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[[画像:Kagoshima Kiire-gun.png|frame|鹿児島県給黎郡の位置]] |
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'''給黎郡'''(きいれぐん)は、[[鹿児島県]]([[薩摩国]])にあった[[郡]]。 |
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2021年9月6日 (月) 10:36時点における版
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。
歴史
近世以降の沿革
- 明治初年時点では全域が薩摩鹿児島藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での村は以下の通り[1]。(8村)
- 知覧郷 - 永里村、瀬世村、東別府村、厚地村、西別府村、郡村(現・南九州市)
- 喜入郷 - 下村、上村(現・鹿児島市)
- 明治4年7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により鹿児島県の管轄となる。
- 明治11年(1878年)(10村)
- 下村が分割して前之浜村・生見村となる。
- 上村が分割して中名村・瀬々串村となる。
- 明治12年(1879年)2月17日 - 郡区町村編制法の鹿児島県での施行により、行政区画としての給黎郡が発足。「知覧郡役所」が管轄。
- 明治15年(1882年) - 西別府村が分割して西元村・塩屋村となる。(11村)
- 明治16年(1883年) - 東別府村の一部が分立して南別府村となる。(12村)
- 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、各郷に喜入村、知覧村が発足。(2村)
- 明治30年(1897年)4月1日 - 郡制の施行のため、下記の変更が行われる[2]。同日給黎郡廃止。
脚注
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 46 鹿児島県、角川書店、1983年3月1日。ISBN 404001460X。
- 旧高旧領取調帳データベース
関連項目
先代 ----- |
行政区の変遷 - 1897年 |
次代 川辺郡・揖宿郡 |