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== 欧州の成績 ==
== 欧州の成績 ==
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2021年8月8日 (日) 10:58時点における版

ミルウォールFC
原語表記 Millwall Football Club
愛称 The Lions
クラブカラー 青・白
創設年 1885年
所属リーグ フットボールリーグ
所属ディビジョン チャンピオンシップ
ホームタウン ロンドン, サウス・バーモンジー
ホームスタジアム ザ・デン
収容人数 20,146
代表者 アメリカ合衆国の旗 ジョン・ベリルソン
監督 イングランドの旗 ギャリー・ロウェット
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

ミルウォールFCMillwall Football Club ([ˈmɪlwɔːl] or local /–ˈ–/)[1])は、イングランドロンドンサザーク・ロンドン特別区バーモンジーを本拠地とするサッカークラブチーム。

1885年、ミルウォール・ローヴァーズとしてクラブが創設される。1910年から1993年まで使用されたスタジアム名はザ・オールド・デンへと改称され、現在使用しているスタジアムをザ・デンと命名した。

チームのモットーは「俺たちはどこで戦おうとも敵を恐れない」という意味の「We Fear No Foe Where E'er We Go」。millは風車の意味から転じて工場を指す。愛称は、2匹のライオンが向かい合ったエンブレムから「ライオンズ」。ミルウォールは伝統的に、青の服、白のパンツに青のソックスをユニフォームとして用いる。彼らの多くがスコットランドからの出稼ぎ人夫であったことが、白と青を基調としたユニフォームの由来である。

ウェストハム及びレイトン・オリエントFCとライバル関係にある。特にウェストハムとは1899年から、今日まで続く根深い対立が始まっている。マスコミは、ミルウォールのサポーターをフーリガニズムと関連させたり、彼らの悪い部分だけを切り取ってと報道したりした。これらの出来事からミルウォールのチャントに"No one likes us, we don't care"「みんな俺たちのことを嫌うが、俺たちは気にしない」というものが存在する。

2004年には、FAカップで決勝に進出し、クラブ史上初の欧州の舞台となるUEFAカップの出場資格を得るなど飛躍の年となった。FAカップは1900、1903、1937、2013年にそれぞれ準決勝へ進出している。ミルウォールはその歴史の長くをフットボールリーグの2部や3部相当で過ごしているが、1988-89シーズンにはディビジョン1(当時のトップリーグ)で10位の成績を残した。これはクラブ史上最高の順位である。

1920-21シーズンから2015-16シーズンまでのリーグ戦の成績をすべて合わせると、イングランドで39番目に成功しているクラブとなる。

概要

創設からスタジアム移転まで(1885-1919)

1885年に、海運業を営むJ.T モートンの下で働く労働者によって、ミルウォール・ローヴァーズMillwall Rovers)がロンドンの、イーストエンドのドック島に設立された。1849年、食料を海上輸送するためにスコットランドアバーデーィンに創設されたその会社は、イングランドで初めて海上輸送を専門とする企業であった。1872年に、ドック島のミルウォール・ドックと呼ばれる場所に食品加工工場を建設。スコットランドのダンディーなど、国境を越えて事業を拡大していく。

ミルウォール・ローヴァーズとしての初戦は、1885年10月3日、レイトンストーンを本拠地としていたファイルブルックとの一戦である。創設間もないチームはアウェーで5‐0と惨憺たる門出となった。

1886年にイーストエンドFAが創設された。同年、当時存在したいシニア・カップにおいてミルウォールが決勝に進出。レイトンクリケットグラウンドにおいてロンドン・カレドニアルと対戦。結果は2‐2の引き分けに終わり、トロフィーは両チーム6ヶ月ずつ保有することになった。これは史上初めての試みである。その2年後にも、ミルウォールはシニア・カップの王者となった。

1889年4月、ミルウォール・ローヴァーズは彼らのクラブ名を、新たな本拠地であるアスレティック・グラウンドにならって、ミルウォール・アスレティックに変更した。1894年のサウザンリーグ設立時には、ディビジョン1の中心チームの1つとして参加し、1894/95,95/96シーズンには連覇を達成。1901年、彼らの保有会社が、アスレティック・グラウンドの土地を木材置き場として使用するとの決定から、彼らは本拠地をノース・グリーンウィッチに移すことを余儀なくされる。ミルウォール・アスレティックは1900年と1903年にFAカップ準決勝に進出。1908年と1909年にはウェスタン・フットボールリーグ連覇を達成する。

