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「天社土御門神道」の版間の差分

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追放処分を受けていた[[土御門久脩]]が嫡子である泰重と共に帰京したのは天下分け目となった[[関ヶ原合戦]]が起きた慶長5年([[1600年]])ごろと思われる。同年中には朝廷出仕を再開している。
追放処分を受けていた[[土御門久脩]]が嫡子である泰重と共に帰京したのは天下分け目となった[[関ヶ原合戦]]が起きた慶長5年([[1600年]])ごろと思われる。同年中には朝廷出仕を再開している。


関ヶ原の合戦を制した徳川家康は慶長8年([[1603年]])、[[征夷大将軍]]となって江戸に[[幕府 (日本)|幕府]]を開くが、この時に土御門久脩は将軍家康のための[[身固め]]の儀式と[[天曹地府祭]]を行っている。
関ヶ原の合戦を制した徳川家康は慶長8年([[1603年]])、[[征夷大将軍]]となって江戸に[[幕府]]を開くが、この時に土御門久脩は将軍家康のための[[身固め]]の儀式と[[天曹地府祭]]を行っている。


しかし、ながらく配流されていた事も影響してか、久脩亡き後を継いだ[[土御門泰重]]の代に再び[[陰陽頭]]職から外され、同職は賀茂氏庶流であった[[幸徳井家]]より出される事になった。なお、これには上記の理由の他に泰重の「失態(暦道における失態)」(詳細は不明)も大きな原因になったようだ。実は[[幸徳井家]]の祖は[[安倍氏]]から出ているのだが、室町期の安倍氏庶流出身である安倍友幸が師家である[[賀茂氏]]の賀茂定弘の養子に入って同氏[[庶流]]になっていた事から、[[陰陽頭]]の座は再び[[賀茂氏]]系に奪われる事になった。
しかし、ながらく配流されていた事も影響してか、久脩亡き後を継いだ[[土御門泰重]]の代に再び[[陰陽頭]]職から外され、同職は賀茂氏庶流であった[[幸徳井家]]より出される事になった。なお、これには上記の理由の他に泰重の「失態(暦道における失態)」(詳細は不明)も大きな原因になったようだ。実は[[幸徳井家]]の祖は[[安倍氏]]から出ているのだが、室町期の安倍氏庶流出身である安倍友幸が師家である[[賀茂氏]]の賀茂定弘の養子に入って同氏[[庶流]]になっていた事から、[[陰陽頭]]の座は再び[[賀茂氏]]系に奪われる事になった。

2023年1月3日 (火) 21:23時点における版

天社土御門神道本庁
設立 1954年(昭和29年)1月11日
設立者 土御門範忠
種類 宗教法人
法的地位 文部科学大臣所轄包括宗教法人
本部 福井県大飯郡おおい町名田庄納田終129-9
会長 藤田義仁 (庁長)
重要人物 土御門範忠,藤田乾堂
ウェブサイト https://onmyodo.jp
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天社土御門神道/土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう/つちみかどしんとう)は、福井県大飯郡おおい町(旧名田庄村地区)に本庁を置く宗教団体呼称については「土御門神道」で良いが、江戸時代に土御門家が「陰陽道宗家」として霊元天皇より賜った「天社宮(てんしゃぐう)」の宮号にある「天社」を冠して「天社土御門神道」とも呼ぶ。

安倍晴明を祖とする陰陽道宗家安倍氏土御門家が伝えてきた陰陽道を基幹としているが、中世には吉田神道の影響を受けている上に、江戸時代に神道家で儒家の山崎闇斎の提唱した垂加神道の思想を取り込んで「神道化」を果たした「天社神道(安家神道ら土御門神道)」であるため、厳密に言えば陰陽道そのものではない。現在は神道系団体である[注 1]。また、現在の代表は土御門家の当主ではなく、土御門家の家政を司っていた家臣の家柄である藤田家が担っている。

最後の土御門家当主となった土御門範忠(1920~1994)逝去後は、最高位である「管長」は置いていない。マスコミ等の取材に対応する時も肩書はあくまでも「庁長天社土御門神道本庁長)」あるいは「代表」としている。現在の最高責任者(法人代表)の肩書きは「庁長(代表)」となる。

