「畝傍 (防護巡洋艦)」の版間の差分
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2021年9月18日 (土) 07:15時点における版
畝傍 | |
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1886年10月18日、ル・アーヴル港の岸壁を離れた畝傍[1] | |
基本情報 | |
建造所 | Societe des Forges et Chantiers(フランス、ル・アーヴル)[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 防護巡洋艦[3] |
建造費 | 契約時金額:5,175,420フラン[4] |
母港 | 横須賀[5][6] |
艦歴 | |
計画 | 1883年度計画 |
発注 | 1884年5月28日契約[7] |
起工 | 1884年5月27日[8][3] |
進水 | 1886年4月6日[9][3] |
竣工 | 1886年10月18日出港[8] |
最期 | 1886年12月3日シンガポール出港後行方不明[8][10] |
その後 | 1887年10月19日亡失認定[8][10] |
要目 | |
排水量 | 計画:3,615トン[11][12] |
長さ |
98.00m[11] または垂線間長321 ft 6 in (97.99 m)[13][注釈 1] |
幅 |
13.10m[11] または最大幅43 ft 0 in (13.11 m)[12] |
水線幅 | 42 ft 8 in (13.00 m)[13] |
深さ | 8.50m[11] |
吃水 |
中央 5.70m[11] または平均:18 ft 9 in (5.72 m)[13] |
ボイラー | 低円缶 9基[12][14] |
主機 | 横置斜動2段2気筒レシプロ 2基[12][15] |
推進 | 2軸[16][15] |
出力 |
計画:強圧通風5,500馬力[11][12]、自然通風3,800馬力[11] または6,000馬力[15] |
速力 |
計画:17.5ノット[12] 公試:18.36ノット[注釈 2] |
燃料 | 石炭700トン[要出典] |
乗員 |
定員:400名[17] 喪失時乗員95名、日本人便乗者1名[18]、他 |
兵装 |
35口径24cm単装砲 4門[16][19] 35口径15cm単装砲 7門[16][19] 6ポンド砲 2門[19] ノルデンフェルト式25mm4連装機砲 10基[20] ノルデン6ポンド連発砲 2基[20] ガトリング機砲 4基[20] 発射管4門(計画2門[11]) |
装甲 |
計画:50mm(または2.5インチ)[11] 甲板:2.33in(59.2mm)[21] 甲板傾斜部:62 mm 上部装甲帯:125 mm バーベット、砲塔、ケースメイト:150 mm[要出典] |
搭載艇 | 計画:蒸気船1隻、端舟7隻[11] |
畝傍(うねび、旧仮名:ウ子ヒ[22])は[23]、大日本帝国海軍の防護巡洋艦である。フランスで建造された最初の日本海軍軍艦で、1886年(明治19年)10月に完成、日本に回航される途中、同年12月上旬にシンガポール出発後、消息不明となった[24][10]。
艦名は奈良県の畝傍山より名づけられた[25]。 正式な艦名は「畝傍艦」である[26]。
艦歴
計画
来る対清戦争に備えて、海軍卿川村純義により出された軍艦船増強の建議により購入された、大甲鉄艦3隻のうちの1隻(他の2隻はイギリス製の浪速と高千穂)[27]。 本艦の外見はやや旧式な3檣バーク型機帆船だが、防護甲板を備えた防護巡洋艦になる。機関航行時の速力は18.5ノット。甲板上に24センチ砲4門、15センチ砲7門、35.6センチ水上魚雷発射管4門を備える。[要出典]
建造
1884年(明治17年)、価格153万円でフランスの地中海鉄工造船所(FCM)[注釈 3]のル・アーヴル造船所に発注された。 同年5月27日、起工[25]。 6月5日、日本海軍は本艦を正式に畝傍と命名した[23][22]。 候補艦名は畝傍の他に、蜻蛉(あきつ)、磐余(いわれ)があった[28]。
