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1951年まで、サーフは[[NBC]]の[[ゲーム番組]]『{{仮リンク|フー・セイド・ザット|en|Who Said That?}}』に回答者として時々出演していた。この番組は、最近のニュース報道から引用された言葉を、誰が言ったものかを当てるというものである<ref>{{cite web| url=http://www.tv.com/who-said-that/show/3295/summary.html| title=Show Overview: ''Who Said That?''| publisher=[[TV.com]]| access-date=June 12, 2011}}</ref>。1951年から『{{仮リンク|ホワッツ・マイ・ライン|en|What's My Line?}}』に毎週出演し、1967年に[[CBS]]での通常放送が終了するまで、16年間出演し続けた。その後、CBSフィルム(現在の[[バイアコム]])制作の同番組の[[番組販売]]版にも亡くなるまで出演していた。『[[セサミストリート]]』内での同番組のパロディでは、ベネット・スナーフ(Bennett Snerf)という名前になっている。 |
1951年まで、サーフは[[NBC]]の[[ゲーム番組]]『{{仮リンク|フー・セイド・ザット|en|Who Said That?}}』に回答者として時々出演していた。この番組は、最近のニュース報道から引用された言葉を、誰が言ったものかを当てるというものである<ref>{{cite web| url=http://www.tv.com/who-said-that/show/3295/summary.html| title=Show Overview: ''Who Said That?''| publisher=[[TV.com]]| access-date=June 12, 2011}}</ref>。1951年から『{{仮リンク|ホワッツ・マイ・ライン|en|What's My Line?}}』に毎週出演し、1967年に[[CBS]]での通常放送が終了するまで、16年間出演し続けた。その後、CBSフィルム(現在の[[バイアコム (1952-2006)|バイアコム]])制作の同番組の[[番組販売]]版にも亡くなるまで出演していた。『[[セサミストリート]]』内での同番組のパロディでは、ベネット・スナーフ(Bennett Snerf)という名前になっている。 |
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この番組に出演していた頃、サーフは[[ピュージェットサウンド大学]]から名誉学位を、1965年11月にはミズーリ州リバティにあるウィリアム・ジュエル・カレッジから名誉文学博士号を授与された。 |
この番組に出演していた頃、サーフは[[ピュージェットサウンド大学]]から名誉学位を、1965年11月にはミズーリ州リバティにあるウィリアム・ジュエル・カレッジから名誉文学博士号を授与された。 |
2021年11月17日 (水) 09:30時点における版
ベネット・サーフ | |
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『ホワッツ・マイ・ライン』に出演中のサーフ(1952年) | |
現地語名 | Bennett Cerf |
誕生 |
Bennett Alfred Cerf 1898年5月25日 アメリカ合衆国 ニューヨーク市マンハッタン |
死没 |
1971年8月27日 (73歳没) アメリカ合衆国 ニューヨーク州ウェストチェスター郡マウント・キスコ |
職業 |
|
言語 | 英語 |
最終学歴 | コロンビア大学 |
配偶者 |
シルヴィア・シドニー (結婚 1935年、離婚 1936年) フィリス・フレイザー(結婚 1940年) |
子供 |
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ウィキポータル 文学 |
ベネット・アルフレッド・サーフ(Bennett Alfred Cerf、1898年5月25日 - 1971年8月27日)は、アメリカ合衆国の出版者で、ランダムハウスの共同設立者である。自作のジョーク・駄洒落集や、テレビのゲーム番組『ホワッツ・マイ・ライン』のレギュラー回答者を務めたことでも知られる[1]。
若年期と初期のキャリア
ベネット・サーフは1898年5月25日、ニューヨークのマンハッタンで、アルザス系・ドイツ系のユダヤ人の家庭に生まれた[1][2][3]。父のギュスターヴ・サーフは石版画家で、母のフレデリカ・ワイズはタバコ販売の財閥の相続人であった。母はベネットが15歳のときに亡くなり、その後すぐに弟のハーバートがサーフ家に引っ越してきて、10代のベネットに文学的、社会的に強い影響を与えた[4]。