成立に至る経緯

陰陽道のうち、特に天文道家学として確立した安倍氏は、室町時代に時の当主である安倍有世が、室町幕府第三代将軍 足利義満によって従二位という破格の待遇を得て公卿となり、以後は土御門家と称して朝廷と幕府に仕えた。応仁の乱で朝廷および幕府の中心機関があった京都が戦地になると、陰陽師らは混乱を避けるために地方の守護大名を頼って地方に下ったり、自らの領地に疎開する。

土御門家は朝廷より賜っていた「泰山府君祭永年祭料地」であった若狭国遠敷郡名田庄に疎開し、若狭武田氏などを頼った。応仁の乱および、同戦乱に誘発されて地方で散発的に戦乱が起き続けた結果、土御門家は有宣有春有脩の三代および久脩の四人が当地に居住した。土御門有宣と有春はついに帰京が叶わず名田庄で逝去している(帰京が叶った有脩も遺骨は名田庄に納骨され、現在は史跡「安倍氏三卿墓所(土御門家三卿墓所)」となっている)。

一連の戦乱は土御門有脩の代に収束を迎え、息子である土御門久脩と共に帰京するが、焼け野原となった京都に往時の面影はなく、朝廷も廃れ焼失部も多く、陰陽寮は所蔵していた大量の道具や典籍を失った。陰陽寮設置以来伝えてきた「陰陽道」はこの時点で大部分を"失伝"した。

苦肉の策で土御門家は、当時の神道界を独占していた吉田家の唯一宗源神道(吉田神道)が取り込んでいた陰陽道由来の思想や技術を再収集した他、陰陽道は既に密教にも浸透していた事から、密教の修法からも陰陽道由来とおぼしき部分を抜き出して再構築を図った。

しかしながら、結局それだけでは陰陽道の"完全なる再興"は果たせず、吉田家に祭祀について問い合わせたり、祭儀につかう斎服を借りたいと申し出たが断られたという話が、当時の吉田家の日記に残っている。同日記には「久々に都で陰陽道祭儀が行われるので見物に行ったが、内容が(吉田神道と)同じだった」「陰陽道の霊場と聞いてやって来たが、草が生い茂り荒れ地に祭壇を設けていた」とも記され、「土御門は吉田より出る」とまで書かれてしまった。

この一件については様々な捉え方は出来るが、後に陰陽道が土御門神道へと変化する"最初の転機"は吉田神道と関わったこの時と見る事も出来よう。

それでもなお、陰陽寮(陰陽師)の主要三部門天文道·暦道·陰陽道はあくまで土御門家(安倍氏)および勘解由小路家(賀茂氏)の専権事項であった為に、あくまでも「陰陽道」は独自の職掌として認識され、祭祀もまた「陰陽道祭祀」として確立させ続けた。

足利義昭織田信長によって京都から追放されて室町幕府が崩壊すると、貴族(公卿)でもあった陰陽師達は新たに台頭した戦国大名たちの要望に応えていく事に活路を見いだした。殊に土御門家は、当時もっとも大きな影響力を持っていた織田信長に接近し、信長もまた土御門家に目をかけた。その証拠に、前右大臣である信長の推挙によって土御門家は「公家成」を果たしている。これまでは土御門家当主が個人で位階昇進を果たしていたが(蔭位による)、信長による推挙によって、土御門家は明治に至るまでつづく正式な「公家」の一員となった。また信長の弟である織田信包の嫡子である織田信重の娘は久脩の子である土御門泰重の妻になっており、織田家と姻戚関係にもなっている。

一方で賀茂氏(当時は勘解由小路家となのっていた)は衰退を見せ始めていた。織豊時代(安土桃山時代)初期は土御門家がなかなか疎開先の名田庄より帰京しない事から、代理的に陰陽頭職に就いていたが、嫡流の勘解由小路在昌(賀茂在昌)はキリスト教に感化されて洗礼を受け"マノエル·アキマサ"となるなど、一族の秩序に乱れが生じ始めていた(ただし数年後にキリスト教は棄教しており、陰陽頭にもなっている)。

ともあれ、こうした混乱の結果、賀茂氏嫡流である勘解由小路家は無嗣となって没落。ここに賀茂氏本流は途絶える事になった(後に賀茂氏の血統は庶流である幸徳井家が継承する)。陰陽頭の地位は勘解由小路家が無嗣になると、再び土御門家の元に戻った。