日本回航
畝傍は1886年10月16日に日本へ出発の予定だったが、風雨のために出港が2日ほど伸ばされた[31]。 10月18日[32][25]、 畝傍はフランス人艦長ルフェーブルの指揮下、北フランスのル・アーヴルから日本へ向けて出港した。 飯牟礼俊位海軍大尉以下日本海軍将兵(日本側回航員)[33]、 駐日フランス人の家族を乗せ、造船所雇用のフランス人乗員70数名の手によって回航。[要出典] 12月3日、寄港地シンガポールを出港(12月14日から15日に横浜港到着予定)[25][34]。 シンガポール出港時の乗員はフランス人79名、アラブ人火夫9名、日本人は回航員7名の他に海軍生徒1名が便乗していた[18]。 その後、南シナ海洋上で行方不明となる[35]。 12月下旬、甲鉄艦扶桑や海門が土佐沖から八丈島にかけての海面捜索を実施[34]。 諸外国船も捜索に協力したが手がかりは得られず[36][37][38][39]、 謎の失踪となった[25][40]。 全乗客乗員計90名の消息は未だ不明である。[要出典] 1887年(明治20年)10月19日、亡失認定[25][35]。 この時に日本人乗員の死失も認定された[8][41]。
その後
日本は軍艦の回航に保険をかけており、1,245,309円の保険金が下りたので、畝傍の代艦として巡洋艦千代田をイギリスに発注した[42]。 また畝傍の同型艦となる予定だった防護巡洋艦秋津洲(横須賀海軍工廠建造)は、イギリス式の巡洋艦として再設計・建造されることになった[43]。
また、日本は畝傍の建造費の残額を払う必要が無くなったが、フランスは残額を回収するため、水雷砲艦千島を建造した。しかし千島も回航中の1892年(明治25年)11月30日、瀬戸内海でイギリス商船と衝突、沈没してしまった(千島艦事件)[44][45][46]。
なお、畝傍の名は当艦が初代であるが、この亡失により縁起が悪い名前であると言われるようになり、現状では後の艦に継承されていないため1代限りの名称となっている。
青山霊園に畝傍の記念碑および関係者墓地がある。
消息不明の原因に関する諸説
本艦はフランス艦伝統のタンブル・ホーム(英語版)構造を採用した結果、甲板面積が狭くなり、その狭さを上部構造物を高くすることで補ったためにトップ・ヘビーで復原性が不足するという、フランス艦伝統の欠陥まで併せ持っていた[47]。さらに三本マストに加え、日本側の意向により過大な武装を搭載したため、トップ・ヘビーと復元力不足がさらに増大しており、そのため南シナ海で設計の想定外である台風に遭遇して転覆沈没したという見方が有力である[48]。また台風でなくとも、急に舵を切ると艦が大きく傾斜し、そこに横波を受けると復原力不足から一瞬で転覆する危険性もあった。畝傍の喪失は、日本海軍がフランス式の設計をとりやめる一因になった[43]。
喪失当時、台風で沈没したとしても普通は何らかの漂流物が見つかるものであると考えられていたが、何も見つからなかったため、「畝傍は南洋の無人島に漂着して修理している」[49]、「畝傍は海賊に拿捕され海賊船として活動している」[50]、「畝傍は清国海軍に撃沈された」[51]など、様々な憶測が語られた[49][52]。 冒険小説家押川春浪は、西南戦争を生きのびた西郷隆盛が畝傍に乗船してシベリアを冒険するという小説を発表した[49]。 中にはこっそり後をつけてきたロシア帝国海軍に捕獲されたというものまであり、この噂は日露戦争の際に「捕獲された畝傍がバルチック艦隊の一員として日本に襲来する」と言われるまでになったと伝わる。[要出典]
登場作品
[要出典]
- 『宇宙一の無責任男』
- 吉岡平によるライトノベルシリーズ。第2巻『明治一代無責任男』に登場。このシリーズでは、畝傍はラアルゴン帝国のタイムワープ実験によって7000年後の未来の宇宙空間に飛ばされてしまった。という設定になっている。
- 『海から来たサムライ』
