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「三重県立宇治山田高等学校」の版間の差分

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2022年10月6日 (木) 20:31時点における版

三重県立宇治山田高等学校
地図北緯34度29分16.2秒 東経136度41分38.3秒 / 北緯34.487833度 東経136.693972度 / 34.487833; 136.693972座標: 北緯34度29分16.2秒 東経136度41分38.3秒 / 北緯34.487833度 東経136.693972度 / 34.487833; 136.693972
過去の名称 三重県宇治山田高等学校
国公私立の別 公立学校
設置者 三重県の旗 三重県
併合学校 三重県立宇治山田中学校
三重県宇治山田高等女学校
設立年月日 1899年明治32年)
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 3学期制
学校コード D124210050392 ウィキデータを編集
高校コード 24132G
所在地 516-0062
三重県伊勢市浦口三丁目13番1号
外部リンク 公式ウェブサイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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三重県立宇治山田高等学校の位置(三重県内)
三重県立宇治山田高等学校

三重県立宇治山田高等学校(みえけんりつ うじやまだこうとうがっこう)は、三重県伊勢市浦口三丁目にある普通科県立高等学校

概要

三重県第四尋常中学校に始まり、旧制宇治山田中学と宇治山田高等女学校を前身とする県下有数の伝統校である。「自主・自立」を学校の目標としている。往年と比べると、近年(とりわけ学校群制度解消後)の進学実績面での成果は振るわない。1995年平成7年)の伊勢高校との三群解消後は、自然科学コースの導入(2005年(平成17年)度募集停止)や2学期制の導入、入試での複合選抜と習熟度別授業の実施、全普通教室への空調設備設置など、学習面での指導体制と環境整備を進めている。また、伝統的に自由で伸び伸びとした校風で知られているが、近年は生徒指導を強化しつつある。斬新な「プラチナの陽はふりそそぎ」で始まる校歌は、草野心平作詞・深井史郎作曲。通称は「山高」(やまこう)。

創立当初から自由の校風であったわけではなく、大正時代初期の第四中学校は、風紀の取り締まりに厳しかったと当時の生徒が証言している[1]。服装指導はもちろん、時計の所持禁止、映画館劇場の出入り禁止、さらには文芸書を読むことまで禁止されていた[2]。こうした教師による締め付けに対し、生徒は学年を挙げてのボイコットを敢行したり、地元紙の吃驚新聞に教師を揶揄する数え歌を投稿するなどして抵抗した[3]。特に岩田準一は上述の校則を尽く破っていたが、必ず相手を納得させてしまう理由を準備して教師に対峙したため、他の生徒よりも大目に見られていた[4]

設置学科

規模

  • 生徒数
    • 1年生-200人
    • 2年生-198人
    • 3年生-234人

  (2022年令和4年)4月1日現在)[5]

  • 施設

  3棟の校舎体育館武道館多目的ホール運動場テニスコートなど。全教室に空調設備が整備されている。

沿革

私立淑徳学舎~三重県宇治山田高等女学校

  • 1897年 - 私立淑徳学舎創立。
  • 1903年 - 町に移管され山田町立淑徳女学校と改称。
  • 1912年 - 市制施行により宇治山田市立実科高等女学校と改称。
  • 1915年 - 宇治山田市立高等女学校と改称。
  • 1919年 - 県に移管され三重県宇治山田高等女学校と改称。

三重県第四尋常中学校~三重県立宇治山田中学校

三重県宇治山田高等学校~三重県立宇治山田高等学校

  • 1948年 - 学制改革により宇治山田中学校と宇治山田高等女学校が統合、三重県宇治山田高等学校となる。
  • 1955年 - 三重県立宇治山田高等学校と改称。
  • 1956年 - 三重県立伊勢高等学校の創立に伴い、女子生徒のみ受け入れることとなる。
  • 1958年 - 男子生徒の受け入れ再開。
  • 1974年 - 学校群制度導入に伴い、三重県立伊勢高等学校と共に第3学校群を編成。
  • 1995年 - 学校群を解消し単独選抜に戻る 普通科に自然科学コースを設置。
  • 1999年 - 創立100周年記念事業。
  • 2005年 - 2学期制を導入 自然科学コースの募集停止。
  • 2008年 - 制服を制定 県立高校入試制度の改編に伴い、入試を前期と後期に分けて二元化。

校史上のいくつかの転機

長い宇治山田高校の歴史において、例えばひとつの転機として知られるのが1956年昭和31年)の伊勢高校創立がある。現在、伊勢高校は三重県南部トップの進学校として知られているが、かつては宇治山田高校がその位置にいた。旧制中学を引き継いだ伝統校が新設校に進学実績面で遅れをとるのは珍しいケースである。

1950年代に入ると伊勢市の人口は増加の一途を辿り、それにともない宇治山田高校の生徒数も飽和状態となった。そこで三重県教育委員会は伊勢市に高校を新設することを決定した。こうして1956年(昭和31年)、伊勢市に新設校・伊勢高校が誕生する。ところが決定が急だったために伊勢高校の校舎は準備されておらず、仮校舎での出発が決定する。そこで問題となったのが、女子用設備(トイレなど)だった。また、新設校という理由で入学希望者が集まらないことも懸念された。こうして、宇治山田高校を女子校、伊勢高校を男子校とし、宇治山田高校の教師の約半分が伊勢高校へと移ることになった。なおこの時点では宇治山田高校と伊勢高校の校章は全く同じであった。したがって、伊勢高校は宇治山田高校の兄弟校とも言え、実際には宇治山田中学の後進とも捉えることができると考える人もいたが、80年代初頭に宇治山田高校と宇治山田中学、宇治山田高等女学校の同窓会が統合、旧制学校の後継校として宇治山田高校のみが系譜の中に位置づけられてゆくことになる。