1910年、サウス・ロンドン、ニュー・クロスに新たにスタジアムを建設。ザ・デンと命名される。クラブ創設から25年間で、ドッグ島に4つの異なる本拠地を持ち、着実にサポーターを獲得していったため、ドッグ島はほとんどミルウォールの島となった。ザ・デンの建設コストは、当時のレートで10000ポンドほどと推定された。1910年10月22日、新たな本拠地で迎えた初戦は、サウザンリーグの昨シーズン王者ブライトン・アンド・ホーブ・アルビオン戦である。結果は1‐0でブライトンの勝利となった。

フットボールリーグへの参加(1920-1939)

クラブ名をミルウォールFCに変更したのち、1920年にほかの22チームと共同してフットボール・リーグを創設(1920/21シーズンから開始)。それに伴ってフットボール・リーグ・ディビジョン3が創設。ほとんどすべてのチームがサウザンリーグから離脱することを決定し、ミルウォールもこれにならった。ミルウォールのフットボール・リーグでの初戦は1920年8月28日、ザ・デンで行われたブリストル・ローヴァーズ戦である。結果は2‐0でミルウォールの勝利だった。

1925-26シーズンでは、11クリーンシートを記録。ヨークシティレディングと並んで、当時としてはリーグ史に残る記録となった。この当時、ミルウォールはカップ戦にめっぽう強いチームとして知られ、多くの印象に残る勝利をあげた。最も印象的な勝利は、1926‐27シーズン、FAカップ第3回戦のハダーズ・フィールド戦であろう。彼らは、当時の1部リーグで3連覇を達成していた強豪であったが、3部所属のミルウォールは彼らを3‐1で下した。ちなみにハダーズ・フィールドはこの年4連覇とはならず2位で終わった。27/28シーズンにはディビジョン3(南部)の王者に輝いた。この1シーズンだけで、ミルウォールは本拠地で87回ゴールを決めており、この記録は未だ破られていない。33/34シーズンに再びディビジョン3へ降格。1930年代や40年代のサンダーランド戦やダービー・カウンティ戦では、スタジアムの収容人数である48000を超える観客が観戦した。特に1937年のFAカップで、ミルウォールはディビジョン3に所属するクラブとして初めて準決勝に駒を進めたが、4回戦のダービー・カウンティ戦では48742人もの観客がスタジアムに足を運んだ。この数字は今もなお破られていない、クラブ・レコードである。ディビジョン2に所属しているにもかかわらず、ミルウォールはイングランドで11番目にファンの多いクラブとなった。そのためクラブの収益は大幅に上がった。その収益の一部を、ザ・デンの設備投資や、代表クラスの選手の獲得費用に充てた。1935年に獲得したレグ・JR・スミスはイングランド代表として2試合に出場し、2ゴールを決めている。ミルウォールは1部昇格を長期目標として掲げていたが、1939/40シーズンの最中に第二次世界大戦が勃発し、彼らの夢は一時にして打ち砕かれた。

戦争による混乱・停滞期 傷ついたライオンズ(1940-1965)

1945年4月7日、ミルウォールは旧ウェンブリー・スタジアムで開催された、フットボールリーグ・ウォー・カップに参加した。決勝ではチェルシーと対戦し2‐0でチェルシーが勝利した。しかしこれらはすべて戦時中に行われたため、公式な記録としては残らなかった。ヨーロッパでの戦争が終わるその最後の日に開催されたこの試合では、すべての観客がいがみ合うことなく平和的に観戦することを許可された。この試合の観客動員数はおよそ90000人とされており、その中には時の王ジョージ6世も含まれていた。ミルウォールが王を含む90000人の前で試合をするというのは、後にも先にもこの一度きりであろう。

