勧修寺尹豊
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時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 文亀3年(1503年) |
死没 | 文禄3年2月1日(1594年3月22日) |
改名 | 尹豊→紹可 |
官位 | 正二位、内大臣 |
主君 | 後柏原天皇→後奈良天皇→正親町天皇 |
氏族 | 勧修寺家 |
父母 | 父:勧修寺尚顕、母:澄清の娘 |
兄弟 | 尹豊、三条公頼室、粟屋元隆室、尚子 |
妻 | 伊勢貞遠の娘 |
子 | 晴秀、結城忠正室、畠山家継室 |
勧修寺 尹豊(かじゅうじ ただとよ)は、安土桃山時代の公家(公卿)。
堂上家である勧修寺家(名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)の第12代当主。
経歴
[編集]権大納言であった第11代当主・勧修寺尚顕の子。室町幕府第10代将軍・足利義尹(のちの義稙)から偏諱を受け、尹豊と名乗る(「豊」は第4代当主・経豊の1字)。母は石清水八幡宮検校・澄清の娘。室は右京亮・伊勢貞遠の娘。実子に権大納言・勧修寺晴秀、山城守・結城忠正の室、右近将監・畠山家継(西谷内畠山)の室などがいる。武家伝奏を務めた。
天文5年(1536年)、中納言。
天文10年(1541年)、権大納言。
天文21年(1552年)9月、従一位。
天文21年(1552年)10月、辞官。
元亀3年(1572年)閏正月、内大臣(数日後辞任)。
元亀3年(1572年)2月3日、出家し、法名は、紹可。
日記に『尹豊公記』があり、同記の影印本が『歴代残闕日記』に収められている[1]。
系譜
[編集]出典
[編集]- ^ 高橋秀樹「中世主要古記録一覧」『古記録入門 増補改訂版』吉川弘文館、2023年、70頁。ISBN 9784642084352。