「大垣市立興文小学校」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 学校インフォボックステンプレート統合に伴う変更 (Template:Infobox 日本の学校) - log |
||
1行目: | 1行目: | ||
{{日本の |
{{Infobox 日本の学校 |
||
|校名 = 大垣市立興文小学校 |
|校名 = 大垣市立興文小学校 |
||
|画像 = [[画像:Ogaki city Kobun elem-sch.jpg|240px]] |
|画像 = [[画像:Ogaki city Kobun elem-sch.jpg|240px]] |
2022年10月7日 (金) 16:11時点における版
大垣市立興文小学校 | |
---|---|
北緯35度21分43.48秒 東経136度36分42.37秒 / 北緯35.3620778度 東経136.6117694度座標: 北緯35度21分43.48秒 東経136度36分42.37秒 / 北緯35.3620778度 東経136.6117694度 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 大垣市 |
設立年月日 | 1840年 |
共学・別学 | 男女共学 |
学校コード | B121220200011 |
所在地 | 〒503-0908 |
岐阜県大垣市西外側町1-34 | |
外部リンク | 大垣市立興文小学校 |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
大垣市立興文小学校(おおがきしりつ こうぶんしょうがっこう)は、岐阜県大垣市西外側町にある公立小学校。
概要
- 大垣藩の藩校「学問所」が前身であり、興文小学校の開校日は8月21日であり、この学問所が設置された日となっている。大垣市最古の小学校である。
- 大垣市立興文幼稚園を併設する。
校訓
- 致道 (ちどう 「学問や人間の道を研修して極める」の意味)
- 致知格物 (ちちかくぶつ 「何事にも、どうしてそうなるのかと疑問をもって追究すれば、知識は自分の身についてくる」の意味)
- 興文偃武 (こうぶんえんぶ 「武器はしまって使わないようにし、学問をしっかりやる」の意味)
沿革
興文小学校は1840年(天保11年)に設置された大垣藩の藩校「学問所」が起源である。1873年に学制により興文小学義校となった後、1901年に男女別学化されたさいに、興文男子尋常高等小学校となった。また、ここでは併設の大垣市立興文幼稚園についても記述する。
- 1635年(寛永12年) - 戸田氏鉄が大垣藩藩主となる。戸田氏鉄は学問を奨励したという。
- 1832年(天保3年) - 岡田主鈴の私塾に大垣藩が援助を行い、学問所講を開設する。
- 1840年(天保11年) - 大垣藩主戸田氏庸が江戸の昌平坂学問所を参考にし、藩校「学問所」を開設する。8月13日に建物が完成。8月21日に学問所始めの式典が行われる。
- 1844年(天保15年) - 致道館に改称する。
- 1847年(弘化4年) - 敬教堂に改称する。
- 1866年(慶応2年) - 学館に改称する。
- 1867年(慶応3年) - 藩士とその子しか入校されなかった制度が改められ、希望者なら身分に関係なく入校ができるようになる。
- 1868年(明治元年) - 文学校に改称する。同時に武学校が開設される。文学校で8歳~15歳の間、学問を学び、その後、武学校で武道を学んだという。
- 1871年(明治4年)1月 - 文学校は、南校(旧武学校)と北校(旧文学校)に分離される。
- 1871年(明治4年)7月 - 廃藩置県により大垣藩は大垣県となる。同時に南校と北校は閉鎖される。
- 1872年(明治5年)1月 - 小原鉄心らの呼びかけにより、旧北校の建物を使用し、興文郷学校を開設する。
- 1873年(明治6年)
- 1877年(明治10年) - 師範研習学校が移転し、興文第一校、興文第二校、興文第三校の附属小学校指定を廃止。
- 1886年(明治19年) - 興文第一校は興文高等小学校に改称。興文第二校は興文尋常小学校に改称する(興文第三校はこれ以前に廃止)。