多くの若者が戦争に駆り出され、多くの者がこの戦争で命を落とした。この事実はかつてクラブが掲げた1部昇格という目標の実現を、より一層困難にさせた。特にミルウォールの状況は、他クラブと比べて断然に悪かった。かつてイングランド有数のサポーター数を誇ったライオンズに、その昔の面影はなかった。1943年4月、不幸なことに、ザ・デンは戦火を免れたにもかかわらず、煙草の吸殻が原因で大火に見舞われ、もはや使い物にならなくなってしまった。そのため、チャールトン・アスレティッククリスタル・パレス、ウェストハム・ユナイテッドなどが援助を申し出て、一時的に彼らのスタジアムを使用することになった。1944年2月24日ミルウォールはザ・デンに帰還した。1年に満たずして帰還できたのは、ボランティアをはじめとする、多くのミルウォールのファンのおかげであった。ミルウォールが再びFAカップに混乱をもたらしたのは、1956‐57シーズンの4回戦である。この試合で、ミルウォールは45646人のファンの前でニューカッスル・ユナイテッドを2‐1で下したが、この時ミルウォールはディビジョン3で降格争いの真っ最中だった。

1950年代後半から60年代初頭はクラブの低迷期であった。チームはクラブ史上初めてディビジョン4へと降格し、1962年までの4シーズンをディビジョン4で過ごした。1964/65シーズンにもディビジョン4へ降格したが、翌シーズンの昇格に成功する。この日を最後に現在に至るまでミルウォールは4部でプレーしていない。

無敗記録の樹立と71年の成功(1966-1987)

1964年8月22日から67年1月14日まで、ミルウォールはホームゲーム59試合で43勝16分の無敗記録を樹立。その間55の異なるチームと対戦し、112得点33失点、35回のクリンシートを達成する。これは当時の監督ビリー・グレイと、彼の後任であるベニー・フェントンの手腕に寄るところが大きい。この功績をたたえて、FAから当時のミルウォールに所属する選手全員に、金のライターが贈呈された。のちに1978年から1981年までの63試合のホームゲームで無敗記録を樹立するリヴァプールとの一戦において、この記録は遂に途絶えた。

1970年代初頭は多くのスター選手を擁し、「71年の成功」として多くのファンの間で語り継がれている。守護神ブライアン・キングをはじめ、守備の要にハリー・クリップス、攻撃的ミッドフィルダーとしてデリク・ポゼィー、クラブで代表戦最多出場記録を持つイーモン・ダンフィー、クラブ最多出場記録を持つバリー・キッチャーが所属していたが、ディビジョン1昇格を勝ち点1差で逃した。しかし1971/72シーズンはホームゲーム無敗で終わった。これによりミルウォールは4つの異なるリーグ(1927/28シーズンのディビジョン3サウス、1964/65シーズンのディビジョン4、1965/66シーズンのディビジョン3、1971/72シーズンのディビジョン2)でホームゲーム無敗記録を樹立した。1974年、史上初めて日曜日に試合が開催される(今までは水曜日か土曜日に開催)。ミルウォールはフラムと対戦した。同年、リーグカップで準々決勝に進出する。1977年にも同カップで準々決勝へ駒を進めた。

1983年にジョージ・グラハムが39歳の若さで監督に就任する。すると1982‐83シーズンのフットボールリーグ・グループカップ決勝で、リンカーン・シティを3‐2で下しタイトルを獲得。1984‐85シーズンは、グラハム政権下で最も成功したシーズンとなる。FAカップでは準々決勝に進出し、リーグではディビジョン2へ昇格する。ホームゲームは無敗(18勝5分)で終えた。この年のFAカップで、当時ディビジョン1に所属したルートン・タウンとのアウェーゲームで、1‐0の敗北を喫した。この試合で一部サポーターが暴徒化し、31人の警察官を含む81人もの人が重軽傷を負った。

悲願の1部昇格、新スタジアム建設と新たな経営体制(1988-2000)