信長は甲州征伐(武田攻め)後頃から、東海信越および他地方において、陰陽寮が作成する暦と異なる節気基準や閏法を用いている事に注目し、土御門久脩にその理由と改暦について問い合わせている。この時に久脩がどう回答したかは明らかではないが、その場にいた公家の勧修寺晴豊の日記によると、久脩は勘解由小路在昌らとも相談して、地方暦の事情や改暦の必要性は見いだせない事などを答申し、信長は一旦納得したという。

しかし天正10年(1582年)6月1日、上洛した信長は参集した公家衆に再び暦法の事について話しており、勧修寺晴豊は「(信長は)改暦の事を再び考えているのかもしれないが、難しいだろう」と所感を日記に記している。土御門久脩も再度暦の話が出た事に当惑したようだが、翌日の6月2日に「本能寺の変」が発生して織田信長は死去していまい、暦法の話は結局そのまま忘れられていく事になった(「貞享の改暦」の時まで話題にならなかった)。

本能寺の変で死去した織田信長の後継者として台頭した羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、天下統一を果たして関白に就任した。ただ、秀吉は後継者がなく、甥である羽柴秀次(豊臣秀次)に関白職を譲り、自らは「太閤」として君臨した。ところが側室·淀殿が拾(のちの豊臣秀頼)を産むと、秀吉は秀次の存在が次第に疎ましくなっていった。その結果、秀次は突如として出奔した上、自害してしまう(いわゆる秀次事件)。この事件については近年、秀吉による秀次排除策ではなく、秀次による秀吉への抗議の自害であったという説もあるが、いずれにせよ秀吉は事態を収集すべく秀次の一族近臣を悉く処刑し、さらに秀次に近かった公家達をも処罰に及んだ。時の土御門家当主であった土御門久脩もその中におり、久脩は出仕停止の上、闕所される。そして「秀頼呪詛の疑惑」の咎で尾張国配流となった。『風俗見聞録』によれば、秀吉は「(陰陽道は)国家を犯す道なり、治平の世には不益の物也と兼ねて思い来たれり」と発言したと記されている。

ただし久脩の配流以前、秀吉は京中の陰陽師(唱門師声聞師)131名を「荒地開墾のため」として、やはり尾張三河などに強制移住(実質的"追放")させた上、京の環境整備の一環として、安倍晴明の墓所があった五条中嶋法城寺を始めとする、晴明ゆかりの地や陰陽師の参集地を悉く破却におよんでいる。この事から、秀次事件の有無に関わらず秀吉は陰陽師に対して一種の不信感を抱いており、好機を狙って陰陽師を一掃したのではないかとも考えられる(通称「陰陽師狩り」)。しかし、京 方広寺大仏殿の建立作業開始日について、勘解由小路在昌に日時勘申をさせており、慣例として陰陽師に日次を問う事はしている。

「陰陽師狩り」の一件の後、老齢の秀吉は朝鮮侵攻や自らの衰えが専らの課題になり、追放された側の土御門久脩は尾張から若狭 名田庄の領地を往来していたとされている。いずれにせよ、東海地方に安倍晴明伝説が多数見られる事、三河萬歳をはじめとした諸芸能が、後に土御門家配下となる素地はこの時に出来たと言えよう(唱門師の芸能者化としての萬歳傀儡など、諸々の"門付け芸"や"予祝芸"の始まり)。

陰陽道「宗家制度」確立へ

太閤 豊臣秀吉が死去し、政権運営が五大老五奉行による合議制になったが、そのなかで台頭したのは石高も地位も高かった徳川家康であった。天下取りに動き始める家康と、それを阻止して豊臣政権の維持を図ろうとする石田三成らとの対立は必至であった。 追放処分を受けていた土御門久脩が嫡子である泰重と共に帰京したのは天下分け目となった関ヶ原合戦が起きた慶長5年(1600年)ごろと思われる。同年中には朝廷出仕を再開している。

関ヶ原の合戦を制した徳川家康は慶長8年(1603年)、征夷大将軍となって江戸に幕府を開くが、この時に土御門久脩は将軍家康のための身固めの儀式と天曹地府祭を行っている。

