勧修寺経逸
表示
勧修寺経逸 | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 寛延元年10月6日(1748年10月27日) |
死没 | 文化2年9月16日(1805年11月6日) |
官位 | 正二位、権大納言、贈内大臣 |
主君 | 桃園天皇→後桜町天皇→後桃園天皇→光格天皇 |
氏族 | 勧修寺家 |
父母 |
父:勧修寺顕道、母:稲葉恒通の娘 養父:勧修寺敬明 |
兄弟 | 敬明、経逸、柳原紀光室、葉室頼熙室 |
妻 |
正室:飛鳥井雅重の娘 継室:池田数計子(池田仲庸の娘) |
子 | 良顕、国豊、為起、婧子、経睦、正親町三条公則室、坊城俊明室、万里小路建房室、日野資愛の室、徳子、高倉永雅室、平松時門室、安藤直則室、堀河康親室 |
特記 事項 | 仁孝天皇の外祖父。 |
勧修寺 経逸(かじゅうじ つねはや)は、江戸時代の公家(公卿)。仁孝天皇の外祖父。権大納言勧修寺顕道の次男。母は臼杵藩主稲葉恒通の娘。兄権右中弁勧修寺敬明の養子となる。正二位権大納言。
堂上家(家格は名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)である勧修寺家の23代当主。
経歴
[編集]宝暦8年(1758年)叙爵、翌年元服。安永8年(1779年)5月4日、参議。安永9年(1780年)、従三位。寛政元年(1789年)権大納言、正二位となる。
娘婧子は光格天皇典侍となり、寛政12年(1800年)に後の仁孝天皇を産んだため、経逸は天皇の外戚となった。また、多くの有力公卿と縁組みし、外孫の中に岩倉具視がいる。後に本座の宣下を受けた。
系譜
[編集]逸話
[編集]- 明和3年(1766年)、経逸が仲間の近習番衆に対して虚言無礼があったとして、同じ近習番衆からからかわれたり、近習番所の壁に彼をバカにする内容の絵や落書きが書かれるようになった。ところが、経逸への集団いじめの過程で近習番衆内部の対立も深刻化していき、片方のリーダー的存在であった梅園成季が議奏である山科頼言(成季の伯母の夫)に対して対立する集団である広幡輔忠・石井行忠らがいじめに関与しているだけではなく、政治的な陰謀を企てていると密告したのである。頼言の報告を受けた摂政近衛内前らは宝暦事件の再来を恐れて取調は行うが、いじめはあったものの、広幡らがそれに関与した事実はつかめず、ましてや政治的な陰謀の証拠は見つからず、反対に後難を恐れた梅園の仲間だった者から梅園が対立する広幡・石井らを追い落とすために山科頼言への讒言を行ったという証言を得た。その結果、同年の8月に山科頼言は議奏を罷免され、梅園成季とその仲間も処分を受けた。なお、一連の騒動は多くの公家が日記に書き残しているものの、経逸本人はいじめの事実を含めて一切書き残していない[3]。
脚注
[編集]- ^ 『光格天皇実録』巻八に、藤原婧子について「母ハ松平仲庸ノ女ナリ」と記されている。その出典として、「續三宮傳」(「母松平攝津守仲庸女」と記載)、「椒庭譜料」(「母、摂津守松平仲庸女」と記載)、「勸修寺系圖」(「母仲庸女」と記載)が挙げられている。
- ^ 東京大学史料編纂所所蔵『勧修寺家譜』36頁には「母家女房」と記されており、他の史料と異なる。ただし、元の家譜は1864年の禁門の変で失われており、これは明治8年に勧修寺顕允により差し出されたものである。
- ^ 松澤克行 「山科頼言の議奏罷免と宝暦事件」朝幕研究会編 『論集 近世の天皇と朝廷』 岩田書院、2019年、P257-280.
参考文献
[編集]- 東京大学史料編纂所所蔵『勧修寺家譜』
- 橋本政宣 編『公家事典』 - 吉川弘文館、2010年
関連項目
[編集]仁孝天皇の系譜 |
---|
大正天皇の系譜 |
---|