コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ノーフォーク (重巡洋艦)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1940年3月のスカパ爆撃と部隊について出典補足
 
(6人の利用者による、間の13版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Otheruses|[[イギリス海軍]]の[[カウンティ級重巡洋艦]]|同名の艦艇|ノーフォーク (曖昧さ回避)}}
{{Otheruses|[[イギリス海軍]]の[[カウンティ級重巡洋艦]]|同名の艦艇|ノーフォーク (曖昧さ回避)}}
{{Infobox 艦艇
{| class="wikitable" style="clear:right; float:right; margin: 0em 0em 1em 1em; width: 300px; background:#ffffff"
|名称=ノーフォーク
|colspan="2"|[[Image:HMSNorfolk28Countyclasscruiser.jpg|300px|]]<br /><center><small>戦時迷彩の「ノーフォーク」(1944年以前)</small></center>
|画像=The Royal Navy during the Second World War A28783.jpg
|-
|画像説明=
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴
|建造所={{SCO}}、[[グラスゴー]]、{{仮リンク|フェアフィールド (企業)|en|Fairfield Shipbuilding and Engineering Company|label=フェアフィールド造船所}}
|-
|運用者={{navy|United Kingdom}}
|発注
|級名=[[カウンティ級重巡洋艦|カウンティ級]]([[ノーフォーク級重巡洋艦|ノーフォーク級]])[[重巡洋艦]]
|
|発注=
|-
|起工
|起工=1927年7月8日
|[[1927]][[78]]
|進水=19281212
|竣工=
|-
|就役=1930年4月30日
|進水
|退役=
|[[1928年]][[12月12日]]
|除籍=
|-
|その後=1950年1月3日、スクラップとして売却。
|就役
|基準排水量=10,035 [[トン数|トン]]
|[[1930年]][[4月30日]]
|満載排水量=13,420 トン
|-
|全長={{convert|633|ft|9|in||lk=on|abbr=on|2}}
|退役
|全幅={{convert|66|ft|lk=on|abbr=on}}
|[[1950年]][[1月3日]]売却
|吃水={{convert|18|ft|abbr=on|1}}
|-
|主缶=アドミラリティ式三胴型水管[[ボイラー]]×8基
|その後
|主機=[[パーソンズ・マリン・スチーム・タービン|パーソンズ]]式[[ギアード・タービン方式|ギアード・タービン]]×4基
|
|推進器=[[スクリュープロペラ]]×4軸
|-
|出力={{convert|80,000|hp|lk=on}}
|除籍
|最大速力={{Convert|31.5|kn|km/h|lk=on}}
|
|航続距離={{Convert|12,000|nmi|km|lk=on}}/12 ノット
|-
|乗員=平時710名、戦時819名
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元
|兵装={{ubl|{{仮リンク|BL 8インチ砲 Mk VIII|en|BL 8-inch Mk VIII naval gun|label=20.3cm50口径MkVIII連装砲}}×4基
|-
|{{仮リンク|QF 4インチ砲 Mk V|en|QF 4-inch naval gun Mk V|label=10.2cm45口径Mk V連装高角砲 }}×4基
| style="white-space:nowrap;" |[[排水量]]
|[[ヴィッカース QF 2ポンド砲|2ポンド (40mm) 八連装対空砲]]×2基
|基準 10,035[[トン]]<br />満載 13,420トン
|21インチ (533mm) 四連装[[魚雷発射管]]×2基}}
|-
|装甲={{ubl|水線部:{{convert|3.5|in|mm|lk=on}}
|全長
|シタデル:{{convert|4|in|mm|lk=on}}
|610 ft (186 m)
|バーベット:{{convert|1|in|mm|abbr=on}}
|-
|砲塔:{{convert|1|in|mm|abbr=on}}
|全幅
}}
|66 ft (20.1 m)
|艦載機=[[スーパーマリン ウォーラス]]×2機({{仮リンク|第700海軍航空隊|en|700 Naval Air Squadron}}運用)
|-
|その他=艦載機用[[カタパルト]]×1基(後に撤去)}}
|吃水
'''HMS ノーフォーク''' (''{{lang|en|HMS Norfolk, 78}}'') は[[イギリス海軍]]の[[重巡洋艦]]{{Sfn|ポケット海軍年鑑|1935|p=86|ps=(原本154-155頁)一等巡洋艦ノーフオルク}}。[[カウンティ級重巡洋艦]]だが{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=472-473}}、本艦と{{仮リンク|姉妹船|label=姉妹艦|en|Sister_ship}}の「[[ドーセットシャー_(重巡洋艦)|ドーセットシャー]]」 (''{{lang|en|HMS Dorsetshire, 40}}'') をサブグループとし、[[ノーフォーク級重巡洋艦]]に類別することもある{{Sfn|巡洋艦の話|1938|p=10|ps=原本10-11頁}}。艦名は[[ノーフォーク]]に因む。[[:en:HMS Norfolk|その名を持つ艦]]としては4隻目。
|16 ft (4.9 m)
|-
|機関
||アドミラリティ三胴式重油専焼水管缶 8基、パーソンズ式[[蒸気タービン|オール・ギヤードタービン]] 4基、80,000[[馬力|shp]]、4軸推進
|-
|最大速力
|31.5[[ノット]]
|-
|航続距離
|12,000[[海里]](12ノット時)
|-
|乗員
|平時700名、戦時819名
|-
|兵装
|Mark.VIII 8インチ砲連装 4基<br />Mark.XVI 4インチ連装高角砲 4基<br />[[ポンポン砲|2ポンドMark.VIII 8連装ポムポム砲]] 2基<br />21インチ4連装[[魚雷発射管]] 2基
|-
|搭載機
|[[スーパーマリン ウォーラス]] 2機<br />[[カタパルト]] 1基
|}


1941年[[5月23日]]夜に[[デンマーク海峡]]で[[ドイツ海軍]]の[[ビスマルク級戦艦|戦艦]]「[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]」を発見して[[ライン演習作戦|追跡]]し{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=167|ps=ドイツ機動部隊、イギリス重巡と遭遇}}{{Efn|ビスマルク追跡戦における「ノーフォーク」は{{Sfn|ミドルブック、戦艦|1979|pp=75-76}}、[[:en:Frederic_Wake-Walker|フレデリック・ウェイク=ウォーカー]]少将の旗艦であった<ref name="gnd19410528p5">{{Cite web|和書|url= https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/gnd19410528-01.1.5|pages=05|title = <small>英海空精鋭の重圍に最後迄善戰沈没した</small>ビ號の海戰顚末 <small>三度艦影を晦ましてならず 衆寡敵せず北大西洋怨深し</small>|publisher= Taihoku Nippō |date= 1941-05-28 |work = Hoji Shinbun Digital Collection | accessdate = 2023-10-21}}</ref>。}}、[[5月27日|27日]]に共同でビスマルクを撃沈した{{Efn|ビスマルクは英空母「[[アーク・ロイヤル_(空母・初代)|アークロイヤル]]」<!-- (''{{lang|en|HMS Ark Royal, 91}}'') -->の[[艦上機]]により[[舵]]が故障した<ref name="gnd19410528p5" />、英戦艦2隻([[キング・ジョージ5世_(戦艦)|キング・ジョージ5世]]、[[ロドニー (戦艦)|ロドニー]])と英重巡2隻(ノーフォーク、ドーセットシャー)の[[:en:Last_battle_of_the_battleship_Bismarck|攻撃で沈没した]]{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=12-13|ps=ライン演習作戦、両軍各艦航跡図}}。}}。1943年12月26日、[[北岬沖海戦]]で僚艦([[ベルファスト_(軽巡洋艦)|ベルファスト]]、[[シェフィールド_(軽巡洋艦)|シェフィールド]])と共にドイツ戦艦「[[シャルンホルスト (戦艦)|シャルンホルスト]]」を撃退し{{Sfn|オスプレイ、ドイツ戦艦|2005|pp=14-15}}、その後の撃沈に貢献した。
'''ノーフォーク''' ('''HMS Norfolk, 78''') は[[イギリス海軍]]の[[重巡洋艦]]。[[カウンティ級重巡洋艦|カウンティ級]]。艦名は[[ノーフォーク]]に因む。その名を持つ艦としては4隻目。


==艦歴==
== 艦歴 ==
[[1927年]]7月にゴヴァンのフェアフィールド造船造機会社において起工され、[[1928年]]12月に進水した。就役は[[1930年]][[4月30日]]だった。[[1931年]]9月、「ノーフォーク」は後に[[インヴァーゴードン反乱]]として知られる反乱の舞台となった。その後[[1932年]]まで[[本国艦隊]]に所属し、1932年から[[1934年]]まではアメリカの[[西インド諸島]]方面で任務についた。[[1935年]]から[[1939年]]まで[[東インド]]方面で行動した後、改装のため1939年に帰国した。[[第二次世界大戦]]が始まったときはまだ造船所のドック内にあった。