しかし、ながらく配流されていた事も影響してか、久脩亡き後を継いだ土御門泰重の代に再び陰陽頭職から外され、同職は賀茂氏庶流であった幸徳井家より出される事になった。なお、これには上記の理由の他に泰重の「失態(暦道における失態)」(詳細は不明)も大きな原因になったようだ。実は幸徳井家の祖は安倍氏から出ているのだが、室町期の安倍氏庶流出身である安倍友幸が師家である賀茂氏の賀茂定弘の養子に入って同氏庶流になっていた事から、陰陽頭の座は再び賀茂氏系に奪われる事になった。

土御門泰重陰陽頭職を逃した事もあってか、後に天文博士も辞して、まずは後陽成上皇の院近臣となった。そのような中、二代将軍 徳川秀忠の娘 徳川和子の入内前に後水尾天皇がすでに四辻公遠の娘·於与津との間に皇子 賀茂宮がおり、於与津がさらに皇女を懐妊していた事が発覚する。これに激怒した秀忠は直ちに京都所司代 板倉勝重武家伝奏 広橋兼勝を通して朝廷を探索し、「監督不行届」および、公家の不行状(怠慢)を摘発するに及んだ(「およつ御寮人事件」「万里小路事件」)。この時、天皇側近になっていた泰重は職務怠慢をとがめられ、出仕停止の厳罰を受けている。

泰重は陰陽家としての活躍は芳しくなかったが、後陽成上皇および後水尾天皇の近臣として朝廷に仕えており、日記『泰重卿記』は江戸時代初期(家康·秀忠期)における幕府と朝廷との関わりを知る貴重な資料となっている。 泰重の後、土御門家は泰広、隆俊と短い間に二代の当主が替わったが(隆俊が土御門家当主になったかは不明瞭)、その間の陰陽頭職は幸徳井家が継いでおり、土御門家にとっては不遇の時代となった。同時に、土御門家にとって陰陽頭職の奪還が悲願となる。そして同時に、吉田神道の「神祇管領長上」を模範とする陰陽師の統括職を意識し始めていった。 その悲願が叶うのは、泰広あるいは隆俊の子である土御門泰福によって達成される事となり、この泰福の手によって「陰陽道(安家陰陽道)」は「天社神道(土御門神道)」へと昇華していく。

泰福にとっての好機は四代将軍 徳川家綱の治世に実行された改暦事業、いわゆる「貞享改暦」であった。 これまで朝廷(陰陽寮)の専権であった造暦権は陰陽頭を務め、暦家 賀茂氏を継承していた幸徳井家が握っていた。その幸徳井家も友景·友種と続き、幸徳井友傳が陰陽頭となるも、若年故に後見人として土御門泰福が就いた頃、折しも徳川幕府は"幕府による改暦"を果たすべく、重鎮 保科正之や、水戸徳川家徳川光圀らが下支えとなり、加えて両者に影響を与えていた神道家である山崎闇斎の働きかけもあって、幕府碁方の初世安井算哲の子である「二世 安井算哲」こと渋川春海らが登用され、新しい暦を作る準備を始めた。 当然、幸徳井家はこれに強く反発。そこで白羽の矢が立ったのが、渋川春海と同じく山崎闇斎門下であった土御門泰福であった。この時、泰福は山崎の説く「垂加神道(吉田神道および吉川神道と、朱子学に基づく神道説)」を学んで、これを"安倍氏に伝わる陰陽道"=「安家陰陽道」に取り込むべく師事していたと思われる(垂加神道は当時の公家や有名神社を奉祀する社家からの支持も強かった)。

結果、渋川春海ら幕府の造暦担当と土御門泰福によって作成された国産初の暦法は、泰福の手によって朝廷に奏請されて採用され、実に823年ぶりの改暦を果たした。以後は幕府に新設された「天文方」と、陰陽寮とが共同で造暦と暦法調査、天文観測を担当する。