1916年にタウンゼント・ハリス高校を卒業した。この高校は、出版者のリチャード・L・サイモンや劇作家のハワード・ディーツの母校である。10代の頃は、マンハッタンのワシントンハイツにあるアパート「リバーサイドドライブ790番地」に住んでいたが、同じアパートには、後に著名になった2人の友人、ハワード・ディーツとハースト新聞の経済編集者、メリール・ルーカイザーも住んでいた。サーフは、1919年にコロンビア大学のコロンビア・カレッジでBachelor of Artsを、1920年に同大学のジャーナリズム・スクールでBachelor of Lettersを取得した。卒業後は、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙の記者や、ウォール街の証券会社に勤務した。その後、出版社ボニ・アンド・リヴライトの副社長に就任した。
ランダムハウス
1925年、サーフはボニ・アンド・リヴライト社からモダン・ライブラリーの権利を20万ドルで購入する機会を得た。サーフは友人のドナルド・S・クロッパーと50対50のパートナーシップを組んで買収し、独立して事業を始めた[5]。サーフらはこのシリーズの人気を高め、1927年には自分たちが「ランダムに」選んだ一般書籍の出版を開始した。これがサーフらの出版事業の始まりであり、やがてこの事業は「ランダムハウス」と名づけられた。ランダムハウスのロゴには、サーフの友人でありコロンビア大学の卒業生でもあるロックウェル・ケントが描いた小さな家が使われていた[6]。
サーフは、人間関係を構築・維持する才能に恵まれ、ウィリアム・フォークナー、ジョン・オハラ、ユージン・オニール、ジェームズ・ミッチェナー、トルーマン・カポーティ、セオドア・スース・ガイゼルなどの作家と契約を結んだ。また、アイン・ランドの著書『肩をすくめるアトラス』を出版したが、この本で表明されているランドの哲学「オブジェクティビズム」にサーフは激しく反対していた。サーフはランドの「誠実さ」と「輝き」を賞賛し、2人は生涯の友となった[7][8]。
1933年、サーフは合衆国対ユリシーズ裁判で、政府の検閲に対する画期的な判決により勝訴し、ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』をアメリカで初めて無修正で出版した。この裁判は、マーガレット・アンダーソンとジェーン・ヒープによるシカゴの文芸誌『ザ・リトル・レビュー』にこの小説の一章が掲載されたことで、「猥褻な作品」と判断されてしまったことを発端とする。1933年、アメリカでの出版権を持っていたランダムハウス社は、訴追を恐れずに作品を出版するために、暗黙の禁止令に挑戦する試訴を手配した。そして、フランス版の本を輸入し、作品を積んだ船が到着したときに、アメリカ税関に押収してもらうように手配した。税関に本が到着するという通知があったにもかかわらず、現地の職員は「誰でも持ち込むものだ」と言って没収を拒否した。サーフらは、最終的に作品を押収するように説得した。その後、連邦検事は、法的手続きを先に進めるかどうかを決めるまでに7か月を要した。この作品の猥褻性を評価するために任命された連邦検事補は、この作品は「文学的な傑作」であるが、法的な意味での猥褻物であると考えた。そこで、地方検事が訴えを起こすことができる1930年関税法に基づいて、この作品を訴えたのである。サーフはその後、このフランス語の本をコロンビア大学に寄贈した[9]。
その他の業績
1944年、サーフはジョーク集の第1弾"Try and Stop Me"を、カール・ローズの挿絵入りで出版した。1949年には2冊目の"Shake Well before Using"を出版した。1967年からは、新聞の日曜版"This Week"に週刊コラム『サーフ・ボード』(The Cerf Board)を連載した。1959年、マコ・マガジン社から、サーフのジョーク、ギャグなどをまとめた"The Cream of the Master's Crop"が出版された。
1946年から1967年までと1970年から1971年まで、ピーボディ賞の審査委員となり、1954年から1967年までは審査委員長を務めた[10]。
ゲーム番組への出演
1951年まで、サーフはNBCのゲーム番組『フー・セイド・ザット』に回答者として時々出演していた。この番組は、最近のニュース報道から引用された言葉を、誰が言ったものかを当てるというものである[12]。1951年から『ホワッツ・マイ・ライン』に毎週出演し、1967年にCBSでの通常放送が終了するまで、16年間出演し続けた。その後、CBSフィルム(現在のバイアコム)制作の同番組の番組販売版にも亡くなるまで出演していた。『セサミストリート』内での同番組のパロディでは、ベネット・スナーフ(Bennett Snerf)という名前になっている。
この番組に出演していた頃、サーフはピュージェットサウンド大学から名誉学位を、1965年11月にはミズーリ州リバティにあるウィリアム・ジュエル・カレッジから名誉文学博士号を授与された。
晩年