- 1901年(明治34年) - 興文男子尋常高等小学校、興文女子尋常高等小学校に改称する。
- 1917年(大正6年) - 興文男子尋常高等小学校が大垣尋常高等小学校に改称する。
- 1920年(大正9年) - 興文女子尋常高等小学校が大垣実科女学校[注釈 1]に改称する。
- 1925年(大正14年) - 大垣中尋常高等小学校に改称する。
- 1934年(昭和9年) - 高等科を廃止し、大垣中尋常小学校に改称する。
- 1941年(昭和16年)4月 - 大垣中国民学校に改称する。
- 1941年(昭和16年)7月8日 - 住民の願いにより、大垣市興文国民学校に改称する。
- 1945年(昭和20年)
- 7月28日 - 大垣空襲により、ほとんどの建物を焼失する。
- 9月 - 興文国民学校は大垣市南頬町の大垣国民学校[注釈 2]校舎で授業を再開。
- 1947年(昭和22年)
- 4月1日 - 大垣市立興文小学校に改称する。
- 7月 - 新校舎が完成する。
- 1953年(昭和28年) - 校舎を増築する。校舎に余剰の教室ができたため、大垣市立幼稚園が余剰教室に移転する。
- 1955年(昭和30年)4月 - 大垣市立幼稚園が大垣市立興文小学校の併設となり、大垣市立興文幼稚園に改称する。
- 1960年(昭和35年) - 講堂が完成する。
- 1967年(昭和42年)7月 - プールが完成する。
- 1969年(昭和44年)12月 - 新校舎(北舎・鉄筋コンクリート造)が完成。
- 1971年(昭和46年)7月 - 新校舎(南舎・鉄筋コンクリート造)が完成。
- 2012年(平成24年) - プール改修工事完了
- 2014年(平成26年) - 新体育館棟完成 これにより、名称が「講堂」から「アリーナ」へ変更。更に、2階層になり上層「アリーナ」。下層に、「会議室2」と「多目的ホール」。男女手洗い、下駄箱が追加された。外には、体育館棟下に駐車場。アスファルト舗装の「ピロティ」。外トイレが備え付けられた。同年、3月10日には「体育館お披露目式」という式典が行われ、地域住民が集まり、「岐阜県警音楽隊」が2曲程曲を披露した。
通学区域
- 大垣城の城下町一帯であり、郭町1-4丁目、郭町東1・2丁目、御殿町1・2丁目、丸の内1・2丁目、高砂町1・2丁目、東外側町2丁目、西外側町1-2丁目、馬場町、西長町、鷹匠町、番組町1・2丁目、室町1・2丁目、鳩部屋町、桐ケ崎町、宮町1・2丁目、北切石町1-3丁目、神田町1・2丁目、西崎町1-4丁目、室村町4丁目、室本町1-5丁目、見取町3・4丁目、木戸町2丁目、木戸町の一部、船町2丁目である[1]。
進学先中学校
大垣市立興文幼稚園
- 4、5歳児を対象とする幼稚園。定員は4歳児が30名、5歳児が35名。
- 園舎は興文小学校の校舎の一部を使用している。
- 通園区域は、5歳児は興文小学校の通学区域と同じであるが、4歳児は通園区域の指定はされていない[2]。
沿革
- 1926年(大正15年)9月 - 大垣市東外側町[注釈 3]に大垣市立幼稚園として開園。
- 1945年(昭和20年)
- 1953年(昭和28年) - 興文小学校の余剰教室に移転する。
- 1955年(昭和30年)4月 - 大垣市立興文小学校の併設となり、大垣市立興文幼稚園に改称する。
著名な出身者
学問所などの大垣藩藩校出身者も含む
- 松本荘一郎 (工学博士)
- 南条文雄 (文学博士、仏教研究家)
- 関谷清景 (地震学者)
- 松井直吉 (理学博士、東京大学総長)
- 小出房吉 (林学博士)
- 佐藤三吉 (医学博士、明治天皇・大正天皇の侍医)
- 那波光雄 (工学博士)
- 脇水鉄五郎 (理学博士)
- 野村龍太郎 (工学博士、南満州鉄道社長)
- 金森吉次郎 (治水事業)
- 水野利八 (ミズノ創業者)中退
交通機関
学校周辺
参考文献
- 伝統ある興文 (大垣市立興文小学校 1987年)
- わがまち興文 (大垣市立興文小学校 1988年)
- 新修大垣市史 通史編二 (大垣市 1968年) P.723 - 735
- 大垣市史 通史編 近現代 (大垣市 2013年) P.846 - 847