改暦事業に関わり、これに成功した事で土御門家は再び陰陽寮内で復権を果たしていき、寛文10年(1670年)には、幸徳井家に対して全国の声聞師や民間の占い師、暦師等の支配権と、陰陽頭職を巡って相論を仕掛けるに至った。時勢は改暦成功と、幕府および幕府天文方を後ろ楯にもつ土御門家に有利に働いたが、その最中の天和2年(1682年)に幸徳井友傳が35歳で急逝し、事態は一挙に土御門家に傾いた。ついに天和3年1683年)5月、幸徳井家嫡男の幸徳井友信が若年であるという事から、陰陽頭に後見であった土御門泰福が就任した。泰福はさらに5代将軍 徳川綱吉朱印状および、時の霊元天皇綸旨を賜って「全国陰陽師支配」の権限を獲得。土御門家は「陰陽道宗家」として全国の陰陽師や諸民間宗教者·祈祷者·芸能者の統括と、造暦の権利を掌握することになった。幸徳井家はかろうじて暦注の担当を任されるが、土御門家配下とならざるを得ず、拠点であり、独自に陰陽師資格を認めて支配していた南都(奈良)の陰陽師「南都陰陽師」の任免·支配権は没収。土御門家を宗家とする組織体制の整備が進められていった。

土御門家は霊元天皇より「天社宮」の宮号を賜り、自家を「司天家(司天監)」と称するようになった。

土御門神道への昇華と内容

幸徳井家から陰陽頭職を"奪還"した後、土御門家は幕府から「全国陰陽師支配」の権限を認められ、霊元天皇からは宮号下贈される等、着実に陰陽道の支配権を確立していった。そして、その最たるものの一つが「陰陽道の"神道化"」、すなわち「天社神道(土御門神道、安家神道)」の確立であったと言えよう。

既述の如く、中世末の戦乱で陰陽道は大部分を失っており、その際にはかつて陰陽道が影響を与えた吉田神道密教から"逆輸入"、すなわち吉田神道や密教に残る陰陽道由来の作法を持ってきて再度「陰陽道祭祀(陰陽道行事)」の復興をはかっている。厳密に言えばこの段階から既に陰陽道は神道化する要素をはらんでいた。

更に深く追及すれば、平安時代に神祇官を始めとする神官が(ケガレ)を極度に避け始めた事、また、その穢を取り除く禊祓が個人にももとめられるようになった際、神官がそれに対応出来ない事から陰陽師が請け負っている実情もあった事から、その際に祝詞を始めとする諸作法を神官の所作から取り込んでいた。その段階も、言わば神道化の"前触れ"ともとれるかもしれない。

ともあれ、晴れて「陰陽道宗家」となった土御門泰福神道家·儒家であり、思想家の山崎闇斎が提唱した神道説垂加神道(すいか/しでます-しんとう)」を門下生となって学び、これを陰陽道(「安倍氏が伝えてきた陰陽道」="安家陰陽道")の根幹的思想に置くことで、陰陽道がそもそも持つ思想·諸説と(垂加)神道説とを融合させた独自理論を展開するに至り、ここに土御門家が支配する陰陽道は「天社神道」あるいは「土御門神道」「安家神道」を確立させた。

土御門泰福渋川春海らが師事した山崎闇斎についての詳細は該当記事にゆだねるが、要約すれば朱子学に基づく神道思想、君と臣·長と幼といった倫理感が中核となっている。


土御門家の陰陽道組織化は、幕末には全国に広まったが、明治維新後の明治3年(1870年)に陰陽寮が廃止され、太政官から土御門家当主晴栄に対して、天文学・暦学のことは、以後大学校東京帝国大学の前身)の下に設置された天文暦道局の管轄になると言い渡しを受ける。さらに、同年10月17日、太政官布告745号天社禁止令が出され、陰陽道・天社神道自体が禁止されてしまう[注 2]。それによって陰陽師の身分もなくなることになり、陰陽師たちは庇護を失い転職するか、独自の宗教活動をするようになった。

土御門神道はそうした状況の中で、古神道などの影響を受けながら、かつての土御門家の家司や弟子たちの手によって細々と守られてきた。昭和3年に社団法人大日本陰陽会が設立され、昭和17年(1942年)に社団法人大日本易道会に名称変更される。三室戸敬光子爵(貴族院議員)が総裁、土御門熙光(父晴善が三室戸家より養子に入る)子爵が副総裁。昭和17年(1942年)4月には「土御門神道同門会」が結成され、土御門子爵家当主・土御門凞光が総裁、土御門家分家筋の倉橋泰隆が会長となり、土御門神道復興の動きが始まる。伊勢神宮大宮司であった三室戸家が後ろ楯となって土御門神道復興を目指していたが昭和19年(1944年)5月に土御門熙光が亡くなる。