1986年、グラハムがアーセナルの監督に抜擢されたことに伴い、後任にスコットランド、グラスゴー出身のジョン・ドハーティが選出される。ドハーティはまだ経験が浅く、彼の手腕を不安視する声もあったが、就任から2シーズン目の1987-88シーズン、元イングランド代表テディ・シェリンガムを中心に、クラブ史上初の1部昇格を成し遂げた。それまでミルウォールはロンドンに本拠地を置くクラブの中で唯一、創立後100年間において1部でのプレー経験がないチームであった。昇格後もチームの勢いが衰えることはなかった。開幕後6試合は無敗(4勝2分)で、その年のクリスマスまでトップ5に食い込む大健闘を見せた。この活躍は、トニー・カスカリーノとテディ・シェリンガムが、それま共にプレーした3シーズンで99ゴールをたたき出していたことに大きくよるであろう。結局このシーズンは10位で終えたものの、クラブ史に残る大躍進であった。翌1989/90シーズンは、開幕のコベントリー・シティ戦こそ4-1で勝ったもののその後は不振にあえぎ、結局そのシーズンはわずか2勝しか挙げることができず20位に終わり、ディビジョン2へ降格が決定した。

チームの降格が決まる少し前、ドハーティが解任され、後任に前ミドルスブラの監督であるブルース・リオクが就任する。1990/91シーズンにテディ・シェリンガムはイングランド代表に召集され、クラブではリーグ得点王に輝く。ミルウォールは、ディビジョン2プレイオフ決勝に進出したものの、ブライトンに6‐2で敗北したため、シェリンガムはノッティンガム・フォレストに200万ポンドで移籍した。1992年にリオクがクラブを去り、昨シーズンまで選手として活動してきたミック・マッカーシーが監督に就任する。この年はプレミアリーグの創設に伴って、フットボールリーグ全体に変革が起きた年として知られている。新たに創設されたフットボールリーグ・ワンにて、1993/94シーズンにマッカーシーはチームを3位に導く。同じく1993年にスタジアムを現在のニュー・デン・スタジアムに移転(現在は、93年まで使用していたスタジアムをザ・オールド・デン、ニュー・デン・スタジアムをザ・デンと呼んでいる)。新スタジアムの鏡開きは、英労働組合トップのジョン・スミスによって、1993年8月4日に行われた。このスタジアムはイングランドで初めて立見席を廃止したスタジアムである。これはヒルズボロの悲劇の反省を踏まえたものである。1994/95シーズンのFAカップ3回戦再試合で、ミルウォールはアーセナルを、彼らの本拠地ハイバリーにて2‐0で下す。1995年には、リーグカップでも準々決勝に進出した。観客同士の衝突の中行われたプレイオフ準決勝では、ダービー・カウンティと対戦する。アグリゲートスコア5‐1でミルウォールは昇格を逃す。当時リーグ首位を走っていたサンダーランドに6‐0で敗れたのち、1996年2月5日に、マッカーシーはアイルランド代表監督に就任した。彼の後任には当時レイス・ロヴァーズの指揮を執っていたジミー・ニコルが抜擢されたが、チーム状況は上向かず22位でシーズンを終え降格が決まった。度重なる降格はクラブの財政状況を悪化させた。1997年についに破産申請をおこなう。ニコルは監督職を解かれ、クラブ安定化のためドハーティを監督へ再任させた。

ミルウォールは新たな経営体制のもと再スタートを切る。クラブの会長にはギリシャ、キプロス出身のセオ。パフィティスが就任。監督には前ウェストハムの監督であるビリー・ボンドが就任した。新体制の下で迎えた1997-98シーズンも状況は上向かず、ディビジョン2の降格圏をさまよった。ボンドはわずか一年で解任され、後任に前年まで選手として活躍していたケニス・スティーブンスが就任。彼の右腕は同じく元選手のアラン・マクリアリーが務めた。マクリアリーはのちにスティーブンスと共同で監督を務めた。2人の下でミルウォールは初めてウェンブリー・スタジアムでの公式戦に出場した。

1999年に開催されたフットボールリーグ・トロフィーでは、準決勝のジリンガム戦において、後半ロスタイムにミルウォールがネットを揺らし勝利する。決勝はウィガン・アスレティックとの対戦であったが、駆け付けた49000人のミルウォールサポータの前で、ライオンズは1‐0の敗北を喫した。1999-2000シーズンのリーグ2、プレイオフの準決勝において、またしてもウィガンと対峙したミルウォールは、アグリゲートスコア1-0で試合を終え、大舞台で二度目の敗北となった。