- 矢作俊彦による明治期のアメリカに併合されるハワイを舞台にした冒険小説。アメリカに拿捕され、武装を奪われた畝傍がハワイ沖に遺棄されている。武装はダイヤモンドヘッド要塞に設置されている。
- 『海底軍艦シリーズ』
- 押川春浪による1900年代の少年小説。このシリーズでは、畝傍は南海の孤島に漂着した後、そこで秘密組織「東洋団結」によって「第二うねび」「第三うねび」といった同型艦が量産されていた。という設定になっている
- 『新戦艦高千穂』
- 平田晋作による1930年代の少年小説。本作では、畝傍艦は北極を探検中に遭難したことが判明し、その結果北極が日本領土となった。という設定になっている。
- 『信天翁航海録』
- raiL soft が2010年(平成22年)に発売したノベルゲーム。消失した畝傍のその後を描いた作品。
- 『魔界都市<新宿>』
- 菊池秀行による1980年代のライトノベル。主人公十六夜(いざよい)京也が訪れた新宿中央公園上空には世界中の異次元空間とつながる「がまぐち」と呼ばれる通路があり、堆積する漂着物の山の中に畝傍も存在していた。
脚注
注釈
- ^ #帝国海軍機関史(1975)上巻p.526(第二巻一九四頁)によると垂線間長323 ft 6 in (98.60 m)
- ^ #公文備考別輯畝傍上/艦体(9)画像2-3『畝傍艦ノ公試運転ハ本日(九月二日)施行シ速力ハ十八節三六ナリ委細ハ郵便』による。同画像16-20の若山三等技監の報告によると2時間平均速力を計算すると18.28ノット。造船会社の主張は速力18.37ノットであり、これらの数値は褒賞金に関わる問題だった。
- ^ フランス南東部ヴァール県の都市、ラ・セーヌ=シュル=メールに本社を置く造船会社。第一次世界大戦及び戦間期にはシャール 2CやFCM36といった戦車も開発・製造した
出典
- ^ #海軍艦艇史2p.40、写真No.2048の解説
- ^ #日本の戦艦(上)2001p.20
- ^ a b c #日本の戦艦(上)2001p.26
- ^ #公文備考別輯畝傍上/艦体(6)画像29、畝傍艦製造條約、第17條
- ^ #公文備考別輯畝傍上/回航手続(1)画像16-17
- ^ #畝傍横須賀所轄画像1「十一月五日 畝傍艦ヲ横須賀鎮守府ノ所轄ト定ム 海軍省達海軍一般 要第七三八号ノ二 畝傍艦横須賀鎮守府所轄ト定メラル此旨心得ベシ 十九年十一月5日」
- ^ #公文備考別輯畝傍上/艦体(6)画像31、畝傍艦製造條約
- ^ a b c d e #艦船名考(1928)pp.54-55
- ^ #公文備考別輯畝傍上/艦体(8)画像37、『赤松宛 若山 本月六日伏見宮ノ面前ニテ畝傍艦ノ進水式ヲ執行シ満足ノ結果ヲ得タリ 八十六年四月八日発』
- ^ a b c #明治の海軍物語コマ55(原本93)『明治二十年十月十九日軍艦畝傍が支那海に於て亡没せるものと認定され、大センセーションを起した。同艦は佛國フォルヂ・エー・シヤンチエー社で建造された三千六百十五噸の巡洋艦で、明治十九年四月進水、同年十月竣工、十月十八日佛國を發し、本邦への回航の途中、十二月三日新嘉坡出港以後其の行衛が不明になつたのであつた。』
- ^ a b c d e f g h i j #公文備考別輯畝傍上/艦体(6)画像7-10、フォルヂェシャンチェー會社ノセルラル○舩
- ^ a b c d e f #帝国海軍機関史(1975)上巻p.526(第二巻一九四頁)
- ^ a b c #日本の戦艦(上)2001p.106
- ^ #日本の戦艦(下)2001p.42
- ^ a b c #日本の戦艦(下)2001p.48
- ^ a b c #公文備考別輯畝傍上/艦体(6)画像6
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.171、明治19年1月21日(丙2)畝傍外七艦定員
- ^ a b #公文備考別輯畝傍中/捜索(9)画像15。#公文備考別輯畝傍上/回航手続(2)画像11-12。#公文備考別輯附属/軍艦畝傍艦捜索一件 艦政局扱(1)画像9
- ^ a b c #日本の戦艦(下)2001p.152