=== 戦間期 ===
[[Image:HMS Norfolk convoy.jpg|thumb|left|250px|北方の船団護送任務に従事してロシアの入り江に入港した「ノーフォーク」と駆逐艦部隊。(軽巡洋艦「[[シラ (軽巡洋艦)|シラ]]」から撮影)]]
[[1927年]]7月に{{仮リンク|ガバン (グラスゴー)|en|Govan|label=ガバン}}のフェアフィールド造船造機会社において起工され、[[1928年]][[12月12日]]に[[:en:Ceremonial_ship_launching|進水]]した。就役は[[1930年]][[4月30日]]だった。[[1931年]]9月、「ノーフォーク」は後に[[インヴァーゴードン反乱]]として知られる反乱の舞台となった。その後[[1932年]]まで[[本国艦隊]]に所属し、1932年から[[1934年]]まではアメリカの[[西インド諸島]]方面で任務についた。[[1935年]]から[[東インド]]方面で行動した{{Efn|(十三日ビナン發)<ref>{{Cite web|和書|url= https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/sin19380115-01.1.3|pages=03|title = 軍艦歡迎に賑ふ彼南|publisher= Singapōru Nippō |date= 1938-01-15 |work = Hoji Shinbun Digital Collection | accessdate = 2023-10-21}}</ref> 本月末から二月初めにかけて擧行される大演習参加のため久し振りに馬來を訪れる英國東印度艦隊所属巡洋艦ノーフォーク及[[:en:HMS_Emerald_(D66)|エメラルド]]兩艦並に[[インド海軍|印度海軍]]警備艇三隻は來る二十一日及二十三日それぞれ當地に寄港二十五日共にシンガポールに向ふ豫定であるが(以下略)}}。
1939年、戦争の勃発にともない「ノーフォーク」は本国艦隊の第18巡洋艦戦隊に配属され、ドイツ装甲艦「[[アドミラル・シェーア (装甲艦)|アドミラル・シェーア]]」ばかりでなく戦艦「[[グナイゼナウ (戦艦)|グナイゼナウ]]」と「[[シャルンホルスト (戦艦)|シャルンホルスト]]」などの追跡任務についた。そしてそれによって受けた多数の損傷の修理を行ったが、それが主要部分の改装に及ぶことはなかった。[[ベルファスト]]で行われた最初の修理は、戦艦「[[ロイヤル・オーク (戦艦)|ロイヤル・オーク]]」を撃沈したドイツ潜水艦「[[U47 (潜水艦)|U47]]」の魚雷の至近弾によるものであった。
[[1938年]]2月中旬、[[シンガポール]]の[[:en:Singapore_Naval_Base|海軍基地]]で「キング・ジョージ6世乾ドック、{{lang|en|King George VI Graving Dock}}」が完成して竣功式が開催されたとき{{Sfn|ミドルブック、戦艦|1979|pp=30-31}}、「ノーフォーク」は[[:en:East_Indies_Station|東インド艦隊]](司令官[[:en:Alexander_Ramsay_(Royal_Navy_officer)|サー・アレキサンダー・ラムゼイ]]中将)旗艦として参列した{{Efn|name="nos19380214p3"|米艦隊入港<ref>{{Cite web|和書|url= https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/nos19380214-01.1.3 |pages=03|title = 單なるお客サ <small>タウンセンド</small>提督艦上に語る|publisher= Nan’yō Nichinichi Shinbun |date= 1938-02-14 |work = Hoji Shinbun Digital Collection | accessdate = 2023-10-21}}</ref> 本日の海軍根據地[[乾ドック]]竣功式に参加の米國巡洋艦[[トレントン_(軽巡洋艦)|トレントン]]、[[メンフィス (軽巡洋艦)|メンフイス]]及[[ミルウォーキー_(軽巡洋艦)|ミルウオーキー]]號は昨日午前[[ジョホール海峡|柔佛海峡]]に靜々とその雄姿をあらはし正午海軍根據地の眞前沖に投錨、禮砲交換、軍樂演奏等型の如き艦隊入港ではあつたが、附近水面には大演習の餘塵を洗つた英國艦艇が四十隻もあり、さすがに極東の緊張を物語つてゐた、米國艦隊司令官タウンセンド提督は白髪の老將、禮儀正しい物靜かな態度で左の如く語る(中略)タウンセンド提督は入港と共に東印度艦隊司令長官サー・アレキサンダー・ラムゼイ中将をノーフォーク號に訪問、その他公式訪問の交換で後夜は總督官邸に招かれたが、明日總領事代理マツクエネリー氏の舞踏會がシー・ビューホテルに開かれる外、英米水兵さんの交驩がさかんに行はれる(記事おわり)}}。[[アメリカ海軍]]の[[オマハ級軽巡洋艦]]3隻もシンガポールに入港して開港式典に参加し、これに関連して[[:en:Julius_Curtis_Townsend|タウンセンド]]提督は「ノーフォーク」を訪問してラムゼイ中将と会談した{{Efn|name="nos19380214p3"}}。その後、本艦は改装のため1939年に帰国した。[[第二次世界大戦]]が始まったときはまだ造船所のドック内にあった。


=== 世界大戦緒戦 ===
1940年3月16日、「ベルファスト」はスカパ・フローで爆撃を受けた<ref name=Raven1>''British Cruiser Warfare'', CHRONOLOGY OF EVENTS FROM SEPTEMBER 1939 TO DECEMBER 1941, 16 March 1940. Air Attack on Scapa Flow.</ref>。投下された爆弾3発の内1発が後甲板に命中、1発が至近弾となり、水線下の船体側面に大穴が空き、右に3度傾いた状態で艦尾が着底した<ref name=Raven1/>。
{{seealso|[[:en:Arctic_naval_operations_of_World_War_II|北大西洋の戦い]]}}

1939年9月、第二次世界大戦の勃発にともない「ノーフォーク」は本国艦隊の{{仮リンク|第18巡洋艦戦隊|en|18th_Cruiser_Squadron}}に配属され、[[ドイツ海軍_(国防軍)|ドイツ海軍]] ({{lang|de|Kriegsmarine}}) の[[通商破壊|通商破壊艦]]([[仮装巡洋艦]]、[[ドイッチュラント級装甲艦|ポケット戦艦]]{{Efn|ポケット戦艦は通称で、ドイツ側呼称は[[装甲艦]]。世界大戦開戦時、[[ドイッチュラント_(装甲艦)|ドイッチュラント]]{{Sfn|ポケット海軍年鑑|1937|p=159|ps=原本300-301頁、戰艦ドイチユランド}}、[[アドミラル・シェーア (装甲艦)|アドミラル・シェーア]]{{Sfn|ポケット海軍年鑑|1937|p=160|ps=原本302-303頁 戰艦アドミラル・シエア}}、[[アドミラル・グラーフ・シュペー_(装甲艦)|アドミラル・グラーフ・シュペー]]{{Sfn|ポケット海軍年鑑|1937|p=161|ps=原本304-305頁 戰艦アドミラル・グラーフ・シユペー}}が竣工していた。}})ばかりでなく、[[シャルンホルスト級戦艦]]などの追跡任務についた。そしてそれによって受けた多数の損傷の修理を行ったが、それが主要部分の改装に及ぶことはなかった。[[ベルファスト]]で行われた最初の修理は、[[リヴェンジ級戦艦|R級戦艦]]「[[ロイヤル・オーク (戦艦)|ロイヤル・オーク]]」<!-- (''{{lang|en|HMS Royal Oak, 08}}'') -->を撃沈したドイツ潜水艦「[[U47 (潜水艦)|U47]]」{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=58}}の魚雷の至近弾によるものであった。

1940年3月16日、[[ドイツ空軍_(国防軍)|ドイツ空軍]]の{{仮リンク|第26爆撃航空団|de|Kampfgeschwader_26}}に所属する[[ハインケル_He111|He 111]]がスカパ・フローを空襲し、[[練習艦]](元[[アイアン・デューク級戦艦|戦艦]])「[[アイアン・デューク (戦艦)|アイアン・デューク]]<!-- (''{{lang|en|HMS Iron Duke}}'') -->」と「ノーフォーク」などが被害を受けた<ref>{{Cite web|和書|autor=Jürgen Rohwer, Gerhard Hümmelchen |url=http://www.wlb-stuttgart.de/seekrieg/40-03.htm |title = Chronik des Seekrieges 1939–1945, März 1940 | accessdate = 2023-11-24}}</ref>。本艦には、投下された爆弾3発の内1発が後甲板に命中、1発が至近弾となり、水線下の船体側面に大穴が空き、右に3度傾いた状態で艦尾が着底した<ref name=Raven1>''British Cruiser Warfare'', CHRONOLOGY OF EVENTS FROM SEPTEMBER 1939 TO DECEMBER 1941, 16 March 1940. Air Attack on Scapa Flow.</ref>。