昇格、FAカップ決勝、ヨーロッパ(2000-2004)

2000年9月、ミルウォールの新たな監督にマーク・マクギーが招聘される。5年前にスティーブンスとともに3部リーグで争っていたチームは8か月後、ディビジョン2の王者となった。この時に記録した勝ち点93ポイントは、クラブレコードになっている。2001-02シーズン、ディビジョン1での開幕戦は、ホームでノリッチシティを迎え撃った。ミルウォールは4-0で勝利し、のちのプレイオフ出場を運命づけたかのような試合となった。ディビジョン1プレイオフ出場権を得たミルウォールは、準決勝でバーミンガムと対戦するも2-1で敗北してしまう。昇格を逃した翌シーズンは順位表の中位へと沈み、マクギーは2003-04シーズンの開幕直後に解任された。

2003年、元チェルシーFC所属でイングランド代表歴を持つデニス・ワイズが、選手兼監督としてライオンズの一員となった。ワイズは就任したシーズンに、クラブ史上初となる、FAカップ決勝へコマを進めることとなる。彼らがカーディフのミレニアムスタジアムの芝を踏んだ時、ミルウォールは1982年より2番目の、いわゆるジャイアント・キリングを起こしたチームの出場となり、現行の1部リーグ(プレミアリーグ)の設立された1992年より史上初めて、下位リーグから決勝に進出したチームとなった。しかしながらミルウォールは16名もの選手を、出場停止や負傷により戦力として失っていた。2004年5月22日、FAカップ決勝の対戦相手はマンチェスター・ユナイテッドであった。結果は3-0でユナイテッドの勝利であった。ユナイテッドはすでにUEFAチャンピオンズリーグの出場権を獲得しており、ミルウォールはUEFAカップの出場権を得た。ちなみに、89分にワイズと交代でピッチに立ったカーティス・ウェストンは、ジェイムス・プリンセップの持つカップ戦決勝での最年少出場記録を125日塗り替える、17歳と119日で出場している。2004-05 UEFAカップではハンガリーの王者 Ferencváros と対戦しアグリゲートスコア4-2で、ミルウォールは敗退した。

サポーター

ミルウォールFCが本拠地を構える周辺はロンドンでも最も治安の悪い地域のひとつで、辺りには労働者向けに建築された古めかしいアパートや住宅が建ち並ぶ。そうした建物に囲まれるように旧ホームスタジアム「ザ・デン」がある。「ザ・デン」はサポーターの粗暴から過去に数回FAにより使用停止にされているスタジアムでフーリガンとミルウォールの象徴であった。

ミルウォールサポーターの相手サポーターはもちろん、選手・審判への攻撃は日常茶飯事で、相手選手が襲撃を恐れてCKを拒否することもあった。1981/82シーズンに3つに分かれていたフーリガン勢力が合併し、ブッシュホワッカーズという一大勢力を形勢。熱狂的で過激なサポーターは80年代のフーリガニズムの代名詞になった。その際たる例が1985年3月のFA杯準々決勝ルートン・タウンFCとのアウェーゲームである。ミルウォールのフーリガンは、ピッチに乱入し、相手選手や審判を一斉に攻撃。スタンドの椅子ははぎ取られて、ルートンのファンが逃げ惑う中へと投げ込まれた。角材からナイフまで多くの武器を手にした暴徒は、200人以上の警官隊と衝突。47人が重軽傷を負い、31人が逮捕されるという事件になった。FAカップ準決勝とあって、この試合はTV中継されていたため、英国全土に恐ろしいミルウォール・フーリガンの姿が映し出された。当時のマーガレット・サッチャー首相が緊急声明を発する異例の事態になった[2]

こうした事件から、警察が介入してサポーター組織を捜査・解体に踏み切るが、事態は根絶されず暴動は続いた。特にウェストハムとはミルウォールサポーターが地下鉄駅でウェストハムサポーターに射殺されたことの報復にミルウォール側がウェストハム側のパプを破壊したことに端を発し、現在でも抗争が続く。

