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平安時代には財政や後継者争いの防止の観点から現天皇と血筋が遠くなった傍流の[[皇族]]や、天皇の子供でも母親の身分が低いものに[[姓]]を与え、臣籍降下させる例が多くなった。[[弘仁]]5年([[814年]])、[[嵯峨天皇]]の皇子女8人が臣籍降下し、源姓を与えられた{{sfn|倉本一宏|2019|p=12-13}}。これら[[源氏]]の賜姓は、一定の年以降に生まれた子女のうち、生母の家格が低いものに一括して行われた{{sfn|中村みどり|2015|p=61}}。これらの源氏では大臣などを務めたものもいるが、3代目以降も上級貴族であり続けた例は少なく、中央で下級貴族として細々と生き延びるか、[[受領]]階級として地方へ赴任しそこで土着して[[武士]]化するか、完全に没落するかしかなかった{{sfn|倉本一宏|2019|p=15}}。上級公家として存続したのは「御堂末葉」、すなわち[[摂関家]]の一門と認識された[[村上源氏]]師房流など僅かな例しか存在しなかった{{sfn|倉本一宏|2019|p=124-132}}。
平安時代には財政や後継者争いの防止の観点から現天皇と血筋が遠くなった傍流の[[皇族]]や、天皇の子供でも母親の身分が低いものに[[姓]]を与え、臣籍降下させる例が多くなった。[[弘仁]]5年([[814年]])、[[嵯峨天皇]]の皇子女8人が臣籍降下し、源姓を与えられた{{sfn|倉本一宏|2019|p=12-13}}。これら[[源氏]]の賜姓は、一定の年以降に生まれた子女のうち、生母の家格が低いものに一括して行われた{{sfn|中村みどり|2015|p=61}}。これらの源氏では大臣などを務めたものもいるが、3代目以降も上級貴族であり続けた例は少なく、中央で下級貴族として細々と生き延びるか、[[受領]]階級として地方へ赴任しそこで土着して[[武士]]化するか、完全に没落するかしかなかった{{sfn|倉本一宏|2019|p=15}}。上級公家として存続したのは「御堂末葉」、すなわち[[摂関家]]の一門と認識された[[村上源氏]]師房流など僅かな例しか存在しなかった{{sfn|倉本一宏|2019|p=124-132}}。


地方に下った皇別氏族は[[武士]]として活躍するものもおり、[[平氏#高望王流|桓武平氏]]と[[清和源氏]]はその代表例である。[[9世紀]]には桓武平氏の[[平将門]]が[[天慶の乱]]を起こし、その後も[[平忠常の乱]]が発生している。また桓武平氏の[[平清盛]]をはじめとする[[伊勢平氏]]は一時朝廷の権力を掌握している([[平氏政権]])。清和源氏では[[河内源氏]]嫡流の[[源頼朝]]が[[鎌倉]]に[[幕府 (日本)|幕府]]を開き([[鎌倉幕府]])[[武家の棟梁]]として広く認められるようになった。後に河内源氏の有力氏族である[[足利氏|足利家]]は[[室町幕府]]を開き、[[江戸幕府]]を開いた[[徳川氏]]も河内源氏の名門である[[新田氏]]の一族を称している。しかし中世以降には、清和源氏をはじめとする由緒ある家系と自らの家系をつなげる[[仮冒]](他人の名を騙ったり偽称する意)が盛んに行われており、徳川氏の前身である[[松平氏]]も神別氏族である[[賀茂氏]]を称していたが、後に源氏を称するようになっている。また徳川氏改姓にあたって一時的に藤原氏を称したように<ref>{{Cite journal |author=笠谷和比古 |year=1997 |title=徳川家康の源氏改姓問題 |journal= 日本研究|volume= |issue=16 |pages=33-48 |publisher=国際日本文化研究センター |naid=40004808755}}</ref>、何らかの事情によっては皇別姓を神別姓に改めることもあった。
地方に下った皇別氏族は[[武士]]として活躍するものもおり、[[平氏#高望王流|桓武平氏]]と[[清和源氏]]はその代表例である。[[9世紀]]には桓武平氏の[[平将門]]が[[天慶の乱]]を起こし、その後も[[平忠常の乱]]が発生している。また桓武平氏の[[平清盛]]をはじめとする[[伊勢平氏]]は一時朝廷の権力を掌握している([[平氏政権]])。清和源氏では[[河内源氏]]嫡流の[[源頼朝]]が[[鎌倉]]に[[幕府]]を開き([[鎌倉幕府]])[[武家の棟梁]]として広く認められるようになった。後に河内源氏の有力氏族である[[足利氏|足利家]]は[[室町幕府]]を開き、[[江戸幕府]]を開いた[[徳川氏]]も河内源氏の名門である[[新田氏]]の一族を称している。しかし中世以降には、清和源氏をはじめとする由緒ある家系と自らの家系をつなげる[[仮冒]](他人の名を騙ったり偽称する意)が盛んに行われており、徳川氏の前身である[[松平氏]]も神別氏族である[[賀茂氏]]を称していたが、後に源氏を称するようになっている。また徳川氏改姓にあたって一時的に藤原氏を称したように<ref>{{Cite journal |author=笠谷和比古 |year=1997 |title=徳川家康の源氏改姓問題 |journal= 日本研究|volume= |issue=16 |pages=33-48 |publisher=国際日本文化研究センター |naid=40004808755}}</ref>、何らかの事情によっては皇別姓を神別姓に改めることもあった。