修理は[[クライド川]]でなされ、その後、タイン工廠で新兵器 - [[レーダー]]・セットの装備が行われた。
修理は[[クライド川]]でなされ、その後、タイン工廠で新兵器 - [[レーダー]]・セットの装備が行われた。


[[1940年]]12月、「ノーフォーク」は南大西洋において、[[K部隊]]の一員として[[フリータウン]]から出発する船団護衛に任ずると共に、「アドミラル・シェーア」の、そして1941年1月には、仮装巡洋艦「[[コルモラン (仮装巡洋艦・2代)|コルモラン]]」の捜索を命じられた。2月には大西洋の兵員輸送船団の護衛任務についたが、5月に[[アイスランド]]海域に戻された。「ノーフォーク」はドイツ戦艦「[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]」を視認した2番目の船となった。そして戦艦「[[ロドニー (戦艦)|ロドニー]]」と「[[キング・ジョージ5世 (戦艦)|キング・ジョージ5世]]」が「ビスマルク」を沈めるまで追尾しつづけた。9月からは苛烈な北極船団の護衛を担当した。「ノーフォーク」は輸送船団JW55Bが[[1943年]][[12月26日]]に「シャルンホルスト」の攻撃を受けたとき、それを護衛する巡洋艦部隊の一員であり相手に3発の命中弾を与えた。「シャルンホルスト」は退避し、後に戦艦「[[デューク・オブ・ヨーク (戦艦)|デューク・オブ・ヨーク]]」の部隊に撃沈された。([[北岬沖海戦]])
[[1940年]]12月、「ノーフォーク」は南大西洋において、[[K部隊]]の一員として[[フリータウン]]から出発する船団護衛に任ずると共に、ドイツ重巡「アドミラル・シェーア」<!-- (''{{lang|de|DKM Admiral Scheer}}'') -->{{Efn|[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]総統の命令により、ドイッチュラント級装甲艦は[[重巡洋艦]] (''{{lang|de|Schwerer Kreuzer}}'') に類別変更されていた。}}、そして1941年1月には、仮装巡洋艦「[[コルモラン (仮装巡洋艦・2代)|コルモラン]]」<!-- (''{{lang|de|Hilfskreuzer Kormoran}}'') -->の捜索を命じられた。2月には大西洋の兵員輸送船団の護衛任務についたが、5月に[[アイスランド]]海域に戻された。


=== ビスマルク追跡 ===
[[Image:HMS Norfolk King Hakkon.jpg|thumb|left|250px|出迎えの群衆に「ノーフォーク」艦上から手を振るノルウェー王族(オスロにて)]]
[[File:Map_Rheinuebung_it.svg|right|thumb|240px|ビスマルク沈没までの航跡 (1941年5月)]]
その戦闘で損傷を負った「ノーフォーク」はタインにおいて修理に入ったため、[[ノルマンディー上陸作戦]]には関与できなかった。


{{seealso|ライン演習作戦}}
1945年1月11日から12日にかけての夜、「ノーフォーク」、軽巡洋艦「[[ベローナ (軽巡洋艦)|ベローナ]]」、駆逐艦「[[オンスロー (駆逐艦)|オンスロー]]」、「[[オーウェル (駆逐艦)|オーウェル]]」、「[[オンスロート (駆逐艦)|オンスロート]]」はノルウェー沖でドイツの船団を攻撃、3隻中2隻を撃沈したほか護衛の艦艇の内1隻(掃海艇「M273」)も撃沈した。

1941年5月中旬、ドイツ海軍はライン演習作戦を発動し{{Sfn|オスプレイ、ドイツ戦艦|2005|p=33}}、[[ギュンター・リュッチェンス]]提督が率いる戦艦「[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]」<!-- (''{{lang|de|DKM Bismarck}}'') -->と重巡「[[プリンツ・オイゲン_(重巡洋艦)|プリンツ・オイゲン]]」<!-- (''{{lang|de|DKM Prinz Eugen}}'') -->が北大西洋に出撃した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=12-13|ps=ライン演習作戦、両軍各艦航跡図}}。諜報活動によってドイツ側の動向を察知したイギリス海軍では、5月18日に[[本国艦隊]]の[[ジョン・トーヴィー]]提督が重巡2隻(ノーフォーク、サフォーク)を[[アイスランド]]周辺海域に配置した{{Efn|ノーフォークに対しては、アイスランドを出港して既に哨戒行動中のサフォーク(艦長{{lang|en|Robert Meyrick Ellis}}大佐)を支援するよう命じた{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=61}}。}}。本艦は{{仮リンク|第1巡洋艦戦隊|en|1st_Cruiser_Squadron}}司令官{{仮リンク|フレデリック・ウェイク=ウォーカー|en|Frederic Wake-Walker}}少将の旗艦として、[[デンマーク海峡]]に出動した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=88-89}}{{Efn|なおサフォークの艦橋は密閉式で暖房がついていたが、ノーフォーク(艦長{{lang|en|Alfred Jerome Lucian Phillips}}大佐)の艦橋は吹きさらしだった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=88-89}}。}}。

5月20日に[[スウェーデン海軍]]の航空巡洋艦「[[ゴトランド (巡洋艦)|ゴトランド]]」<!-- (''{{lang|en|HMS Gotland}}'') -->が[[カテガット海峡]]でリュッチェンス戦隊(ビスマルク部隊)を発見して通報し{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=53-54}}{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=132-135,441-442}}、[[5月23日]]夜に英重巡「[[サフォーク_(重巡洋艦)|サフォーク]]」<!-- (''{{lang|en|HMS Suffolk, 55}}'') -->がデンマーク海峡でビスマルク部隊を発見した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=92-93}}{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=18-19|ps=(ライン演習作戦、両軍各部隊・各艦航跡図)}}。つづいて「ノーフォーク」もビスマルク部隊を発見する{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=167|ps=ドイツ機動部隊、イギリス重巡と遭遇}}。「ノーフォーク」はビスマルク部隊を視認した英海軍2番目の船となったが、霧により「ビスマルク」と至近距離で遭遇し、{{仮リンク|38cm SK C/34|en|38 cm SK C/34 naval gun|label=38センチ砲}}で砲撃された{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=93-94}}。「ビスマルク」の5回の主砲斉射を至近弾(夾叉弾)でやりすごしたあと{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=168-169}}、「ノーフォーク」はビスマルク部隊発見の報告を各方面に通報した{{Efn|サフォークの敵発見の無電はどこにも傍受されず、ノーフォークの無電が各方面に届いた{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=95-96}}。}}。
なお「ビスマルク」では「ノーフォーク」への主砲発砲で前部レーダーが故障したので{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=28}}、リュッチェンス提督は「ビスマルク」と「プリンツ・オイゲン」の配置を入れ替える{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=170-174}}。「プリンツ・オイゲン」~「ビスマルク」~追尾部隊(ノーフォーク、サフォーク)という航海が始まった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=107-109}}。ドイツ戦艦からは、追尾するウォーカー部隊が視認できたという{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=170-174}}。

[[5月24日]]朝の[[デンマーク海峡海戦]]で、巡洋戦艦「[[フッド (巡洋戦艦)|フッド]]」<!-- (''{{lang|en|HMS Hood}}'') -->と戦艦「[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]」<!-- (''{{lang|en|HMS Prince of Wales}}'') -->を指揮していた{{仮リンク|ランスロット・ホランド|en|Lancelot Holland}}中将は、ウォーカー部隊(ノーフォーク、サフォーク)にドイツ重巡を、直率の大型艦2隻に「ビスマルク」を狙わせる決意であった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=121-123}}。だが無線封止をしていたのでウォーカー戦隊に意図が伝わらず、敵味方双方の航路がずれたこともあり{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=121-122}}、「フッド」と「ウェールズ」のみでビスマルク部隊を相手にすることになった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=126-130}}。ウォーカー部隊を戦闘に加入させ、「ビスマルク」の後部火力(3番砲塔、4番砲塔、38センチ砲合計4門)を分散させる戦術もあったが{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=142-143}}{{Efn|ドイツ戦艦側も、視認距離を航行している英重巡2隻から魚雷攻撃されることを警戒し、後方への警戒を怠らなかった{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=181-183}}。}}、その命令を出すまえに「フッド」は轟沈してホランド中将は戦死してしまった{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=194|ps=アイスランド沖海戦}}。「プリンス・オブ・ウェールズ」も被弾と故障で戦闘継続が困難となり{{Sfn|ミドルブック、戦艦|1979|pp=75-76}}、艦長{{仮リンク|ジョン・リーチ|en|John Leach (Royal Navy officer)|label=リーチ}}大佐はビスマルク部隊を距離をとった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=150-156}}。

