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第1回全国中等学校優勝野球大会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第1回全国中等学校優勝野球大会
村山龍平朝日新聞社長による始球式
中央は審判長・荒木寅三郎京大総長。
左は副審判長・平岡寅之助。
試合日程 1915年8月18日 - 8月23日
出場校 10校
参加校数 71(73)校
優勝校 京都二中京津京都、初優勝)
試合数 10(再試合1)試合
始球式 村山龍平朝日新聞社社長
大会本塁打 1本
1916 > 
全国高等学校野球選手権大会
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第1回全国中等学校優勝野球大会(だい1かいぜんこくちゅうとうがっこうゆうしょうやきゅうたいかい)は、1915年大正4年)8月18日から8月23日まで大阪府豊能郡豊中村(現・豊中市)の豊中グラウンドで行われた全国中等学校優勝野球大会。毎年8月に開催されている全国高等学校野球選手権大会の第1回大会である。

概要

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1915年7月1日に全国中等学校優勝野球大会の開催が告知された。地方大会で優勝した学校に全国大会出場資格を与えると規定されたが、大会初日となる8月18日まで日数に余裕がなく、加えて、大会主催者である大阪朝日新聞社(大朝)が紙面の大半を費やした広告や特集を組み、地方大会の主催や後援も行ったのに対し、1911年野球害毒論を展開した東京朝日新聞社(東朝)はごくわずかな記事で済ませ、地方大会の主催や後援を一切行わなかったため[1]西日本東日本で地方大会のあり方が大きく異なることとなった。

東北では北海道第5回大会まで東北)や青森県などで対校試合が禁止されており、秋田県の1校だけが参加を希望したが、予選なしの全国大会出場は認められないため、同県の他2校と臨時で行った試合が東北大会と見なされ[1]、無事2勝した参加希望校に全国大会出場資格が与えられた。なお、他の県から恨みを買ったとされるが[2]、東北大会について「本年は特に秋田市において希望校のみ予選試合を行う」と大朝が認めている[1]関東では東朝の不関与もあって7府県を対象に関東大会を行う余裕がなく、同年3月に東京府の8校が参加して行われた、武侠世界社主催の東京都下野球大会が地方大会と見なされ、その優勝校に全国大会出場資格が与えられた[1]北陸甲信含む)では地方大会と見なすことが可能な四高主催の北陸野球大会の日程が全国大会と被ってしまい、日程の調整ができず全国大会を諦めることとなった[1]東海では三重二中(参加校持ち回り)主催の第12回東海五県連合野球大会(6校参加)が東海大会と見なされた[1]関西では美津濃商店主催の第3回関西学生連合野球大会の規模が大き過ぎるため、その一部が関西大会(8校参加)と見なされ、別途大朝主催の京津大会(11校参加)と兵庫大会(7校参加)が行われた[1]山陰では両県対決となる試合が禁止されていたため鳥取県予選(4校参加)と島根県予選(2校参加)が行われ、大朝後援の山陰大会(両県予選勝者による決勝)が豊中グラウンドで行われた[1]。なお、関西大会の会場も豊中グラウンドだった。山陽では大朝主催の山陽大会(6校参加)、四国では高松体育会主催・大朝後援の四国大会(8校参加)、九州では抜天倶楽部主催・大朝後援の九州大会(8校参加)がそれぞれ行われた[1]

参加校数は表向き71校となるが、高松体育会主催の四国大会において徳島県の参加希望5校を3校に絞る県予選のようなものが事前に行われており[3]、この「徳島県予選」敗退の2校を加えると73校となり、参加校数を73校とカウントしている資料も少なくない[4]。このような経緯から、全国71校あるいは73校の各代表10校が豊中グラウンドに集まり、第1回全国中等学校優勝野球大会が行われた。

豊中グラウンドは、1周400メートルのトラックを持つ運動場で、グラウンドは右翼方面が狭い長方形の形状であった。外野にフェンスはなく、ロープを張ってそれを境界線とし、ロープをノーバウンドで越えた場合は本塁打とした。ボールが観客席に入ることも度々あったという。また、ホームからの距離は一番深いセンター側で100メートルだった。常設の観客席はなく、よしず張りの屋根で覆った木造の仮設スタンドを大会時のみ設置した[5][6]。観客数は、開催5日間で5000人から10000人程度と伝えられている[5]。アクセス線となっていた箕面有馬電気軌道(現・阪急宝塚本線)の列車は、沿線がまだ市街化されていなかったため1両編成で本数も少なく、試合終了後豊中駅に殺到する観客が乗車口に溢れた[5][注釈 1]

