、ギター&ボーカル担当だった。
  • 加入の経緯に関しては、ラジオで「マネージャーとして行ったら、いきなりベースの人辞めちゃうし、なんかメチャクチャなバンドだな、と思った」と笑いながら語ったことがある。
  • ブルーハーツ加入直後は、別々に購入した琵琶型のボディとネックをくっつけたベースを使用していた。メジャーデビュー後はESP製のオリジナルモデルやフェンダープレシジョンベース等をメインで使用し、中期になるとアレンビックのベースも使用するようになった。
  • シングル「人にやさしく」のクレジットには、本名である「河口宏之」が記載されている。
  • 得意技は「ベース投げ」で、公園でよく練習していた。
  • 基本的に髪型はリーゼントだが、ブルーハーツ時代にバリカンを使って自ら散髪しようとして失敗、やむなくモヒカンにしていたこともある。
  • THE BLUE HEARTSの4thアルバム『BUST WASTE HIP』に収録されている「真夜中のテレフォン」では、初のリード・ボーカルを務める。
  • ブルーハーツ晩年にたまにステージで使用していた奇妙な塗装がしてあるグレコのベースは、元々高校時代に父親から貰ったものであり、フェンダーのケースに入っていたことから「やった!フェンダーのベースだ」と喜び勇んで開けたところ、中身はグレコのベースで、しかもコールタール漬けになっているような塗装がしてあり、ペグが折れているなど使い物になる状態では無かった。しかしブルーハーツ晩年に河口が塗装をし直し、壊れている部分も修理し使用するようになった。
  • 1990年大川隆法著『太陽の法』を読み、元々あった宗教的なものへの関心と河口にとっての「パンク=既成概念を愛をもって壊す精神」が、ひとつの線で結ばれたという。「太陽の法を読んだ時、これこそ真のパンクだと。いや、パンクの10万倍凄いことだ」と河口(『QuickJapan Vol.37』での発言)。そして1991年、幸福の科学に入局。しかしファンへの影響等を考えて口止めされていたため、ブルーハーツ解散までは公にできなかった(とはいえ、ロゴマークの入ったベースを使用していたりそれを収録したライブDVDも発売されている)が、入会以後の河口の楽曲にはその影響が見られるようになる。
  • THE BLUE HEARTS解散にあたっての雑誌インタビューで、バンドの10年を振り返ってと尋ねられて「バンドやっていた10年より、幸福の科学に出会えたことの方が大きい」と答えている。
  • 2005年5月19日の東京・渋谷AXで初めてTHE HIGH-LOWSのライブを見たという。この時の控え室で、甲本ヒロトや真島昌利と久しぶりの再会をしているところに岩城滉一がやって来て、挨拶されたことを友人に自慢している。
  • また、2008年5月6日にブルーハーツのドラマーである梶原徹也とキーボードであった白井幹夫のバンド、THE BIGHIPのライブを見に行っており、ファンにその姿を確認されている。更に同日は甲本ヒロト真島昌利もそのライブに来ていた[1]

脚注

  1. ^ 梶原のブログにて甲本と梶原、白井、河口が写った写真が掲載されている(2008年5月7日付、真島は写真に写っていなかった。)