「ノーフォーク」のフィリップス艦長は、かつて「フッド」の砲術長をつとめていた{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=157}}。ウォーカー少将は「フッド轟沈ス」の電報を全世界に発し{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=157}}{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=420}}、生存者の捜索を駆逐隊にまかせる{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=159-162}}。つづいて合流した「プリンス・オブ・ウェールズ」を指揮下に入れ{{Sfn|ミドルブック、戦艦|1979|pp=75-76}}、引き続きビスマルク部隊を追跡した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=124-125|ps=(デンマーク海峡海戦航跡図)}}{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=176-180}}。24日午後、[[海軍本部_(イギリス)|海軍本部]]の[[ダドリー・パウンド|パウンド]]海軍大将の介入により{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=182-188}}{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=408-109}}、ウォーカー戦隊3隻は「ビスマルク」と砲撃戦をおこなったが<ref name="gnd19410528p5" />、敵味方双方とも特筆すべき戦果も被害もなかった{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=220-221}}{{Efn|サフォークの艦橋の窓ガラスが割れ、吹きさらしとなった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=193-195}}。
この砲撃戦と前後して、プリンツ・オイゲンはビスマルクと分離した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=189-192}}{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=218|ps=北大西洋におけるビスマルク追撃態勢}}。}}。
空母「[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]」<!-- (''{{lang|en|HMS Victorious, R38}}'') -->所属の[[フェアリー_ソードフィッシュ|ソードフィッシュ]]が「ビスマルク」を雷撃したあとも、ウォーカー戦隊3隻は「ビスマルク」と散発的な砲撃をかわした{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=217}}{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=230}}。このあとウォーカー戦隊は対潜水艦警戒航行を実施するが、5月25日未明になると「ビスマルク」を見失ってしまった{{Sfn|オスプレイ、ドイツ戦艦|2005|p=35}}{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=241|ps=ビスマルク、触接を断つ}}{{Efn|ノーフォークでは疲労したウォーカー提督とフィリップス艦長が[[アンフェタミン]]([[覚醒剤]])と[[コーヒー]]で頑張っていたが、ついに交替で艦橋に立つことにしたという{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=217-219}}。}}。

捜索やトーヴィー提督の命令で「サフォーク」と「プリンス・オブ・ウェールズ」が分離したあと{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=18-19|ps=(ライン演習作戦、両軍各部隊・各艦航跡図)}}{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=267|ps=ビスマルクを探索するイギリス艦隊。}}、「ノーフォーク」(ウォーカー少将)は単独で「ビスマルク」を探しまわり、「ビスマルク」がフランスにむかう想定で独自航路をとった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=230}}。
[[5月26日]]夜、[[H部隊]]の空母「[[アーク・ロイヤル_(空母・初代)|アーク・ロイヤル]]」<!-- (''{{lang|en|HMS Ark Royal, 91}}'') -->が[[艦上攻撃機]]で「ビスマルク」の舵を破壊したとき{{Sfn|オスプレイ、ドイツ戦艦|2005|p=36}}、「フッド」の仇敵を直接攻撃できる位置にいた大型艦は戦艦「[[ロドニー (戦艦)|ロドニー]]」<!-- (''{{lang|en|HMS Rodney, 29}}'') -->、本国艦隊旗艦でもある戦艦「[[キング・ジョージ5世 (戦艦)|キング・ジョージ5世]]」<!-- (''{{lang|en|HMS King George V}}'') -->、重巡「[[ドーセットシャー_(重巡洋艦)|ドーセットシャー]]」<!-- (''{{lang|en|HMS Dorsetshire, 40}}'') -->{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=295|ps=ビスマルクが空母アーク・ロイヤルの艦載機から舵に魚雷を受けるまで。}}、そして「ノーフォーク」とH部隊であった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=322-323}}{{Efn|[[ジェームズ・サマヴィル]]提督のH部隊(巡洋戦艦[[レナウン (巡洋戦艦)|レナウン]]、軽巡[[シェフィールド_(軽巡洋艦)|シェフィールド]]、空母アークロイヤル){{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=252-253|ps=(ビスマルク最期の戦闘、両軍航跡図)}}。}}。

{{seealso|[[:en:Last_battle_of_the_battleship_Bismarck|ビスマルクの最期]]}}

[[5月27日]]午前8時、「ノーフォーク」は「ビスマルク」に追いつき、「ビスマルク」を友軍の[[ネルソン級戦艦]]と間違えて発光信号をおくった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=353}}{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=357-358}}。「ノーフォーク」は敵味方を誤認している事に気づき、「ビスマルク」の射程外に逃げ出してトーヴィー提督直接の戦艦2隻に合流する{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=359-361}}。そして戦闘中に合流した姉妹艦「ドーセットシャー」(艦長{{仮リンク|ベンジャミン・チャールズ・スタンレー・マーティン|en|Benjamin Charles Stanley Martin|label=マーティン}}大佐)と共に{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=364-365}}、ビスマルクを撃沈したのである{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=370|ps=ビスマルク最後の戦闘}}{{Efn|戦闘不能になったビスマルクは<ref name="gnd19410528p5" />、ドーセットシャーによって雷撃処分された{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=375-376,391}}{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=380-381}}。またビスマルク艦内でも自沈処理がおこなわれた{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=381-382,387-388}}{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=382-385}}。}}。

5月27日の戦闘で、「ノーフォーク」は「ビスマルク」に対し8インチ砲弾527発、魚雷8本を発射した{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=430-431}}。

=== 北極海 ===
[[Image:HMS Norfolk convoy.jpg|thumb|250px|北方の船団護送任務に従事してロシアの入り江に入港した「ノーフォーク」と駆逐艦部隊。(軽巡洋艦「[[シラ (軽巡洋艦)|シラ]]」から撮影)]]

{{seealso|PQ17船団}}

9月からは、[[ソビエト連邦]]むけ[[第二次世界大戦中の北極海における輸送船団|北極船団]]の護衛を担当した。
1942年6月下旬、{{仮リンク|ルイス・ハミルトン (イギリス海軍軍人)|label=ルイス・ハミルトン|en|Louis Keppel Hamilton}}少将が率いる英米巡洋艦部隊(英重巡「[[ロンドン_(重巡洋艦)|ロンドン]]」、英重巡「ノーフォーク」、米重巡「[[ウィチタ_(重巡洋艦)|ウィチタ]]」、米重巡「[[タスカルーサ_(重巡洋艦)|タスカル―ザ]]」、米駆逐艦「[[:en:USS_Wainwright_(DD-419)|ウェインライト]]」、米駆逐艦「[[:en:USS_Rowan_(DD-405)|ローワン]]」、英駆逐艦「[[:en:HMS_Somali_(F33)|ソマリ]]」)として、[[:en:Convoy_PQ_17|PQ17船団]]の掩護部隊となった{{Sfn|戦艦ワシントン|1988|pp=78-79}}([[:en:Order of battle for Convoy PQ 17|PQ-17船団戦闘序列]])。[[海軍本部_(イギリス)|イギリス海軍本部]]はドイツ軍が発動した{{仮リンク|レッセルシュプルング作戦 (1942)|label=レッセルシュプルング作戦|en|Operation_Rösselsprung_(1942)}}にともなうドイツ戦艦「[[ティルピッツ (戦艦)|ティルピッツ]]」<!-- (''{{lang|de|DKM Tirpitz}}'') -->出撃の情報に動揺してPQ17船団を解散させてしまい、本艦を含む護衛部隊や各艦はソ連に向かう船舶を置き去りにして反転した{{Sfn|戦艦ワシントン|1988|pp=83-85}}。PQ17船団は大損害を受ける{{Sfn|オスプレイ、ドイツ戦艦|2005|p=40}}。[[第二次世界大戦中の北極海における輸送船団|ソ連向け援助船団]]は、運航停止に追い込まれた{{efn|ソ連向け援助船団は、9月初旬の[[PQ18船団]]から再開された。続いて12月中旬に[[:en:Convoy_JW_51A|JW-51A船団]]が運航されて成功し、12月下旬の[[:en:Convoy_JW_51B|JW-51B船団]]では[[バレンツ海海戦]]が生起した。}}。