優勝校には優勝旗、銀メダル、選手にはスタンダード大辞典、50円図書切手、腕時計が、準優勝校には英和中辞典が、さらに1回戦の勝利校には万年筆が選手全員に贈られた。しかし大会終了後に、選手に数々の副賞を贈るのはどうかと議論が起こり、第2回大会からは優勝旗と参加メダルのほかは、土産として大阪名物の粟おこしが贈られるのみとなった[7]

代表校

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地方大会 代表校 出場回数
東北 秋田中 初出場
東京 早稲田実 初出場
東海 三重四中 初出場
京津 京都二中 初出場
関西 和歌山中 初出場
兵庫 神戸二中 初出場
山陰 鳥取中 初出場
山陽 広島中 初出場
四国 高松中 初出場
九州 久留米商 初出場

始球式

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開幕試合(先攻:広島中、後攻:鳥取中)の開始前、両チーム整列の後に、朝日新聞社村山龍平社長が、羽織袴の和礼装でマウンドに立ち、ボールを投じた。ボールはまっすぐに捕手のミットに収まり、ストライクが宣告された。村山は、この日のために投球練習を重ねていたという。

なお、現在は始球式の投球はあくまでセレモニーであり、1回表の投手による投球を正式な第1球としてカウントしているが、2000年に発刊された「高校野球の100年」によると、始球式で村山により投じられた第1球がそのまま先頭打者である広島中の小田大助に対する「初球」としてカウントされ、その後小田は三振に打ち取られているが、訂正されなかったという。

また、投手として全国中等学校野球優勝野球大会における記念すべき第1球を投じた鳥取中の鹿田一郎は、後年NHKの取材に応じた際に試合の先攻・後攻はじゃんけんで決めたため、自分がそのような投手になったのは偶然だったと答えており、始球式の際には村山たちの後ろで緊張して立ち尽くしていたという[8]

試合ルール

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審判は球審と塁審二人のほかに陪審を置いた。陪審はネット裏で観戦し、問題が起こった時に3人の審判と協議をしたり、また試合後の総評を書く役目を任されていたが、翌年の第2回大会からは廃止となった[6]

当時は公認野球規則、アマチュア野球内規、高校野球特別規則など、現在での当たり前の規則等が存在しなかった。その一つに監督のベンチ入りがあげられる。第13回大会ルール改正まで監督はベンチ入りが出来ず、指揮も直接執ることが出来なかった。その為選手がスタンドに座る監督へ指示を聞きに行ったが、これが現在お馴染みとなった伝令の起源である。[9]

試合結果

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日程は今日に比べ、変則的に組まれていた。

1回戦

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  • 8月18日 鳥取中 14 - 7 広島中
  • 8月19日 和歌山中 15 - 2 久留米商

準々決勝

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  • 8月18日 京都二中 15 - 0 高松中
  • 8月18日 早稲田実 2 - 0 神戸二中
  • 8月19日 秋田中 9 - 1 三重四中
  • 8月20日 和歌山中 7 - 1 鳥取中

準決勝

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  • 8月20日 秋田中 3 - 1 早稲田実
  • 8月21日 京都二中 1 - 1 和歌山中(9回裏1死1塁・降雨引き分け)
  • 8月22日 京都二中 9 - 5 和歌山中(再試合)

決勝

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8月23日
  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 R H E
秋田中 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 1 4 7
京都二中 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 1x 2 7 2
  1. (延長13回)
  2. (秋):長崎 - 渡部
  3. (京):藤田 - 山田
  4. 審判
    [球審]菊名
    [塁審]井上・岡本
秋田中
打順守備選手
1[捕]渡部純司
2[投]長崎廣
3[三]鈴木粂治
4[遊]小山田雄一
5[一]信太貞
6[左]丹市郎
7[中]羽石統一
8[右]高橋巖
9[二]齋藤長治
京都二中
打順守備選手
1[中]中啓吉
2[捕]山田惣次郎
3[投]藤田元
4[三]大場義八郎
5[遊]綾木保次郎
6[二]津田良三
7[一]西川五三郎
8[左]内藤源次郎
9[右]野上實