サーフは、1967年と1968年にコロンビア大学のオーラル・ヒストリー・リサーチ・オフィスのインタビューを受けている。サーフは、これまでの人生で受けた賞の中で、ユーモア雑誌の『イェール・レコード』と『ハーバード・ランプーン』から受けた賞を「心から誇りに思っている」と語っている[13]。
1970年7月の『アトランティック』誌に掲載されたジェシカ・ミットフォードの暴露記事では、サーフが設立したフェイマス・ライターズ・スクールのビジネス慣行が非難されている[14]。
サーフは1970年にランダムハウスの会長を引退し、クロッパーが後を継いだ[5]。
私生活
サーフは1935年10月1日に女優のシルヴィア・シドニーと結婚したが、6か月後の1936年4月9日に離婚した。
1940年9月17日、ジンジャー・ロジャースのいとこであるハリウッド女優のフィリス・フレイザーと結婚した。2人の間には、クリストファーとジョナサンという2人の息子がいた。2人はマンハッタンに住居を構えていたが、1950年代初頭、ニューヨーク州ウェストチェスター郡マウント・キスコに不動産を購入し、亡くなるまでそこに住んでいた。マウント・キスコには、サーフに因んだサーフ通り(Cerf Lane)という通りがある。
死去
サーフは1971年8月27日にマウント・キスコにて死去した。73歳だった[1]。
ランダムハウス社は1977年にサーフの自叙伝"At Random: The Reminiscences of Bennett Cerf"(アットランダム:ベネット・サーフの回想、日本語訳『ランダム・ハウス物語―出版人ベネット・サーフ自伝』)を出版した。
メリーランド州ウェストミンスターの郊外にあるキャロル郡のベネット・サーフ・ドライブは、サーフに因んで名付けられた。ここには、アメリカ国内に2つあるランダムハウスの流通施設の1つであるランダムハウス・ウェストミンスター流通センター&オフィスがあり、ベネット・サーフ・パークもある。
大衆文化において
S・J・ペレルマンの1945年のフィーユトン"No Dearth of Mirth, Fill Out the Coupon"(歓喜の絶えないクーポンの記入方法)には、バーナビー・チャープ(Barnaby Chirp)というジョーク本の出版者とペレルマンとの架空の出会いが描かれている。ペレルマンが1962年に発表した舞台『ビューティー・パート』では、ランダムハウスのベネット・サーフをモデルとした出版社チャーナルハウス(Charnel House)のエメット・スタッグ(Emmett Stagg)が登場し、ブロードウェイではウィリアム・レマッセナが演じた。
ABCで放送されたシットコム『パティ・デューク・ショー』の1964年のエピソード"Auld Lang Syne"では、サーフをモデルとしたベネット・ブレイク(Bennett Blake)が登場する。
トルーマン・カポーティを題材とした2006年の映画『インファマス』では、ピーター・ボグダノヴィッチがサーフを演じた。
著書
- The Arabian Nights: or the Book of a Thousand and One Nights (anthology; New Illustrations and Decorations by Steele Savage; printed and bound by The Cornwall Press, Inc., for Blue Ribbon Books, Inc., 1932)
- The Bedside Book of Famous American Stories (選集, 1936)
- The Bedside Book of Famous British Stories (選集, 1940)
- Try and Stop Me (1944)
- Famous Ghost Stories (選集, 1944)
- Laughing Stock (1945)
- Anything for a Laugh: a collection of jokes and anecdotes that you, too, can tell and probably have (1946)
- Shake Well Before Using (1948)
- The Unexpected (選集, 1948)
- Laughter Incorporated (1950)
- Good for a Laugh (1952)
- An Encyclopedia of Modern American Humor (選集, Doubleday & Co., Inc., 1954) LOC 54-11449
- The Life of the Party (1956)
- The Laugh's on Me (1959)
- Laugh Day (1965)
- At Random: The Reminiscences of Bennett Cerf (New York: Random House, 1977, ISBN 0-375-75976-X).