{{seealso|北岬沖海戦}}

[[1943年]][[12月26日]]、連合軍輸送船団{{仮リンク|JW55B|en|Convoy_JW_55B}}は、[[エーリヒ・バイ]]提督が率いるドイツ戦艦「[[シャルンホルスト (戦艦)|シャルンホルスト]]」<!-- (''{{lang|de|DKM Scharnhorst}}'') -->の攻撃を受ける{{Sfn|オスプレイ、ドイツ戦艦|2005|pp=14-15}}。本艦はそれを護衛する{{仮リンク|ロバート・バーネット|en|Robert Burnett}}提督指揮下の巡洋艦部隊(ノーフォーク、[[ベルファスト_(軽巡洋艦)|ベルファスト]]、[[シェフィールド_(軽巡洋艦)|シェフィールド]])に所属していた。「ノーフォーク」は「シャルンホルスト」に3発の命中弾を与えた。レーダーを破壊された「シャルンホルスト」は退避し、その後、[[ブルース・フレーザー]]提督が率いるイギリス戦艦「[[デューク・オブ・ヨーク (戦艦)|デューク・オブ・ヨーク]]」<!-- (''{{lang|en|HMS Duke of York, 17}}'') -->や大型軽巡「[[ジャマイカ (軽巡洋艦)|ジャマイカ]]」<!-- (''{{lang|en|HMS Jamaica, 44}}'') -->などが戦闘に加入する{{Sfn|オスプレイ、ドイツ戦艦|2005|pp=14-15}}。「シャルンホルスト」は砲撃と雷撃を浴びて撃沈され、バイ提督も戦死した{{Efn|【ニューヨーク)INS二日發】<ref>{{Cite web|和書|url= https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/tht19440302-01.1.4|pages=04|title = 獨海軍指揮官ベイ少将戰死|publisher= Hawaii Times |date= 1944-03-02 |work = Hoji Shinbun Digital Collection | accessdate = 2023-10-21}}</ref> 獨トランス・オツエアシ通信の報道によれば十二月、ソ聯向け聯合軍護送船團襲撃の企圖に失敗せる獨海軍艦隊司令官ベイ少將は戰死を遂げだ<!-- 原文まま -->、此の放送を記録せる聯邦逓信局は獨側の發表は海戰に撃沈された戰闘艦シャルンホルスト號と運命を共にせる事を容認した(記事おわり)}}。

北岬沖海戦で勝利したものの、「ノーフォーク」は「シャルンホルスト」の{{仮リンク|28cm SK C/34|en|28 cm SK C/34 naval gun|label=28センチ砲弾}}を被弾していた。損傷した本艦はタインにおいて修理に入ったため、[[ノルマンディー上陸作戦]]には関与できなかった。

[[Image:HMS Norfolk King Hakkon.jpg|thumb|250px|出迎えの群衆に「ノーフォーク」艦上から手を振るノルウェー王族(オスロにて)]]

1945年1月11日から12日にかけての夜、「ノーフォーク」、軽巡洋艦「[[ベローナ (軽巡洋艦)|ベローナ]]」、駆逐艦「[[オンスロー (駆逐艦)|オンスロー]]」「[[オーウェル (駆逐艦)|オーウェル]]」「[[オンスロート (駆逐艦)|オンスロート]]」はノルウェー沖でドイツの船団を攻撃、3隻中2隻を撃沈したほか護衛の艦艇の内1隻(掃海艇「M273」)も撃沈した。


戦争が終わると、[[ロンドン]]に5年間亡命していた[[ノルウェー]]王室を[[オスロ]]に運んだ後、[[プリマス]]を発って、非常に重要な修理のために[[マルタ]]に向かった。その後、東インドで東インド艦隊司令長官の旗艦を務めた。
戦争が終わると、[[ロンドン]]に5年間亡命していた[[ノルウェー]]王室を[[オスロ]]に運んだ後、[[プリマス]]を発って、非常に重要な修理のために[[マルタ]]に向かった。その後、東インドで東インド艦隊司令長官の旗艦を務めた。


[[1949年]]、帰国した「ノーフォーク」は予備艦となる。1950年1月3日に[[:en:British Iron & Steel Corporation|BISCO]]に引き渡され、2月19日に解体場所の[[ニューポート]]のCashmore<!--[[en:John Cashmore Ltd]]のことか?-->に着いた<ref>''Cruisers of World War Two'', p. 92</ref>。
[[1949年]]、帰国した「ノーフォーク」は予備艦となる。1950年1月3日に{{仮リンク|ブリティッシュ・アイアン & スティール|en|British Iron & Steel Corporation|label=BISCO}}に引き渡され、2月19日に解体場所の[[ニューポート]]のCashmore<!--[[en:John Cashmore Ltd]]のことか?-->に着いた<ref>''Cruisers of World War Two'', p. 92</ref>。


==戦歴==
== 戦歴 ==
*[[大西洋の戦い (第二次世界大戦)|大西洋の戦い]](1941年)
*[[大西洋の戦い (第二次世界大戦)|大西洋の戦い]](1941年)
*[[デンマーク海峡海戦]]([[ライン演習作戦]])(1941年)
*[[デンマーク海峡海戦]]、[[:en:Last_battle_of_the_battleship_Bismarck|ビスマルク撃沈]]([[ライン演習作戦]])(1941年)
*北極船団護衛(1941年–1943年)
*[[:en:Arctic_naval_operations_of_World_War_II|北極船団護衛]](1941年–1943年)
*北アフリカの戦い(1942年)
*北アフリカの戦い(1942年)
*[[北岬沖海戦]](1943年)
*[[北岬沖海戦]](1943年)
*ノルウェー方面(1945年)
*ノルウェー方面(1945年)


==参考文献==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
* ''British and Empire Warships of the Second World War'', H T Lenton, Greenhill Books, ISBN 1-85367-277-7

=== 注釈 ===
{{Notelist}}

=== 出典 ===
{{reflist|2}}

== 参考文献 ==<!-- 著者五十音順 -->
* <!-- ウィリアムソン2005 -->{{Cite book|和書|author1=ゴードン・ウィリアムソン〔著〕|author2=イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕|others=手島尚〔訳〕|date=2005-11|title=世界の軍艦イラストレイテッド1 {{smaller|German Battleships 1939-45}} ドイツ海軍の戦艦 1939 ― 1945|chapter=|publisher=株式会社大日本絵画|series=オスプレイ・ミリタリー・シリーズ {{smaller|Osprey New Vanguard}}|isbn=4-499-22898-0|ref={{SfnRef|オスプレイ、ドイツ戦艦|2005}}}}
* <!-- ケネディ1982 -->{{Cite book|和書|author1=[[:en:Ludovic_Kennedy|ルードヴィック・ケネディ]]|others=内藤一郎 訳 |coauthors=|date=1982-09|chapter=|title=戦艦ビスマルクの最期|publisher=早川書房|series=ハヤカワ文庫|isbn=4-15-050082-7|ref={{SfnRef|ビスマルクの最期|1982}}}}
* <!-- ミドルブルック1979 -->{{Cite book|和書|author1=[[:en:Martin_Middlebrook|M・ミドルブック]]|author2=P・マーニー<!-- Patrick Mahoney -->|others=内藤一郎 訳 |date=1979-06|origiyear=1977|chapter=|title=戦艦 ― マレー沖海戦 ―|publisher=早川書房|series=|isbn=|ref={{SfnRef|ミドルブック、戦艦|1979}}}}
* <!-- ミュージカント1988 -->{{Cite book|和書|author1=イヴァン・ミュージカント|others=中村定 訳 |date=1988-12|chapter=|title=戦艦ワシントン {{smaller|米主力戦艦から見た太平洋戦争}}|isbn=4-7698-0418-0|publisher=光人社|ref={{SfnRef|戦艦ワシントン|1988}}}}
* <!-- ミュレンハイム2002 -->{{Cite book|和書|author1=ブルカルト・フォン・ミュレンハイム=レッヒベルク|others=佐和誠 訳 |coauthors=|date=2002-07|chapter=|title=巨大戦艦ビスマルク {{smaller|独・英艦隊、最後の大海戦}}|publisher=早川書房|series=ハヤカワ文庫|isbn=4-15-050269-2|ref={{SfnRef|巨大戦艦ビスマルク|2002}}}}
<!-- 日本語版では日本語文献を先に列挙する -->
* ''British and Empire Warships of the Second World War'', H T Lenton, Greenhill Books, ISBN 1-85367-277-7
* ''Conway's All the World's Fighting Ships, 1922-1946'', Ed. Robert Gardiner, Naval Institute Press, ISBN 0-87021-913-8
* ''Conway's All the World's Fighting Ships, 1922-1946'', Ed. Robert Gardiner, Naval Institute Press, ISBN 0-87021-913-8
*[http://uboat.net/allies/warships/ship/1179.html HMS Norfolk at U-boat.net]
*[http://uboat.net/allies/warships/ship/1179.html HMS Norfolk at U-boat.net]
*[https://www.webcitation.org/66kq6FAdT?url=http://www.world-war.co.uk/index.php3 Cruisers of World War II]
*[https://webcitation.org/66kq6FAdT?url=http://www.world-war.co.uk/index.php3 Cruisers of World War II]
*M. J. Whitley, ''Cruisers of World War Two: an International Encyclopedia'', Naval Institute Press, 2000, ISBN 1-55750-141-6
*M. J. Whitley, ''Cruisers of World War Two: an International Encyclopedia'', Naval Institute Press, 2000, ISBN 1-55750-141-6
*Alan Raven, ''British Cruiser Warfare: The Lessons of the Early War, 1939–1941'', Seaforth Publishing, 2019(電子版)
*Alan Raven, ''British Cruiser Warfare: The Lessons of the Early War, 1939–1941'', Seaforth Publishing, 2019(電子版)
{{カウンティ級重巡洋艦}}