大会本塁打

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その他の主な出場選手

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エピソード

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  • 第1回大会から63年後の1978年、週刊朝日第60回大会記念号及び当時の朝日新聞紙面において、「第1回大会の出場者は今」という企画で、第1回大会出場者109名のうち当時の存命者20人全員を取材した。そこでは既に80歳前後となった"元球児"たちのそれぞれの第1回大会の回想や白球への思いが語られている。その20名の中には始球式の第1球がカウントされてしまった広島中・小田選手や、第1号本塁打を放った広島中・中村選手も含まれていた。週刊朝日の企画では、存命者だけでなく物故者も含めた第1回大会出場者109人全選手の「その後」までも取材している。
  • 2015年の第97回全国高等学校野球選手権大会は、1915年に第1回全国中等学校優勝野球大会が開催されてから100年となるのを記念して、開会式では、選手権大会100周年の記念事業として、第1回大会に出場した10校の後続校(秋田高校早稲田実業学校宇治山田高校鳥羽高校桐蔭高校兵庫高校鳥取西高校広島国泰寺高校高松高校久留米商業高校)の野球部員1名が100年前のユニフォームを再現し、「高校野球100年」と書かれた青帯を持って入場行進した[10][11][12]。選手宣誓は主催者側の提案により、第1回大会優勝校の京都二中の後続校でこの第97回大会の代表校でもある鳥羽高校の梅谷成悟主将が行なった[13][14]
  • この大会で秋田中学が決勝戦に進出するも、秋田県勢からは第100回全国高等学校野球選手権記念大会金足農業高校まで103年間決勝に進出していなかった[15]
  • この大会で早稲田実業の捕手を務めた岡田源三郎は、後に1936年(昭和11年)の職業野球発足と共に名古屋金鯱軍に監督兼任ながら選手として入団、第1回大会に出場した選手の中で唯一のプロ野球選手となった。
  • 当時監督がベンチ入りできなかったため、12回大会までは指示を聞くためにスタンドへ選手が行っていて度々試合が中断したという。

脚注

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注釈

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  1. ^ この輸送力の問題が、観客数が増加した第2回大会では致命的となり、翌第3回大会からは会場が鳴尾球場へ変更された。
  2. ^ 外野の草むらに打球が入り込み、相手選手がボールを探しているうちに生還するランニング本塁打。高校野球関係の全国大会最初の本塁打。またランニング本塁打としても初。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 秦真人「1911年における野球論争の実証的研究(Ⅳ)-大正期における「全國優勝野球大會」の地方大会主催者に関わる考察-」『総合保健体育科学』第16巻第1号、名古屋大学総合保健体育科学センター、1993年3月30日、29-43頁、2024年8月15日閲覧 
  2. ^ 【高校野球100年 発掘・事件史】「第1回全国大会」開催知らせず 秋田県3校で「東北予選」5県を出し抜き地区代表
  3. ^ 『高校野球100年史』(森岡浩著、東京堂出版:2015年6月) 77 - 78頁。ISBN 978-4490209075
  4. ^ 『熱球譜 - 甲子園全試合スコアデータブック』東京堂出版、1頁。ISBN 978-4-490-20592-3 
  5. ^ a b c 豊中市史編さん委員会『新修 豊中市史 第10巻 学校教育』豊中市、2002年3月29日、32頁。 
  6. ^ a b 森岡浩『高校野球100年史』東京堂出版、81頁。 
  7. ^ 『熱球譜 - 甲子園全試合スコアデータブック』東京堂出版、2頁。ISBN 978-4-490-20592-3 
  8. ^ 白球の記憶 『球史 ここに始まる 1915年第1回大会』
  9. ^ 【甲子園】わざと転倒、珍妙な例も…難しい伝令起用法 直後の被安打も横浜逃げきる | 日刊スポーツ”. 2022年8月11日閲覧。
  10. ^ “第1回大会出場チーム、ユニホーム復刻 高野100年”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2015年4月23日). http://www.asahi.com/koshien/articles/ASH4R5DB6H4RPTQP008.html 2015年4月25日閲覧。 第1回出場10校が復刻ユニホームで行進(日刊スポーツ2015年4月23日 7月24日閲覧)
  11. ^ 新旧ユニホームで入場行進=高校野球開会式
  12. ^ 第1回大会出場10校、復刻ユニホームで行進 高校野球
  13. ^ 選手宣誓は「初代覇者」鳥羽の主将 「堂々とやりたい」
  14. ^ 「8月6日の意味を深く胸に刻み」/選手宣誓全文
  15. ^ “【準決勝詳報】金足農、秋田勢103年ぶり決勝進出:朝日新聞デジタル” (日本語). 朝日新聞デジタル. https://www.asahi.com/articles/ASL8N2TGFL8NUTQP00G.html 2018年8月24日閲覧。 

外部リンク

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