1993年に現在の「ニュー・デン・スタジアム」へ移転。過去の教訓を活かしスタジアム内には数多の安全対策を施している。現在では安全技術・警備技術の向上、当局の関与などで過去ほど大きな暴動は起きてはいないが、サポーターはその他チームのファンや、一般人からの凶暴なミルウォールへの侮蔑や白眼視などを織り込んだ自虐的な応援歌をロッド・スチュワートの曲"Sailing"に乗せて空に響かせている。

名称変更

  • 1885-1893 ミルウォール・ローヴァーズFC
  • 1893-1910 ミルウォール・アスレティックFC
  • 1910-現在 ミルウォールFC

タイトル

ニュー・デン・スタジアム

国内タイトル

  • フットボールリーグ・セカンドディヴィジョン: 1回
1987-88
  • フットボールリーグ・サードディヴィジョン: 2回
1968-68, 2000-01
  • フットボールリーグ・サードディヴィジョン・サウス: 2回
1927-28, 1937-38
  • フットボールリーグ・フォースディヴィジョン: 1回
1961-62
  • フットボールリーグ・トロフィー: 1回
1982-83
  • FAユースカップ: 2回
1979-80, 1991-92
  • サウザンリーグ: 2回
1895-96, 1896-97
  • ウエスタンリーグ: 2回
1908-09, 1909-10
  • ユナイテッドリーグ: 2回
1897-98, 1899-1900
  • ロンドンリーグ: 1回
1904-05
  • イーストロンドン・シニアカップ: 3回
1887-88, 1888-89, 1889-90

国際タイトル

なし

過去の成績

シーズン ディビジョン FAカップ リーグカップ 欧州カップ / その他 最多得点者
リーグ 順位 選手 得点数
1996-97 セカンドディビジョン 46 16 13 17 50 55 61 14位 1回戦敗退 1回戦敗退 フットボールリーグトロフィー 2回戦敗退 スティービー・クローフォード 15
1997-98 セカンドディビジョン 46 14 13 19 43 54 55 18位 2回戦敗退 1回戦敗退 フットボールリーグトロフィー 2回戦敗退 グラハム・ショー 13
1998-99 セカンドディビジョン 46 17 11 18 52 59 62 10位 1回戦敗退 1回戦敗退 フットボールリーグトロフィー 準優勝 ニール・ハリス 18
1999-00 セカンドディビジョン 46 23 13 10 76 50 83 5位 1回戦敗退 1回戦敗退 フットボールリーグトロフィー 1回戦敗退 ニール・ハリス 25
2000-01 セカンドディビジョン 46 28 9 9 89 38 93 1位 2回戦敗退 2回戦敗退 フットボールリーグトロフィー 2回戦敗退 ニール・ハリス 28
2001-02 ファーストディビジョン 46 22 11 13 69 48 77 4位 2回戦敗退 4回戦敗退 - スティーブ・クラリッジ 18
2002-03 ファーストディビジョン 46 19 9 18 59 69 66 9位 1回戦敗退 4回戦敗退 - スティーブ・クラリッジ
ニール・ハリス
12
2003-04 ファーストディビジョン 46 18 15 13 55 48 69 10位 準優勝 1回戦敗退 - ティム・ケーヒル 12
2004-05 チャンピオンシップ 46 18 12 16 51 45 66 10位 3回戦敗退 3回戦敗退 UEFAカップ 2004-05 1回戦敗退 バリー・ヘイルズ 12
2005-06 チャンピオンシップ 46 8 16 22 35 62 40 23位 2回戦敗退 3回戦敗退 - ベン・メイ 11
2006-07 フットボールリーグ1 46 19 9 18 59 62 66 10位 2回戦敗退 3回戦敗退 フットボールリーグトロフィー 準々決勝敗退 ダレン・バイフィールド 16
2007-08 フットボールリーグ1 46 14 10 22 45 61 52 17位 1回戦敗退 4回戦敗退 フットボールリーグトロフィー 1回戦敗退 ゲイリー・アレクサンダー
ジェイ・シンプソン
8
2008-09 フットボールリーグ1 46 25 7 14 63 53 82 5位 1回戦敗退 4回戦敗退 フットボールリーグトロフィー 1回戦敗退 ゲイリー・アレクサンダー 15
2009-10 フットボールリーグ1 46 24 13 9 76 44 85 3位 2回戦敗退 3回戦敗退 フットボールリーグトロフィー 1回戦敗退 スティーヴ・モリソン 23
2010-11 チャンピオンシップ 46 18 13 15 62 46 67 9位 3回戦敗退 3回戦敗退 - スティーヴ・モリソン 17
2011-12 チャンピオンシップ 46 15 12 19 55 57 57 16位 3回戦敗退 5回戦敗退 - ダリウス・ヘンダーソン 19
2012-13 チャンピオンシップ 46 15 11 20 51 62 56 20位 1回戦敗退 準決勝敗退 - クリス・ウッド 11
2013-14 チャンピオンシップ 46 11 15 20 46 74 48 19位 2回戦敗退 3回戦敗退 - マーティン・ウールフォード 9
2014-15 チャンピオンシップ 46 9 14 23 42 76 41 22位 2回戦敗退 3回戦敗退 - リー・グレゴリー 9
2015-16 フットボールリーグ1 46 24 9 13 73 49 81 4位 1回戦敗退 3回戦敗退 フットボールリーグトロフィー 準優勝(南) リー・グレゴリー 27
2016-17 フットボールリーグ1 46 20 13 13 66 57 73 6位 2回戦敗退 準々決勝敗退 EFLリーグトロフィー 2回戦敗退 スティーヴ・モリソン 19
2017-18 チャンピオンシップ 46 19 15 12 56 45 72 8位 4回戦敗退 2回戦敗退 - リー・グレゴリー
ジョージ・サヴィル
10
2018-19 チャンピオンシップ 46 10 14 22 48 64 44 21位 準々決勝敗退 3回戦敗退 - リー・グレゴリー 10
2019-20 チャンピオンシップ 46 17 17 12 57 51 68 8位 4回戦敗退 2回戦敗退 - マット・スミス 13
2020-21 チャンピオンシップ 46 15 17 14 47 52 62 11位 3回戦敗退 1回戦敗退 - ジェド・ウォレス 11
2021-22 チャンピオンシップ 46 -