*[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]
== 脚注 ==
**{{Cite book|和書|author={{smaller|海軍中佐}}早川成治|authorlink=|date=1938-03|chapter=二、日英米最新巡洋艦|pages=|title={{smaller|最新國防叢書 第五輯}} 巡洋艦の話|publisher=科学主義工業社|url={{NDLDC|1462252}}|isbn=|ref={{SfnRef|巡洋艦の話|1938}}}}
{{脚注ヘルプ}}
**{{Citation|和書|author=海軍研究社編輯部 編|date=1935-05|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版|url={{NDLDC|1109500}}|publisher=海軍研究社|ref={{SfnRef|ポケット海軍年鑑|1935}}}}
{{Reflist}}
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|date=1937-02|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版|url={{NDLDC|1231209}}|publisher=[[海軍研究社]]|ref={{SfnRef|ポケット海軍年鑑|1937}}}}


== 関連項目 ==
{{Commonscat|HMS Norfolk (78)}}
* [[海軍休日]]
* [[ロンドン海軍軍縮会議]]
* [[:en:List_of_fleets_and_major_commands_of_the_Royal_Navy|イギリス海軍の艦隊および司令部の一覧]]

{{カウンティ級重巡洋艦}}
{{DEFAULTSORT:のふおく}}
{{DEFAULTSORT:のふおく}}
[[Category:カウンティ級重巡洋艦]]
[[Category:カウンティ級重巡洋艦]]

2023年11月24日 (金) 14:55時点における最新版

ノーフォーク
基本情報
建造所 スコットランドの旗 スコットランドグラスゴーフェアフィールド造船所英語版
運用者  イギリス海軍
級名 カウンティ級ノーフォーク級重巡洋艦
艦歴
起工 1927年7月8日
進水 1928年12月12日
就役 1930年4月30日
その後 1950年1月3日、スクラップとして売却。
要目
基準排水量 10,035 トン
満載排水量 13,420 トン
全長 633 ftin (193.17 m)
最大幅 66 ft (20 m)
吃水 18 ft (5.5 m)
主缶 アドミラリティ式三胴型水管ボイラー×8基
主機 パーソンズギアード・タービン×4基
出力 80,000馬力 (60,000 kW)
推進器 スクリュープロペラ×4軸
最大速力 31.5ノット (58.3 km/h)
航続距離 12,000海里 (22,000 km)/12 ノット
乗員 平時710名、戦時819名
兵装
装甲
  • 水線部:3.5インチ (89 mm)
  • シタデル:4インチ (100 mm)
  • バーベット:1 in (25 mm)
  • 砲塔:1 in (25 mm)
搭載機 スーパーマリン ウォーラス×2機(第700海軍航空隊英語版運用)
その他 艦載機用カタパルト×1基(後に撤去)
テンプレートを表示

HMS ノーフォーク (HMS Norfolk, 78) はイギリス海軍重巡洋艦[1]カウンティ級重巡洋艦だが[2]、本艦と姉妹艦英語版の「ドーセットシャー」 (HMS Dorsetshire, 40) をサブグループとし、ノーフォーク級重巡洋艦に類別することもある[3]。艦名はノーフォークに因む。その名を持つ艦としては4隻目。

1941年5月23日夜にデンマーク海峡ドイツ海軍戦艦ビスマルク」を発見して追跡[4][注釈 1]27日に共同でビスマルクを撃沈した[注釈 2]。1943年12月26日、北岬沖海戦で僚艦(ベルファストシェフィールド)と共にドイツ戦艦「シャルンホルスト」を撃退し[8]、その後の撃沈に貢献した。

艦歴

[編集]

戦間期

[編集]

1927年7月にガバン英語版のフェアフィールド造船造機会社において起工され、1928年12月12日進水した。就役は1930年4月30日だった。1931年9月、「ノーフォーク」は後にインヴァーゴードン反乱として知られる反乱の舞台となった。その後1932年まで本国艦隊に所属し、1932年から1934年まではアメリカの西インド諸島方面で任務についた。1935年から東インド方面で行動した[注釈 3]1938年2月中旬、シンガポール海軍基地で「キング・ジョージ6世乾ドック、King George VI Graving Dock」が完成して竣功式が開催されたとき[10]、「ノーフォーク」は東インド艦隊(司令官サー・アレキサンダー・ラムゼイ中将)旗艦として参列した[注釈 4]アメリカ海軍オマハ級軽巡洋艦3隻もシンガポールに入港して開港式典に参加し、これに関連してタウンセンド提督は「ノーフォーク」を訪問してラムゼイ中将と会談した[注釈 4]。その後、本艦は改装のため1939年に帰国した。第二次世界大戦が始まったときはまだ造船所のドック内にあった。

世界大戦緒戦

[編集]

1939年9月、第二次世界大戦の勃発にともない「ノーフォーク」は本国艦隊の第18巡洋艦戦隊英語版に配属され、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) の通商破壊艦仮装巡洋艦ポケット戦艦[注釈 5])ばかりでなく、シャルンホルスト級戦艦などの追跡任務についた。そしてそれによって受けた多数の損傷の修理を行ったが、それが主要部分の改装に及ぶことはなかった。ベルファストで行われた最初の修理は、R級戦艦ロイヤル・オーク」を撃沈したドイツ潜水艦「U47[15]の魚雷の至近弾によるものであった。

1940年3月16日、ドイツ空軍第26爆撃航空団ドイツ語版に所属するHe 111がスカパ・フローを空襲し、練習艦(元戦艦)「アイアン・デューク」と「ノーフォーク」などが被害を受けた[16]。本艦には、投下された爆弾3発の内1発が後甲板に命中、1発が至近弾となり、水線下の船体側面に大穴が空き、右に3度傾いた状態で艦尾が着底した[17]

修理はクライド川でなされ、その後、タイン工廠で新兵器 - レーダー・セットの装備が行われた。

1940年12月、「ノーフォーク」は南大西洋において、K部隊の一員としてフリータウンから出発する船団護衛に任ずると共に、ドイツ重巡「アドミラル・シェーア」の[注釈 6]、そして1941年1月には、仮装巡洋艦「コルモラン」の捜索を命じられた。2月には大西洋の兵員輸送船団の護衛任務についたが、5月にアイスランド海域に戻された。

ビスマルク追跡

[編集]
ビスマルク沈没までの航跡 (1941年5月)

1941年5月中旬、ドイツ海軍はライン演習作戦を発動し[18]ギュンター・リュッチェンス提督が率いる戦艦「ビスマルク」と重巡「プリンツ・オイゲン」が北大西洋に出撃した[7]。諜報活動によってドイツ側の動向を察知したイギリス海軍では、5月18日に本国艦隊ジョン・トーヴィー提督が重巡2隻(ノーフォーク、サフォーク)をアイスランド周辺海域に配置した[注釈 7]。本艦は第1巡洋艦戦隊英語版司令官フレデリック・ウェイク=ウォーカー英語版少将の旗艦として、デンマーク海峡に出動した[20][注釈 8]