その後を弟の土御門範忠が継ぐ。昭和21年(1946年5月21日、「土御門神道(天社土御門神道)」として復興する事とした。昭和29年(1954年)1月11日「宗教法人天社土御門神道本庁」として認可。本部としての「天社土御門神道本庁」が設置され、管長には土御門範忠が就任[2]。代表理事 兼 庁長には藤田乾堂が就いて管長を補佐した。

戦後、爵位が廃止されて身分保証が無くなると、土御門晴善以来親戚関係にあった三室戸家(旧子爵)はもちろん、元来分家にあたる倉橋家(旧子爵)も土御門神道と関わる事を止めざるを得ず、本部機能は兵庫県宝塚市と京都府山科の二か所に分散して置き、東京・大阪・京都に事務所を置いた(現在は事務所は廃止されている)。

その後、土御門家の領地であった福井県遠敷郡名田庄村の旧土御門家屋敷地にあって、同地および祭祀場跡(泰山府君社跡)を管理していた藤田家居宅に本部機能を一元化し、以降は同所を「天社土御門神道本庁」としている。

1994年に管長である土御門範忠が死去すると、土御門家はその家職である土御門神道の一切を天社土御門神道本庁に委譲。後継者もいないために土御門家は以後土御門神道には関与していない。管長不在となってからは理事長 兼 庁長であった藤田乾堂が代表(庁長)に就任し、責任者となった。

藤田乾堂死去後は代表理事として補佐をしていた長男の藤田義仁が代表職(庁長)を受け継ぎ、現行体制に至る。

『宗教年鑑 平成17年版』によると、4神社、5教会、9布教所、その他の7団体、計25団体(ただしそのうち法人格を取得しているのは1団体のみ)を包括している[1]。現庁長は藤田義仁[3]。また、土御門家家臣として中世以来、土御門家領の名田庄地域全体を守ってきた谷川家は同集落の加茂神社(包括法人神社本庁)の宮司であり、年に二度ある土御門神道の大祭では副斎主として庁長を補佐している。

なお、一時期は後継者の問題が新聞に取り上げられたが、近年は「官」として福井県嶺南振興局、「産」として小浜酒造をはじめ名田庄地区および小浜市にある各商業施設・会社、「学」として陰陽道研究者が設立した研究会「陰陽道史研究の会」および、関連する研究に従事する学者・研究者(在野やアマチュアも含む)の個人的支援および学術的協力、いわゆる「産学官」での支援によって、土御門神道を「地域の伝統文化」として支えていく事となった。その手始めとして、2021年より公式ホームページおよびインスタグラム公式ページを開設し、祈祷や御守りなどの申し込みをはじめ、祭事案内や境内清掃会などのお知らせを発信するようになった。

また、未だに誤情報や無関係の人物や団体によるミスリードは少なからずあるものの、以前に比べて陰陽道および土御門神道に関する正確な情報が手に入りやすくなった事から、運営の収入源となっている暦の購入者、さらには年2回ある大祭や、境内清掃などに積極的に参列·参加する「崇敬者」(土御門神道は性質上"氏子"はいない)も徐々に増えてきている。

また関心事である土御門神道の”今後の運営”についても、以前のような絶望的状況は脱しつつあり、上記の支援・協力を受けて新しい展開を迎えている。

脚注

注釈

  1. ^ 但し、宗教法人としての登記上は教派神道でも神社神道でもなく、「諸教」に分類されている[1]
  2. ^ よって、この時点で土御門家倉橋家家学陰陽道から離れ、そもそも陰陽師なる役職が公的存在性を失った上、戦後天社土御門神道が再興されたが、土御門家現当主は一切関与しない姿勢でいるため、明治以降現代において「陰陽師」、「陰陽道宗家」などといった役職は存在せず、民間的な存在有無は別として、公的には現存しない。

出典

参考文献

外部リンク

天社土御門神道本庁天社宮