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ワーナーからの独立後、カサブランカのオフィスはかつてゴールドスター・スタジオがあったサンセット大通りに移転し、そこでは、[[ハーブ・アルパート]]が初期のレコーディングの多くを行った。
ワーナーからの独立後、カサブランカのオフィスはかつてゴールドスター・スタジオがあったサンセット大通りに移転し、そこでは、[[ハーブ・アルパート]]が初期のレコーディングの多くを行った。


[[1976年]]後半に[[ポリグラム]]がカサブランカの全株式の50%を取得、元[[コロンビア映画]]の幹部であった[[ピーター・グーバー]]に率いられた新興映画会社のFilmworks Inc.と統合され、新たに'''カサブランカ・レコード・アンド・フィルムワークス (Casablanca Record and Filmworks, Inc.)'''となる。グーバーが会長職に就いたが、ボガートは引き続きカサブランカの社長を務めた。しかし当時カサブランカには、違法薬物、売春、その他の違法行為との絡みが指摘されてもいた。
[[1976年]]後半に[[ポリグラム]]がカサブランカの全株式の50%を取得、元[[コロンビア ピクチャーズ]]の幹部であった[[ピーター・グーバー]]に率いられた新興映画会社のFilmworks Inc.と統合され、新たに'''カサブランカ・レコード・アンド・フィルムワークス (Casablanca Record and Filmworks, Inc.)'''となる。グーバーが会長職に就いたが、ボガートは引き続きカサブランカの社長を務めた。しかし当時カサブランカには、違法薬物、売春、その他の違法行為との絡みが指摘されてもいた。


カサブランカは、ドナ・サマー、キッス、パーラメントの3つが同時にヒットしたことで一気に繁栄したが、キッスの迷走と時期を同じくしてレーベル自体も衰退していった。<br>
カサブランカは、ドナ・サマー、キッス、パーラメントの3つが同時にヒットしたことで一気に繁栄したが、キッスの迷走と時期を同じくしてレーベル自体も衰退していった。<br>

2021年8月17日 (火) 23:40時点における版

カサブランカ・レコード
親会社ユニバーサルミュージック
設立1973年6月13日
設立者ニール・ボガート、セシル・ホルムズ、ラリー・ハリス、バック・ラインゴールド
販売元ユニバーサル・モータウン・リパブリック・グループ
ジャンルVarious
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
本社所在地ニューヨーク
公式サイトCasablanca-Music.com

カサブランカ・レコード (Casablanca Records)は、1973年ニール・ボガートらによって設立されたアメリカレコードレーベル1970年代から80年代にかけて、キッスドナ・サマーシェールヴィレッジ・ピープルパーラメントなどのヒットを生み出した。
1980年代に一旦事業を終了し、2000年に全く別の事業体としてその名前が復活している。

なお、1980年代にポリスターが日本盤の発売元となっていた関係で、ポリスター所属の日本人アーティストにもこのレーベルを冠していた時期があり、アリス谷村新司堀内孝雄のソロ作品含む)、大西結花伊藤銀次などの作品がカサブランカ・レーベルから発売されている。

歴史

1973年、ニール・ボガート、セシル・ホルムズ、ラリー・ハリス、バック・ラインゴールドの4人がワーナー・ブラザース・レコードからの出資を受けて設立(まもなくボガート以外の3人は離脱)。

元々、ボガートは「オズの魔法使い」に登場する都市の名前「エメラルド・シティ」(Emerald City)を新レーベルの名前の候補に考えていたが、出資元のワーナーが持っていた映画カサブランカのタイトルを拝借してカサブランカ・レコードに決定した。『カサブランカ』の主演を務めたハンフリー・ボガートと自分が同姓であったため、話題づくりにもなるだろうとの読みもあった。

カサブランカがリリースした初のシングルはビル・エームズベリーの「Virginia (Touch Me Like You Do)」、初めて自前で契約したアーティストはハードロックグループキッスであった。

当時カサブランカは、1974年11月にリリースしたジョニー・カーソンの2組のレコードの売り上げ予測ミスで大量在庫を抱え、経営が悪化していた。しかし、キッスの『地獄の狂獣』が大ヒットし、レーベルは倒産の危機を免れた[1]。その後、ドナ・サマーのヒットのおかげで、カサブランカはディスコ・ミュージックの領域でも人気が出た。

ワーナーからの独立後、カサブランカのオフィスはかつてゴールドスター・スタジオがあったサンセット大通りに移転し、そこでは、ハーブ・アルパートが初期のレコーディングの多くを行った。

1976年後半にポリグラムがカサブランカの全株式の50%を取得、元コロンビア ピクチャーズの幹部であったピーター・グーバーに率いられた新興映画会社のFilmworks Inc.と統合され、新たにカサブランカ・レコード・アンド・フィルムワークス (Casablanca Record and Filmworks, Inc.)となる。グーバーが会長職に就いたが、ボガートは引き続きカサブランカの社長を務めた。しかし当時カサブランカには、違法薬物、売春、その他の違法行為との絡みが指摘されてもいた。

カサブランカは、ドナ・サマー、キッス、パーラメントの3つが同時にヒットしたことで一気に繁栄したが、キッスの迷走と時期を同じくしてレーベル自体も衰退していった。
1980年に不正会計と売り上げ不振のためボガートは解雇されたが、ヴィレッジ・ピープルやサンタ・エスメラルダなどの人気ディスコ・グループを持っていたおかげで、ボガートは彼の残りのシェア獲得のためのポリグラム交渉を有利に進めることができた。ボガートは、インディペンデント・レーベルボードウォーク・レコードを設立して、ジョーン・ジェットを獲得したが、1982年に癌でこの世を去り、レーベルも消滅した。

1979年以降、カサブランカにおける特筆すべきリリースは、ロビン・ウィリアムズのコメディ・アルバム『Reality、What A Concept!』 (1981)、映画『フラッシュダンス』(1983)のサウンドトラックなど。ベテランのダスティ・スプリングフィールドが吹き込んだ『White Heat』は、レーベル内の混乱によりプロモーションが思ったように展開できず、大きな話題にならなかった。結局、全契約アーティストとカタログをマーキュリー・レコードに譲渡し、カサブランカは一旦その歴史に幕を閉じた。

2000年、ユニバーサルミュージックとトミー・モトーラとの合弁事業でカサブランカの名前が復活。 モトーラはあこがれのレーベル名を選んだが、新レーベルと過去のカサブランカ・レコードとの間に事業面での継続性はない。 現在、新カサブランカ・レコードは、ユニバーサル・モータウン・リパブリック・グループ (Universal Motown Republic Group) の一部として活動中。 直近では、2009年秋にミーカのセカンドアルバムBoy Who Knew Too Muchと、ライアン・レスリーのセカンドアルバムTransitionをリリースしている。

現在の所属アーティスト

過去の主な所属アーティスト

参考

映画制作部門のカサブランカ・フィルムワークスは、ピーター・イエーツ監督の『ディープ』(1977年)、アラン・パーカー監督の『ミッドナイト・エクスプレス』(1978年)などのヒット作を世に出した。

脚注

  1. ^ 当時、『地獄の狂獣』はスタジオで何重にもオーバー・ダビングを重ねた疑似ライヴだという噂が一部で流れたが、現実的にそのようなスタジオ作業の費用は当時のカサブランカには捻出できず、このアルバムはほとんどライヴ本番ありのままのサウンドが収録されている。1977年リリースの2枚目のライヴ盤『アライヴ2』では資金が潤沢になり、スタジオでの加工がふんだんに施されている。

外部リンク