本来は神別に分類される藤原氏の家系でも、皇族から養子を迎えたことで、血統的には天皇家の血を引く家系もある。代表的な家が[[近衛信尋]]以降の[[近衛家]]、[[一条昭良]]以降の[[一条家]]、[[鷹司輔平]]以降の[[鷹司家]]の3家であり、これらは[[皇別摂家]]と呼ばれることもある。ただし、これらの分家や養子を迎えた家は男系で存続していても、明治時代の華族宗別制度ではいずれも本来の氏族の分類で扱われている<ref>鷹司、一条、近衛はいずれも四十二類、[[藤原忠通]]裔として記載されており、鷹司輔平の孫を養子を迎えた[[清華家]]の[[徳大寺家]]は[[徳大寺実能]]裔、更に徳大寺家から養子を迎えた[[西園寺家]]は[[藤原通季]]裔として扱われており、他の[[藤原氏]]同様、神別に分類されている。</ref>。これは神別氏族から養子をとった皇別家系でも同様であり、華族の宗族制度においては「皇別」として扱われている<ref>[[宇和島藩]][[伊達氏]]から養子に入った[[真田幸民]]など</ref>。
本来は神別に分類される藤原氏の家系でも、皇族から養子を迎えたことで、血統的には天皇家の血を引く家系もある。代表的な家が[[近衛信尋]]以降の[[近衛家]]、[[一条昭良]]以降の[[一条家]]、[[鷹司輔平]]以降の[[鷹司家]]の3家であり、これらは[[皇別摂家]]と呼ばれることもある。ただし、これらの分家や養子を迎えた家は男系で存続していても、明治時代の華族宗別制度ではいずれも本来の氏族の分類で扱われている<ref>鷹司、一条、近衛はいずれも四十二類、[[藤原忠通]]裔として記載されており、鷹司輔平の孫を養子を迎えた[[清華家]]の[[徳大寺家]]は[[徳大寺実能]]裔、更に徳大寺家から養子を迎えた[[西園寺家]]は[[藤原通季]]裔として扱われており、他の[[藤原氏]]同様、神別に分類されている。</ref>。これは神別氏族から養子をとった皇別家系でも同様であり、華族の宗族制度においては「皇別」として扱われている<ref>[[宇和島藩]][[伊達氏]]から養子に入った[[真田幸民]]など</ref>。

2023年1月3日 (火) 21:27時点における版

皇別(こうべつ)とは、日本皇室から、神武天皇以降に臣籍降下した分流・庶流の氏族を分類した用語[1][2]弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』で、天津神・国津神の子孫を指す神別朝鮮半島中国大陸その他から渡来した人々の子孫を指す諸蕃とともに用いられた。また皇別の分類は明治時代華族宗族制度でも用いられた[3]

概要

皇別氏族は天皇が大王であった古代から存在し、息長氏葛城氏蘇我氏など、天皇家を先祖とする豪族が勢力を張った。佐伯有清大化の改新頃には氏族を出身で分類する事が行われていたと見ており、天武天皇が制定した八色の姓の頃には「皇別・神別・諸蕃」の「三体」で分類することが行われていたのではないかと見ている[4]。これらの氏族は「」のカバネを称することが多いとされるが、実際には「」のカバネを称した皇別氏族や「臣」を称したその他の氏族も多い[5]。しかしこれらの豪族は藤原氏の台頭や王権の伸長により徐々に勢力を減退させ、平安時代初頭には阿倍氏紀氏など一部の氏族が中下級の貴族の地位を保ったものの、多くは下級官人へと没落していった。

弘仁5年(814年)に行われた『新撰姓氏録』の最初の奏進の際には「神別・皇別・諸蕃」の順となっていたが、翌年に再度奏進された際には「皇別・神別・諸蕃」の順となった[6]関晃は、当時皇孫よりも天神の子孫を尊いとする考えが根付いていたからではないかと見ているが、佐伯有清はあまり大きな意味はないとしている[6]。『新撰姓氏録』では、335の氏族が皇別氏族としてあげられている[1]。皇別の氏族の出であると偽ったものも存在しており、吉田連は渡来人系の家系であったが、孝昭天皇の子孫が朝鮮半島に渡り、その末裔であると主張して皇別氏族となっている[7]