5月20日にスウェーデン海軍の航空巡洋艦「ゴトランド」がカテガット海峡でリュッチェンス戦隊(ビスマルク部隊)を発見して通報し[22][23]5月23日夜に英重巡「サフォーク」がデンマーク海峡でビスマルク部隊を発見した[24][25]。つづいて「ノーフォーク」もビスマルク部隊を発見する[4]。「ノーフォーク」はビスマルク部隊を視認した英海軍2番目の船となったが、霧により「ビスマルク」と至近距離で遭遇し、38センチ砲英語版で砲撃された[26]。「ビスマルク」の5回の主砲斉射を至近弾(夾叉弾)でやりすごしたあと[27]、「ノーフォーク」はビスマルク部隊発見の報告を各方面に通報した[注釈 9]。 なお「ビスマルク」では「ノーフォーク」への主砲発砲で前部レーダーが故障したので[29]、リュッチェンス提督は「ビスマルク」と「プリンツ・オイゲン」の配置を入れ替える[30]。「プリンツ・オイゲン」~「ビスマルク」~追尾部隊(ノーフォーク、サフォーク)という航海が始まった[31]。ドイツ戦艦からは、追尾するウォーカー部隊が視認できたという[30]

5月24日朝のデンマーク海峡海戦で、巡洋戦艦「フッド」と戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を指揮していたランスロット・ホランド英語版中将は、ウォーカー部隊(ノーフォーク、サフォーク)にドイツ重巡を、直率の大型艦2隻に「ビスマルク」を狙わせる決意であった[32]。だが無線封止をしていたのでウォーカー戦隊に意図が伝わらず、敵味方双方の航路がずれたこともあり[33]、「フッド」と「ウェールズ」のみでビスマルク部隊を相手にすることになった[34]。ウォーカー部隊を戦闘に加入させ、「ビスマルク」の後部火力(3番砲塔、4番砲塔、38センチ砲合計4門)を分散させる戦術もあったが[35][注釈 10]、その命令を出すまえに「フッド」は轟沈してホランド中将は戦死してしまった[37]。「プリンス・オブ・ウェールズ」も被弾と故障で戦闘継続が困難となり[5]、艦長リーチ大佐はビスマルク部隊を距離をとった[38]

「ノーフォーク」のフィリップス艦長は、かつて「フッド」の砲術長をつとめていた[39]。ウォーカー少将は「フッド轟沈ス」の電報を全世界に発し[39][40]、生存者の捜索を駆逐隊にまかせる[41]。つづいて合流した「プリンス・オブ・ウェールズ」を指揮下に入れ[5]、引き続きビスマルク部隊を追跡した[42][43]。24日午後、海軍本部パウンド海軍大将の介入により[44][45]、ウォーカー戦隊3隻は「ビスマルク」と砲撃戦をおこなったが[6]、敵味方双方とも特筆すべき戦果も被害もなかった[46][注釈 11]。 空母「ヴィクトリアス」所属のソードフィッシュが「ビスマルク」を雷撃したあとも、ウォーカー戦隊3隻は「ビスマルク」と散発的な砲撃をかわした[50][51]。このあとウォーカー戦隊は対潜水艦警戒航行を実施するが、5月25日未明になると「ビスマルク」を見失ってしまった[52][53][注釈 12]

捜索やトーヴィー提督の命令で「サフォーク」と「プリンス・オブ・ウェールズ」が分離したあと[25][55]、「ノーフォーク」(ウォーカー少将)は単独で「ビスマルク」を探しまわり、「ビスマルク」がフランスにむかう想定で独自航路をとった[56]5月26日夜、H部隊の空母「アーク・ロイヤル」が艦上攻撃機で「ビスマルク」の舵を破壊したとき[57]、「フッド」の仇敵を直接攻撃できる位置にいた大型艦は戦艦「ロドニー」、本国艦隊旗艦でもある戦艦「キング・ジョージ5世」、重巡「ドーセットシャー[58]、そして「ノーフォーク」とH部隊であった[59][注釈 13]

5月27日午前8時、「ノーフォーク」は「ビスマルク」に追いつき、「ビスマルク」を友軍のネルソン級戦艦と間違えて発光信号をおくった[61][62]。「ノーフォーク」は敵味方を誤認している事に気づき、「ビスマルク」の射程外に逃げ出してトーヴィー提督直接の戦艦2隻に合流する[63]。そして戦闘中に合流した姉妹艦「ドーセットシャー」(艦長マーティン英語版大佐)と共に[64]、ビスマルクを撃沈したのである[65][注釈 14]

5月27日の戦闘で、「ノーフォーク」は「ビスマルク」に対し8インチ砲弾527発、魚雷8本を発射した[70]

北極海

[編集]
北方の船団護送任務に従事してロシアの入り江に入港した「ノーフォーク」と駆逐艦部隊。(軽巡洋艦「シラ」から撮影)

9月からは、ソビエト連邦むけ北極船団の護衛を担当した。 1942年6月下旬、ルイス・ハミルトン英語版少将が率いる英米巡洋艦部隊(英重巡「ロンドン」、英重巡「ノーフォーク」、米重巡「ウィチタ」、米重巡「タスカル―ザ」、米駆逐艦「ウェインライト」、米駆逐艦「ローワン」、英駆逐艦「ソマリ」)として、PQ17船団の掩護部隊となった[71]PQ-17船団戦闘序列)。イギリス海軍本部はドイツ軍が発動したレッセルシュプルング作戦英語版にともなうドイツ戦艦「ティルピッツ」出撃の情報に動揺してPQ17船団を解散させてしまい、本艦を含む護衛部隊や各艦はソ連に向かう船舶を置き去りにして反転した[72]。PQ17船団は大損害を受ける[73]ソ連向け援助船団は、運航停止に追い込まれた[注釈 15]

1943年12月26日、連合軍輸送船団JW55B英語版は、エーリヒ・バイ提督が率いるドイツ戦艦「シャルンホルスト」の攻撃を受ける[8]。本艦はそれを護衛するロバート・バーネット英語版提督指揮下の巡洋艦部隊(ノーフォーク、ベルファストシェフィールド)に所属していた。「ノーフォーク」は「シャルンホルスト」に3発の命中弾を与えた。レーダーを破壊された「シャルンホルスト」は退避し、その後、ブルース・フレーザー提督が率いるイギリス戦艦「デューク・オブ・ヨーク」や大型軽巡「ジャマイカ」などが戦闘に加入する[8]。「シャルンホルスト」は砲撃と雷撃を浴びて撃沈され、バイ提督も戦死した[注釈 16]

北岬沖海戦で勝利したものの、「ノーフォーク」は「シャルンホルスト」の28センチ砲弾英語版を被弾していた。損傷した本艦はタインにおいて修理に入ったため、ノルマンディー上陸作戦には関与できなかった。

出迎えの群衆に「ノーフォーク」艦上から手を振るノルウェー王族(オスロにて)

1945年1月11日から12日にかけての夜、「ノーフォーク」、軽巡洋艦「ベローナ」、駆逐艦「オンスロー」「オーウェル」「オンスロート」はノルウェー沖でドイツの船団を攻撃、3隻中2隻を撃沈したほか護衛の艦艇の内1隻(掃海艇「M273」)も撃沈した。

戦争が終わると、ロンドンに5年間亡命していたノルウェー王室をオスロに運んだ後、プリマスを発って、非常に重要な修理のためにマルタに向かった。その後、東インドで東インド艦隊司令長官の旗艦を務めた。

1949年、帰国した「ノーフォーク」は予備艦となる。1950年1月3日にBISCO英語版に引き渡され、2月19日に解体場所のニューポートのCashmoreに着いた[75]