- 日本語訳:木下秀夫 訳『ランダム・ハウス物語―出版人ベネット・サーフ自伝』 上、ハヤカワ文庫NF、1989年。ISBN 978-4150501549。、『ランダム・ハウス物語―出版人ベネット・サーフ自伝』 下。ISBN 978-4150501556。
- Dear Donald, Dear Bennett: the wartime correspondence of Donald Klopfer and Bennett Cerf (New York: Random House, 2002). ISBN 0-375-50768-X.
- Bennett Cerf's Book of Laughs (New York: Beginner Books, Inc., 1959) LOC 59-13387
- Bennett Cerf's Book of Riddles
- 日本語訳:いぬいゆみこ 訳『なぞなぞの絵本』岩崎書店、2000年。ISBN 978-4265800896。
- Bennett Cerf's Bumper Crop (全2巻)
- Bennett Cerf's Houseful of Laughter
- Bennett Cerf's Treasury of Atrocious Puns (1968)
日本語訳
- 常盤新平 訳『ちょっと笑える話』文春文庫、1983年。ISBN 4-16-730902-5。
- 佐藤亮一 訳『ポケット笑談事典 -笑いの泉・話題の宝庫』潮文社、1964年。
脚注
- ^ a b c Whitman, Alden (August 29, 1971). “Bennett Cerf Dies; Publisher, Writer; Bennett Cerf, Publisher and Writer, Is Dead at 73”. The New York Times 2013年12月12日閲覧. "Bennett Cerf, one of the country's foremost book publishers, died late Friday night at his estate in Mount Kisco, N.Y. He was 73 years old."
- ^ Mitgang, Herbert (January 23, 1982). “Modern Library Giant, 80 Today, Still Active”. The New York Times . "One thing that has changed is personal - there isn't anti-Semitism in the profession, Mr. Klopfer said. In the 20s and 30s, Bennett and I and other Jewish publishers were looked down upon."
- ^ Reimer-Torn, Susan (December 16, 2012). “The Good Old Days Of The Future Of Publishing”. The Jewish Week (New York)
- ^ “Bennett Cerf Biography”. www.BookRags.com. 2021年4月1日閲覧。
- ^ a b McDowell, Edwin (31 May 1986). “Donald S. Klopfer Dies at 84; Co-Founder of Random House”. New York Times 4 November 2013閲覧。
- ^ Cerf, Bennett (August 12, 1977). At Random. New York: Random House. p. 65. ISBN 978-0394478777
- ^ Cerf, Bennett (August 12, 1977). At Random. New York: Random House. pp. 249–253. ISBN 978-0394478777
- ^ “Bennett Cerf Discusses Ayn Rand”. Objectivism Reference Center. 2017年3月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月1日閲覧。
- ^ Cerf, Bennett. At Random. New York: Random House, 1977. p. 93.
- ^ “George Foster Peabody Awards Board Members”. The Peabody Awards. 2021年4月1日閲覧。
- ^ “What's My Line? - Peter Lind Hayes & Mary Healy; Tony Randall [panel (Aug 13, 1961)]”. 2021年4月1日閲覧。
- ^ “Show Overview: Who Said That?”. TV.com. June 12, 2011閲覧。
- ^ “Notable New Yorkers”. Columbia University. 2021年4月1日閲覧。
- ^ Mitford, Jessica (July 1970). “Let Us Now Appraise Famous Writers”. Atlantic Monthly: 48 .
- Tuck, Donald H. (1974). The Encyclopedia of Science Fiction and Fantasy. Chicago: Advent. pp. 95–96. ISBN 0-911682-20-1
外部リンク
- Notable New Yorkers – Bennett Cerf – biography, photographs, and the audio and transcript of Bennett Cerf's oral history from the Notable New Yorkers collection of the Oral History Research Office at Columbia University
- Bennett Cerf - Find a Grave
- 1957 interview by Mike Wallace (The Mike Wallace Interview, November 30, 1957)
- ベネット・サーフ - IMDb
- Jaillant, Lise (2015). “Shucks, we've got glamour girls too! Gertrude Stein, Bennett Cerf and the Culture of Celebrity”. Journal of Modern Literature 39 (1): 149–69. doi:10.2979/jmodelite.39.1.149 .
- Bennett Cerf - Library of Congress Authorities, with 93 catalog records
- Finding aid to Bennett Cerf papers at Columbia University. Rare Book & Manuscript Library.