勧修寺晴秀
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 大永3年(1523年) |
死没 | 天正5年1月1日(1577年1月19日) |
改名 | 晴秀→晴右→松国(道号) |
諡号 | 高寿院(号) |
戒名 | 天勁 |
官位 | 正二位、権大納言、贈左大臣 |
主君 | 後柏原天皇→後奈良天皇→正親町天皇 |
氏族 | 勧修寺家 |
父母 | 父:勧修寺尹豊、母:伊勢貞遠の娘 |
兄弟 | 晴秀、結城忠正室、畠山家継室 |
妻 | 正室:元子(粟屋元隆の娘) |
子 | 晴豊、晴子(誠仁親王妃)、万里小路充房、日袖(日蓮宗立本寺住持)、娘(正親町三条公仲室) |
特記 事項 | 後陽成天皇の外祖父 |
勧修寺 晴秀(かじゅうじ はるひで)は、戦国時代から安土桃山時代の公卿。
生涯
[編集]内大臣・勧修寺尹豊の子。室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を賜り、晴秀と名乗る(のち晴右(はれみぎ[1][出典無効]/はるすけ/はれすけ)に改名)。号は松国。
- 天文19年(1550年)11月26日、参議、後に権中納言。
- 天正元年(1573年)、権大納言。
- 天正2年(1574年)、正二位。
- 天正4年(1576年)11月、南都伝奏を務め、興福寺別当の人事に介入し、織田信長より蟄居を命じられる。
- 天正5年(1577年)1月1日、死去。
- 天正14年(1586年)12月、贈内大臣。
- 慶長4年(1599年)12月13日、贈左大臣。
日記
[編集]『晴右公記』などと呼ばれ、京都大学が所蔵し『続史料大成』に収められている。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『現代語訳 信長公記』- 太田牛一 著、中川太古 訳 - 新人物文庫、249 - 253ページ
明正天皇の系譜 |
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