- ^ a b c #公文備考別輯畝傍上/兵器船具(2)画像29-30、明治19年10月15日附畝傍甲第36号
- ^ #日本の戦艦(上)2001p.216
- ^ a b #海軍省畝傍命名p.1『六月五日 海軍省佛國ニ於テ新造ノ巡洋艦ニ名ヲ命ス』
- ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ197『◎軍艦畝傍命名ノ件 明治十七年六月五日(丙九〇)今般佛國注文セシ軍艦ヲ
畝 傍 ト命名ス此旨爲心得相達候事』 - ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ237(原本82頁)『一、初めて軍艦を佛國に註文す―明治十七年(一八八四)「畝傍」ヲ註文し、明治十九年竣工、本邦への回航途次「シンガポール」出發後行衛不明トナル』
- ^ a b c d e f #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ31(原本35頁)『傍畝(うねび) 艦種巡洋艦 三檣「バーク」 艦名考山名に採る、畝傍山は大和國高市郡に在り、白橿村の中央に起る一座の丘陵にして他に連接せず、土俗之を慈明寺山と呼ぶ、此地神武天皇創國の皇居(橿原宮)の在しり所なるを以て人口に膾炙す、今畝傍山の東南に橿原神宮、東北に神武天皇御陵あり。
艦歴明治19年4月佛國にて進水、同年10月18日佛國を發し本邦への回航の途中、12月3日、新嘉坡投錨以後其の踪跡不明と爲り、遂に同20年10月19日に至り、亡没せるものと認定せられたり。
―要目― 長322呎/幅43呎/吃水918呎6吋/排水量3,615噸/機關 汽雙螺旋/馬力5,500/速力17.5/乗組人員 /船材 鋼/兵装 24拇克砲 4/15拇克砲 7/機砲 8/6听速射砲 2/發射管4/起工 明治17-5-27/進水 同19-4/竣工 同19-10/建造所 佛國フォルヂ・エー・シャンチェー社』 - ^ 明治20年10月19日官報第1293号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○海軍省告示第四號 畝傍艦昨年十二月三日横濱ニ向ヒ新嘉坡解纜以來踪跡ヲ得サルニ依リ亡没シタルモノト認定シ乗員モ亦死失ト見做シ之カ處分ヲ爲ス 明治二十年十月十九日 海軍大臣伯爵西郷從道』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ22『明治十七年 一月小野濱造船所ヲ神戸ニ設置シテ主船局ノ所管トシ艦船ノ製造修理ヲ行ハシメラル(二十三年三月止)/此ノ年畝傍ノ製造ヲ佛國ニ註文シ浪速及高千穂ヲ英國ニテ、武藏ヲ横須賀造船所ニテ起工シ第二、第三、第四水雷艇竣工ス/同年十一月十八日外國ヘ註文セル軍艦ノ本邦廻航ニ關スル事務ハ主船局ニ、其ノ乗員ニ關スル主務ハ軍事部ニ各所掌ヲ定ム』
- ^ #仏国注文巡洋艦名号pp.5-6『
蜻 蛉 |畝 傍 |磐 余 』 - ^ 「月曜会記事 第17号 明治19年11月印刷(3)p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C15120183900 『新艦畝傍號(略)畝傍號ハ日本政府ノ注文ニ由リ地中海鍛鉄造舩會社ノ製造セル所ニシテ本年四月六日其進水式ヲ行ヒタリ(以下略)』
- ^ #海軍艦艇史2p.41、写真No.2049の解説
- ^ #公文備考別輯畝傍上/回航手続(1)画像25
- ^ 明治19年10月23日官報第996号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○軍艦發着 畝傍艦ハ去ル十八日佛國ヲ出艦セリ(海軍省報告)』
- ^ #明治文明綺談コマ86-87(原本159-160頁)『明治の紀聞』
- ^ a b 明治20年3月2日官報第1098号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○畝傍艦捜索顛末』
- ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ22『明治十九年 軍艦畝傍佛國ヨリ囘航ノ途次十二月二十五日新嘉坡ヲ出港後踪跡不明トナル(二十年十月十九日亡没ト認定ス)此ノ年起工セラレタルモノハ満珠、干珠、鳥海、愛宕、高雄及赤城ニシテ竣工ヲ見タルハ前記畝傍ノ外浪速及高千穂ナリ』
- ^ 明治20年3月3日官報第1099号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○畝傍艦捜索顛末(昨二日ノ續)』
- ^ 明治20年3月4日官報第1100号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○畝傍艦捜索顛末(昨三日ノ續)』
- ^ 明治20年3月7日官報第1102号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3-4『○畝傍艦捜索顛末(一昨五日ノ續)』
- ^ 明治20年3月8日官報第1103号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3-4『○畝傍艦捜索顛末(一昨七日ノ續)』
- ^ #S05、海軍写真帖コマ29『軍艦龍驤と畝傍』
- ^ #公文備考別輯畝傍下/保険金(1)画像1、明治20年10月19日告示第4号
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ22『明治二十年 畝傍ノ保險金一,二四五,三〇九圓ノ収入ニヨリ其ノ代艦トシテ千代田ノ製造ニ着手シタル外、八重山及水雷艇小鷹ヲ起工シ葛城及大和ヲ竣工ス』
- ^ a b #日本巡洋艦物語284-285頁『なぜ一隻のみで終わったか』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ223(原本55頁)『同(明治)二五・一一・三〇|軍艦千鳥、愛媛縣堀江沖ニテ英船「ラヴェンナ」號ト衝突沈没ス』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ39(原本51頁)『千島(ちしま) 艦種砲艦 三檣「スクーナー」型 艦名考地名(北海道千島)に採る。艦歴明治25年4月1日佛國にて竣工、同月佛國出發、同年11月24日長崎着、同月30日愛媛縣堀江(現・松山市)沖に於て英國商船ラベンナ號と衝突沈没。
―要目― 長233呎/幅25呎6吋/吃水9呎6吋/排水量750噸/機關 汽雙螺旋/馬力5,000/速力22/乗組人員99/船材 鋼/兵装 速射砲11/起工 明治23-1-29/進水 同23-11-26/竣工 同25-4-17/建造所 佛國ロワールール社』 - ^ #明治の海軍物語コマ64-65(原本111-112頁)
- ^ #明治文明綺談コマ92-93(原本170-172頁)『畝傍の行方の巷説』
- ^ #明治文明綺談コマ88-90(原本163-167頁)『國民の落膽』
- ^ a b c #明治文明綺談コマ88(原本162-163頁)『三年の日子を費ひ、百六十萬弗といふ大金を支拂ふ新鋭艦であつてみれば、國民がその行方不明に對して、どうしても諦めきれなかつた氣持は、想像出來るのである。畝傍艦は南洋の孤島に漂着して、そこで故障の修理をしてゐるのだらうと考へるのは、一番無理のない所であらう。/大分昔になる押川春浪が冒險小説を書いて、大いに當時の中學生などを熱狂させたものだが、その中には盛んに此の行方不明になつた「畝傍」が現れてきて、劍侠美女をのせて活躍してゐる。「畝傍」はやはり南洋方面の無人島にかくれてゐて、謎の軍艦として支那海を暴れ廻り、日本に仇なすものをやつゝけるのである。/同じくこれらの小説の中には、城山で戰死したと思はれた西郷隆盛が生きてゐて、怪人としてシベリアを舞臺に活躍するのである。/畝傍艦と云ひ西郷隆盛と云ひ、明治時代に生を享けた人間にとつては、そのまゝで忘れられるのは惜しくてならないのである。/押川春浪が書いたのは空想小説で、傳説ではないが、これは一種の「英雄不死傳説」であり、讀者にうけるわけだつたのである。』
- ^ 幼年冒険小説集コマ10-11(原本2-4頁)『〔一〕噂の幽霊船』