欧州の成績

シーズン 大会 ラウンド 対戦相手 ホーム アウェー 合計
2004-05 UEFAカップ 1回戦 ハンガリーの旗 フェレンツヴァーロシュ 1-1 1-3 2-4

現所属メンバー

2021年7月2日現在[3]

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
1 GK イングランド ジョージ・ロング
3 DF スコットランド マレー・ウォレス
4 DF イングランド ショーン・ハッチンソン
5 DF イングランド ジェイク・クーパー
7 MF イングランド ジェド・ウォレス
8 MF イングランド ベン・トンプソン
9 FW ウェールズ トム・ブラッドショー
10 FW イングランド マット・スミス
12 DF アンティグア・バーブーダ マーロン・ロメオ
14 DF イングランド スコット・マローン
15 DF アイルランド アレックス・ピアース ()
16 MF オランダ マイケル・キーフテンベルト
No. Pos. 選手名
18 MF イングランド ライアン・レオナード
20 FW イングランド メイソン・ベネット
21 MF イングランド コナー・マホーニー
22 FW アイスランド ヨン・ダズィ・ベズヴァルソン
23 DF イングランド ダニー・マクナマラ
24 MF イングランド ビリー・ミッチェル
28 MF イングランド ジョージ・エヴァンス
32 MF イングランド タイラー・ビューリー
33 GK ポーランド バルトシュ・ビャウコフスキ
-- DF 北アイルランド ダニエル・バラード
-- MF 北アイルランド ジョージ・サヴィル
-- FW コンゴ民主共和国 ベニク・アフォベ
監督

ローン移籍選手

in

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
-- DF 北アイルランド ダニエル・バラード (アーセナルFC)
No. Pos. 選手名
-- FW コンゴ民主共和国 ベニク・アフォベ (ストーク・シティFC)
out

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名

歴代監督

歴代所属選手

関連項目

脚注

  1. ^ Millwall pronunciation in English”. Forvo. 2016年5月9日閲覧。
  2. ^ フットボールコラム:ミルウォール”. Soccer Days (2003年9月19日). 2011年1月24日閲覧。
  3. ^ First Team”. ミルウォールFC. 2021年7月14日閲覧。

外部リンク