平安時代には財政や後継者争いの防止の観点から現天皇と血筋が遠くなった傍流の皇族や、天皇の子供でも母親の身分が低いものにを与え、臣籍降下させる例が多くなった。弘仁5年(814年)、嵯峨天皇の皇子女8人が臣籍降下し、源姓を与えられた[8]。これら源氏の賜姓は、一定の年以降に生まれた子女のうち、生母の家格が低いものに一括して行われた[9]。これらの源氏では大臣などを務めたものもいるが、3代目以降も上級貴族であり続けた例は少なく、中央で下級貴族として細々と生き延びるか、受領階級として地方へ赴任しそこで土着して武士化するか、完全に没落するかしかなかった[10]。上級公家として存続したのは「御堂末葉」、すなわち摂関家の一門と認識された村上源氏師房流など僅かな例しか存在しなかった[11]

地方に下った皇別氏族は武士として活躍するものもおり、桓武平氏清和源氏はその代表例である。9世紀には桓武平氏の平将門天慶の乱を起こし、その後も平忠常の乱が発生している。また桓武平氏の平清盛をはじめとする伊勢平氏は一時朝廷の権力を掌握している(平氏政権)。清和源氏では河内源氏嫡流の源頼朝鎌倉幕府を開き(鎌倉幕府武家の棟梁として広く認められるようになった。後に河内源氏の有力氏族である足利家室町幕府を開き、江戸幕府を開いた徳川氏も河内源氏の名門である新田氏の一族を称している。しかし中世以降には、清和源氏をはじめとする由緒ある家系と自らの家系をつなげる仮冒(他人の名を騙ったり偽称する意)が盛んに行われており、徳川氏の前身である松平氏も神別氏族である賀茂氏を称していたが、後に源氏を称するようになっている。また徳川氏改姓にあたって一時的に藤原氏を称したように[12]、何らかの事情によっては皇別姓を神別姓に改めることもあった。

本来は神別に分類される藤原氏の家系でも、皇族から養子を迎えたことで、血統的には天皇家の血を引く家系もある。代表的な家が近衛信尋以降の近衛家一条昭良以降の一条家鷹司輔平以降の鷹司家の3家であり、これらは皇別摂家と呼ばれることもある。ただし、これらの分家や養子を迎えた家は男系で存続していても、明治時代の華族宗別制度ではいずれも本来の氏族の分類で扱われている[13]。これは神別氏族から養子をとった皇別家系でも同様であり、華族の宗族制度においては「皇別」として扱われている[14]

また明治時代以降に臣籍降下した旧皇族も定義に従えば皇別であるが、あまりそのようには呼ばれない。

著名な皇別氏族

著名な皇別を称する氏族を記す。括弧内はカバネ

飛鳥時代

奈良時代

平安時代


江戸時代

現代

脚注

  1. ^ a b 佐藤良雄 1994, p. 36.
  2. ^ 佐伯有清 日本大百科全書『皇別』 - コトバンク
  3. ^ 上野秀治 2001, p. 37-38.
  4. ^ 菅澤庸子 2001, p. 214.
  5. ^ 篠川賢 2007, p. 50-51.
  6. ^ a b 菅澤庸子 2001, p. 211.
  7. ^ 菅澤庸子 2001, p. 216.
  8. ^ 倉本一宏 2019, p. 12-13.
  9. ^ 中村みどり 2015, p. 61.
  10. ^ 倉本一宏 2019, p. 15.
  11. ^ 倉本一宏 2019, p. 124-132.
  12. ^ 笠谷和比古 (1997). “徳川家康の源氏改姓問題”. 日本研究 (国際日本文化研究センター) (16): 33-48. NAID 40004808755. 
  13. ^ 鷹司、一条、近衛はいずれも四十二類、藤原忠通裔として記載されており、鷹司輔平の孫を養子を迎えた清華家徳大寺家徳大寺実能裔、更に徳大寺家から養子を迎えた西園寺家藤原通季裔として扱われており、他の藤原氏同様、神別に分類されている。
  14. ^ 宇和島藩伊達氏から養子に入った真田幸民など

参考文献

  • 柴山典 編『華族類別譜. 上巻 皇別』屏山書屋、1880年。NDLJP:780644 
  • 篠川賢「カバネ「連」の成立について」『日本常民文化紀要』第26巻、成城大学、2007年、35-59頁。 
  • 佐藤良雄「天皇の多妻婚 6」『成城法学』第47巻、成城大学、1994年、29-87頁。 
  • 倉本一宏『公家源氏 王権を支えた名族』中央公論新社〈中公新書〉、2019年。 
  • 中村みどり「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」『京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編』第14巻、京都女子大学、2015年、NAID 120005620756 
  • 菅澤庸子「『新撰姓氏録』における姓意識と渡来系氏族」『史窓』第58巻、京都女子大学史学研究室、2001年、209-220頁、NAID 110000413845 
  • 上野秀治「明治期の宗族制と安倍氏」『学習院大学史料館紀要』第11巻、学習院大学史料館、2001年、ISSN 02890860 

関連項目