宇治山田高校はそれ以降女子校となったのだが、これが後の運命を大きく決定する。当時、女子の大学進学率はまだ低く、当然それは宇治山田高校の進学実績面においても反映された。2年後の1958年(昭和33年)度から再び共学化されることになったが、相対的に女子の多い状態がのちの学校群制度の導入まで続く。伊勢高校も1957年(昭和32年)度に1年早く共学化に踏み切ったものの、宇治山田高校とは逆に男子の多い学校となり、進学実績の面でも良好であった。この頃に伊勢高校は南部地区屈指の進学校として足場を固め、世間の評価も高まっていた。

宇治山田高校にとって第2の転機となったのが、1974年(昭和49年)度から実施された学校群制度である。この制度は、当時厳しさを増していた受験戦争を緩和するために導入されたものであり、全国的な流れに三重県も合流した形となった。こうして、第1学校群に四日市高校四日市南高校、第2学校群に津高校津西高校、そして第3学校群に宇治山田高校と伊勢高校が指定された。入試は学校群単位で行われ、合格者は本人の希望とは関係なく、2校のレベルが均等になるように振り分けられた。宇治山田高校が進学実績を回復させるためには、転機となる制度であったが、生徒の意向を反映することのできない学校群制度には不満の声も多かった。親子・兄弟に渡り山高生になることを望んだり、「山高の校風」に憧れた生徒が宇治山田高校志望であっても伊勢高校に進むことになった場合も多くあったが、その逆も多く、学校群制度の開始当時、伊勢高校志望であったにもかかわらず、宇治山田高校に入学することになった生徒の保護者は保護者会議で宇治山田高校校長に不満をぶちまけたことがあった。校長は3年後には絶対伊勢高校に匹敵するだけの進学実績を上げることを約束し、保護者の不安を収集したという。そして、それは実現し、宇治山田高校は例年東大や京大といった最難関大学の合格者を再び送り出すようになる。

1980年代後半頃から生徒の自由な選択を妨げる学校群制度の問題が指摘されるようになり、全国的に廃止が進む。そして、1995年(平成7年)には三重県でも廃止の運びとなった。

しかし、この学校群制度の廃止が、宇治山田高校にとって再び進学実績面での伸び悩みをもたらすきっかけともなった。伊勢高校は「教科学習重視の校風」、宇治山田高校は「自由な校風」というイメージが一般的には定着してきており、最難関校を目指す生徒は伊勢高校を選択するようになる。そうして入学した生徒が大学入試で優れた実績を上げることで、学力最上位層の中学生がより一層伊勢高校に集まる。受験生の総量に限りがあるから、相対的に宇治山田高校の進学実績面での伸び悩みにつながることになる。単独選抜制度の下で入学した生徒が卒業した年度以降、両校の進学実績には差が出て次第に広がっていった(旧1群・2群を形成していた学校でも同様のことが生じた)。

1999年(平成11年)、創立100周年記念事業として「創立100周年式典」「三校交流行事」を開催した。

現在、伊勢志摩地区で伊勢高校、宇治山田高校以外に、公立の普通科高校でこの2校に匹敵する難易度の高校がないため、近年の進学実績面での成果が振るわないといっても地区全体で見ると、高難易度の高校であることには変わりはない。また、学校側は「自主・自立」と「自由な校風」のもとで生徒の自主性と自律を育みながら、勉学や自主活動等の各自の目標・進路を支援するとして、2学期制や一部教科での習熟度別授業の導入、入試の二元化改革に着手した。

部活動

本部直属クラブ
運動クラブ
文化クラブ

2022年令和4年)4月1日現在)[7]

著名な出身者

前身校

宇治山田高校

その他

出身中学校

出身中学校別生徒数

上位5校まで、3学年の合計

  1. 伊勢市立小俣中学校:57名
  2. 明和町立明和中学校 (三重県):51名
  3. 志摩市立文岡中学校:35名
  4. 伊勢市立伊勢宮川中学校:34名
  5. 鳥羽市立鳥羽東中学校:34名

2022年令和4年)4月1日現在)[5]

脚注

  1. ^ 中村 1970, p. 329.
  2. ^ 中村 1970, pp. 329–330.
  3. ^ 中村 1970, pp. 330–331.
  4. ^ 中村 1970, p. 331.
  5. ^ a b 三重県立宇治山田高等学校 令和4年度出身中学校別人数
  6. ^ 三重県立宇治山田高等学校 生物部
  7. ^ 三重県立宇治山田高等学校 学校生活
  8. ^ 三重県環境生活部文化振興課県史編さん班"63 岩田準一と伊勢朝報 - 三重の文化"(2014年2月2日閲覧。)
  9. ^ 和久田康雄「イアン・アランと田中隆三 鉄道出版で一時代を作った両氏」電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2001年7月号 No.703 p161

参考文献

  • 中村精貮「岩田準一のこと」『鳥羽志摩の民俗 志摩人の生活事典』鳥羽志摩文化研究会、1970年4月15日、329-333頁。 全国書誌番号:73001642

関連項目

外部リンク