- ^ 幼年冒険小説集コマ14-15(原本10-12頁)『〔四〕恨みは長し畝傍艦』
- ^ #明治文明綺談コマ90-92(原本167-170頁)『畝傍の行方の巷説』
参考文献
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X。
- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 下』グランプリ出版、2001年5月。ISBN 4-87687-222-8。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 日本巡洋艦史(『世界の艦船』2012年1月号増刊、海人社)
- 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『海軍艦艇史 2 巡洋艦コルベット・スループ』KKベストセラーズ、1980年6月。
- *福井静夫『日本巡洋艦物語 福井静夫著作集/第四巻-軍艦七十五年回想記』光人社、1992年10月。ISBN 4-7698-0610-8。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍文庫『大日本帝国軍艦帖』共益商社書店、1894年10月 。
- 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷)』海軍大臣官房、1939年 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年 。
- 菊池寛『明治文明綺談』六興商会出版部、1943年9月 。
- 武中島『明治の海軍物語』三友社、1938年11月 。
- 明治天皇御写真帖刊行会 編『大日本海軍写真帖』明治天皇御写真帖刊行会、1930年5月 。
- アジア歴史資料センター(公式)
- 国立公文書館
- 『公文類聚・第八編・明治十七年・第十巻・兵制・陸海軍官制第二・庁衙及兵営』。
- 「海軍省仏国ニ於テ新造ノ巡洋艦ニ名ヲ命ス」、Ref.A15110818400。
- 『公文類聚・第十編・明治十九年・第十五巻・兵制四・庁衙及兵営・兵器馬匹及艦船』。
- 「畝傍艦ヲ横須賀鎮守府ノ所轄ト定ム」、Ref.A15111159100。
- 『公文類聚・第十一編・明治二十年・第十三巻・兵制門三・兵器馬匹及艦船』。
- 「畝傍艦踪跡ヲ得サルニ依リ亡没ト認定シ乗員モ亦死失ト見做ス」、Ref.A15111325800。
- 防衛省防衛研究所
- 『仏国へ注文の巡洋艦へ名号被附度件』。Ref.C11019076200。
- 『公文備考別輯 上 新艦製造部 畝傍艦 上 明治16~20/艦体(6)』。Ref.C11081470100。
- 『公文備考別輯 上 新艦製造部 畝傍艦 上 明治16~20/艦体(8)』。Ref.C11081470300。
- 『公文備考別輯 上 新艦製造部 畝傍艦 上 明治16~20/艦体(9)』。Ref.C11081470400。
- 『公文備考別輯 上 新艦製造部 畝傍艦 上 明治16~20/兵器船具(2)』。Ref.C11081470600。
- 『公文備考別輯 上 新艦製造部 畝傍艦 上 明治16~20/回航手続(1)』。Ref.C11081470900。
- 『公文備考別輯 上 新艦製造部 畝傍艦 上 明治16~20/回航手続(2)』。Ref.C11081471000。
- 『公文備考別輯 中 新艦製造部 畝傍艦 中 明治19~20/捜索(9)』。Ref.C11081472300。
- 『公文備考別輯 下 新艦製造部 畝傍艦 下 明治19~30/保険金(1)』。Ref.C11081473800。
- 『公文備考別輯(完) 新艦製造書類 附属 軍航 畝傍 明治20/軍艦畝傍艦捜索一件 艦政局扱(1)』。Ref.C11081512900。
関連項目
外部リンク
- Cruiser protected 2 class 'Unebi' (1884)(英語) - 本艦の説明。本艦の竣工当時の写真とイラストと武装のスペックがある。