戦歴

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ ビスマルク追跡戦における「ノーフォーク」は[5]フレデリック・ウェイク=ウォーカー少将の旗艦であった[6]
  2. ^ ビスマルクは英空母「アークロイヤル」の艦上機によりが故障した[6]、英戦艦2隻(キング・ジョージ5世ロドニー)と英重巡2隻(ノーフォーク、ドーセットシャー)の攻撃で沈没した[7]
  3. ^ (十三日ビナン發)[9] 本月末から二月初めにかけて擧行される大演習参加のため久し振りに馬來を訪れる英國東印度艦隊所属巡洋艦ノーフォーク及エメラルド兩艦並に印度海軍警備艇三隻は來る二十一日及二十三日それぞれ當地に寄港二十五日共にシンガポールに向ふ豫定であるが(以下略)
  4. ^ a b 米艦隊入港[11] 本日の海軍根據地乾ドック竣功式に参加の米國巡洋艦トレントンメンフイスミルウオーキー號は昨日午前柔佛海峡に靜々とその雄姿をあらはし正午海軍根據地の眞前沖に投錨、禮砲交換、軍樂演奏等型の如き艦隊入港ではあつたが、附近水面には大演習の餘塵を洗つた英國艦艇が四十隻もあり、さすがに極東の緊張を物語つてゐた、米國艦隊司令官タウンセンド提督は白髪の老將、禮儀正しい物靜かな態度で左の如く語る(中略)タウンセンド提督は入港と共に東印度艦隊司令長官サー・アレキサンダー・ラムゼイ中将をノーフォーク號に訪問、その他公式訪問の交換で後夜は總督官邸に招かれたが、明日總領事代理マツクエネリー氏の舞踏會がシー・ビューホテルに開かれる外、英米水兵さんの交驩がさかんに行はれる(記事おわり)
  5. ^ ポケット戦艦は通称で、ドイツ側呼称は装甲艦。世界大戦開戦時、ドイッチュラント[12]アドミラル・シェーア[13]アドミラル・グラーフ・シュペー[14]が竣工していた。
  6. ^ ヒトラー総統の命令により、ドイッチュラント級装甲艦は重巡洋艦 (Schwerer Kreuzer) に類別変更されていた。
  7. ^ ノーフォークに対しては、アイスランドを出港して既に哨戒行動中のサフォーク(艦長Robert Meyrick Ellis大佐)を支援するよう命じた[19]
  8. ^ なおサフォークの艦橋は密閉式で暖房がついていたが、ノーフォーク(艦長Alfred Jerome Lucian Phillips大佐)の艦橋は吹きさらしだった[21]
  9. ^ サフォークの敵発見の無電はどこにも傍受されず、ノーフォークの無電が各方面に届いた[28]
  10. ^ ドイツ戦艦側も、視認距離を航行している英重巡2隻から魚雷攻撃されることを警戒し、後方への警戒を怠らなかった[36]
  11. ^ サフォークの艦橋の窓ガラスが割れ、吹きさらしとなった[47]。 この砲撃戦と前後して、プリンツ・オイゲンはビスマルクと分離した[48][49]
  12. ^ ノーフォークでは疲労したウォーカー提督とフィリップス艦長がアンフェタミン覚醒剤)とコーヒーで頑張っていたが、ついに交替で艦橋に立つことにしたという[54]
  13. ^ ジェームズ・サマヴィル提督のH部隊(巡洋戦艦レナウン、軽巡シェフィールド、空母アークロイヤル)[60]
  14. ^ 戦闘不能になったビスマルクは[6]、ドーセットシャーによって雷撃処分された[66][67]。またビスマルク艦内でも自沈処理がおこなわれた[68][69]
  15. ^ ソ連向け援助船団は、9月初旬のPQ18船団から再開された。続いて12月中旬にJW-51A船団が運航されて成功し、12月下旬のJW-51B船団ではバレンツ海海戦が生起した。
  16. ^ 【ニューヨーク)INS二日發】[74] 獨トランス・オツエアシ通信の報道によれば十二月、ソ聯向け聯合軍護送船團襲撃の企圖に失敗せる獨海軍艦隊司令官ベイ少將は戰死を遂げだ、此の放送を記録せる聯邦逓信局は獨側の發表は海戰に撃沈された戰闘艦シャルンホルスト號と運命を共にせる事を容認した(記事おわり)

出典

[編集]
  1. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 86(原本154-155頁)一等巡洋艦ノーフオルク
  2. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 472–473.
  3. ^ 巡洋艦の話 1938, p. 10原本10-11頁
  4. ^ a b 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 167ドイツ機動部隊、イギリス重巡と遭遇
  5. ^ a b c ミドルブック、戦艦 1979, pp. 75–76.
  6. ^ a b c d 英海空精鋭の重圍に最後迄善戰沈没したビ號の海戰顚末 三度艦影を晦ましてならず 衆寡敵せず北大西洋怨深し”. Hoji Shinbun Digital Collection. Taihoku Nippō. pp. 05 (1941年5月28日). 2023年10月21日閲覧。
  7. ^ a b ビスマルクの最期 1982, pp. 12–13ライン演習作戦、両軍各艦航跡図
  8. ^ a b c オスプレイ、ドイツ戦艦 2005, pp. 14–15.
  9. ^ 軍艦歡迎に賑ふ彼南”. Hoji Shinbun Digital Collection. Singapōru Nippō. pp. 03 (1938年1月15日). 2023年10月21日閲覧。
  10. ^ ミドルブック、戦艦 1979, pp. 30–31.
  11. ^ 單なるお客サ タウンセンド提督艦上に語る”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nan’yō Nichinichi Shinbun. pp. 03 (1938年2月14日). 2023年10月21日閲覧。
  12. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 159原本300-301頁、戰艦ドイチユランド
  13. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 160原本302-303頁 戰艦アドミラル・シエア
  14. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 161原本304-305頁 戰艦アドミラル・グラーフ・シユペー
  15. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 58.
  16. ^ Chronik des Seekrieges 1939–1945, März 1940”. 2023年11月24日閲覧。
  17. ^ British Cruiser Warfare, CHRONOLOGY OF EVENTS FROM SEPTEMBER 1939 TO DECEMBER 1941, 16 March 1940. Air Attack on Scapa Flow.
  18. ^ オスプレイ、ドイツ戦艦 2005, p. 33.
  19. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 61.
  20. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 88–89.
  21. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 88-89.
  22. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 53–54.
  23. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 132–135, 441–442.
  24. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 92–93.
  25. ^ a b 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 18–19(ライン演習作戦、両軍各部隊・各艦航跡図)
  26. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 93–94.
  27. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 168–169.
  28. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 95–96.
  29. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 28.
  30. ^ a b 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 170–174.
  31. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 107–109.
  32. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 121–123.
  33. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 121–122.
  34. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 126–130.
  35. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 142–143.
  36. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 181–183.
  37. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 194アイスランド沖海戦
  38. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 150–156.
  39. ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 157.
  40. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 420.
  41. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 159–162.
  42. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 124–125(デンマーク海峡海戦航跡図)
  43. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 176–180.
  44. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 182–188.
  45. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 408–109.
  46. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 220–221.
  47. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 193–195.
  48. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 189–192.
  49. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 218北大西洋におけるビスマルク追撃態勢
  50. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 217.
  51. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 230.
  52. ^ オスプレイ、ドイツ戦艦 2005, p. 35.
  53. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 241ビスマルク、触接を断つ
  54. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 217–219.
  55. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 267ビスマルクを探索するイギリス艦隊。
  56. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 230.
  57. ^ オスプレイ、ドイツ戦艦 2005, p. 36.
  58. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 295ビスマルクが空母アーク・ロイヤルの艦載機から舵に魚雷を受けるまで。
  59. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 322–323.
  60. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 252–253(ビスマルク最期の戦闘、両軍航跡図)
  61. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 353.
  62. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 357–358.
  63. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 359–361.
  64. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 364–365.
  65. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 370ビスマルク最後の戦闘
  66. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 375–376, 391.
  67. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 380–381.
  68. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 381–382, 387–388.
  69. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 382–385.
  70. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 430–431.
  71. ^ 戦艦ワシントン 1988, pp. 78–79.
  72. ^ 戦艦ワシントン 1988, pp. 83–85.
  73. ^ オスプレイ、ドイツ戦艦 2005, p. 40.
  74. ^ 獨海軍指揮官ベイ少将戰死”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times. pp. 04 (1944年3月2日). 2023年10月21日閲覧。
  75. ^ Cruisers of World War Two, p. 92

参考文献

[編集]
  • ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド1 German Battleships 1939-45 ドイツ海軍の戦艦 1939 ― 1945』手島尚〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard〉、2005年11月。ISBN 4-499-22898-0 
  • ルードヴィック・ケネディ『戦艦ビスマルクの最期』内藤一郎 訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1982年9月。ISBN 4-15-050082-7 
  • M・ミドルブック、P・マーニー『戦艦 ― マレー沖海戦 ―』内藤一郎 訳 、早川書房、1979年6月。 
  • イヴァン・ミュージカント『戦艦ワシントン 米主力戦艦から見た太平洋戦争』中村定 訳、光人社、1988年12月。ISBN 4-7698-0418-0 
  • ブルカルト・フォン・ミュレンハイム=レッヒベルク『巨大戦艦ビスマルク 独・英艦隊、最後の大海戦』佐和誠 訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、2002年7月。ISBN 4-15-050269-2 
  • British and Empire Warships of the Second World War, H T Lenton, Greenhill Books, ISBN 1-85367-277-7
  • Conway's All the World's Fighting Ships, 1922-1946, Ed. Robert Gardiner, Naval Institute Press, ISBN 0-87021-913-8
  • HMS Norfolk at U-boat.net
  • Cruisers of World War II
  • M. J. Whitley, Cruisers of World War Two: an International Encyclopedia, Naval Institute Press, 2000, ISBN 1-55750-141-6
  • Alan Raven, British Cruiser Warfare: The Lessons of the Early War, 1939–1941, Seaforth Publishing, 2019(電子版)

関連項目

[編集]