陰陽道宗家
陰陽道宗家(おんみょうどうそうけ)とは、陰陽道に由来する一族、一門において嫡流(正流)の宗家(家元)、またはその当主を指す歴史的名称。平安時代中期~後期以降、賀茂氏とその嫡流末裔勘解由小路家が暦道、安倍氏とその嫡流末裔土御門家が天文道の宗家として、代々家学を世襲してきた。この2家を合わせて「安賀両家」と呼ばれた[1]が、江戸時代に賀茂氏が衰退して以降は、もっぱら土御門家を示す通称となった。
明治維新後の1870年(明治3年)に至り、新政府は「天社禁止令」を発布し、陰陽道を迷信として廃止させた。よって、この時点で土御門家[注 1]は家学の陰陽道から離れ、そもそも陰陽師なる役職が公的存在性を失った上、戦後天社土御門神道が再興されたが、土御門家現当主は一切関与しない姿勢でいるため、明治以降現代において「陰陽師」、「陰陽道宗家」などといった役職は存在せず、民間的な存在有無は別として、公的には現存しない。
賀茂氏・勘解由小路家
[編集]平安時代中期に朝廷陰陽寮の長官・陰陽頭を務め、安倍晴明の師匠として知られる、賀茂忠行とその息子賀茂保憲の末裔。山城国の賀茂神社付近を本貫とする賀茂県主氏ではなく、大和国(葛城)葛上郡の高鴨神社・鴨都波神社付近(現・奈良県御所市)を本貫とする、賀茂朝臣氏である。賀茂保憲は息子賀茂光栄に暦道を、そして弟子の安倍晴明に天文道を、という陰陽道の二大学統を伝授した。以来、賀茂氏は代々陰陽道ことに暦道を家学として担ってきた。
室町時代には嫡流が「勘解由小路」を家名として名乗るようになったが、戦国時代から江戸時代初期にかけて断絶した[注 2]。
なお、庶流の幸徳井家は江戸時代も地下家として続き、江戸時代初期は陰陽頭を務めるが、幸徳井友傳の死後、安倍氏系の土御門泰福に陰陽道宗家の地位を奪われ、中期以降は陰陽寮の次官にあたる陰陽助を務めた。明治以降現在は幸徳井家も消息不明である。
安倍氏・土御門家
[編集]平安時代中期~後期の名高い陰陽師(天文博士)、安倍晴明の末裔。代々陰陽道ことに天文道を家学として担ってきた。室町時代には嫡流が「土御門」を家名(苗字)として名乗るようになった。一般的には安倍有世をもって土御門家の初代とするが、実際には室町時代中期から戦国時代にかけての当主・土御門有宣から土御門の家名を名乗ったといわれている。
現在に残る土御門家の末裔としては、現状の最後の男性当主である土御門範忠(1920年 - 1994年)の娘、土御門善子(1959年 - )が一人のみである[2]。血脈上の代としては、安倍晴明から数えて34代・土御門有宣から数えて18代にあたる[注 3][注 4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 村山 1981, p. 255-267.
- ^ “安倍晴明の子孫の墓ピンチ 京都、連絡取れず寺が供養”. 京都新聞. (2017年2月11日)
参考文献
[編集]- 村山修一『日本陰陽道史総説』塙書房、1981年。ISBN 4827310572。