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「プリモゲ (軽巡洋艦)」の版間の差分

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[[デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦]]の3番艦{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|pp=128a-129|ps=デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦/軽防御ながら航洋性に優れたフランス近代巡洋艦の先駆け}}{{#tag:ref|<strong>二等巡洋艦“デュガイ・トルーアン {{lang|fr|Duguay Trouin}}”</strong>{{Sfn|ポケット海軍年鑑|1935|p=154|ps=(原本290-291頁)二等巡洋艦デュガイ・トルーアン}} 全要目{排水量7,249噸 速力34節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管(53糎)12門 起工1922年8月 竣工1926年11月 建造所ブレスト海軍工廠} 同型艦“<strong>ラモツトピケ</strong> {{lang|fr|Lamotte-Picquet}}}” “<strong>プリモウゲ</strong> {{lang|fr|Primauguet}}”全長184.08米、幅17.07米、平均吃水5.49米。上記の外に7.5糎高角砲4門その他小砲7門を有す。/水上機2機(哨戒機)を搭載す。34節の全速力に於ける軸馬力は100,000馬力。重油搭載量は最大1,500噸。34節の全速力にて880浬の行動半徑を航續し得、同じく30節では1,290浬、20節で3,000浬、15節では4,500浬と云はれてゐる。魚雷は24個搭載しその外に艦載艇用魚雷(45糎)を搭載してゐる。|group="注釈"}}。
[[デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦]]の3番艦{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|pp=128a-129|ps=デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦/軽防御ながら航洋性に優れたフランス近代巡洋艦の先駆け}}{{#tag:ref|<strong>二等巡洋艦“デュガイ・トルーアン {{lang|fr|Duguay Trouin}}”</strong>{{Sfn|ポケット海軍年鑑|1935|p=154|ps=(原本290-291頁)二等巡洋艦デュガイ・トルーアン}} 全要目{排水量7,249噸 速力34節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管(53糎)12門 起工1922年8月 竣工1926年11月 建造所ブレスト海軍工廠} 同型艦“<strong>ラモツトピケ</strong> {{lang|fr|Lamotte-Picquet}}}” “<strong>プリモウゲ</strong> {{lang|fr|Primauguet}}”全長184.08米、幅17.07米、平均吃水5.49米。上記の外に7.5糎高角砲4門その他小砲7門を有す。/水上機2機(哨戒機)を搭載す。34節の全速力に於ける軸馬力は100,000馬力。重油搭載量は最大1,500噸。34節の全速力にて880浬の行動半徑を航續し得、同じく30節では1,290浬、20節で3,000浬、15節では4,500浬と云はれてゐる。魚雷は24個搭載しその外に艦載艇用魚雷(45糎)を搭載してゐる。|group="注釈"}}。
[[第一次世界大戦]]後にブレスト工廠で建造された{{#tag:ref|<strong>二等巡洋艦 “プリモウゲ {{lang|fr|Primauguet}}”</strong>{{Sfn|ポケット海軍年鑑|1937|p=132|ps=(原本246-247頁)二等巡洋艦プリモーゲ}} 全要目{排水量7,249噸 速力34.0節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管12門 起工1923年8月 竣工1926年11月 建造所 ブレスト海軍工廠} 佛國輕巡の中樞をなす同型三艦中の一艦で、1923年の建造は如何にもすでに一昔前ではあるが、その時すでに今日の輕巡の基本形を備へ重巡誕生の母となつた。全長184.08米、幅17.07米、平均吃水5.49米。7.5糎高角砲4門、單葉水上機二機を搭載、カタパルトは艦尾後甲板に据へられてゐる。魚雷發射管は53糎徑の大きなもので、別に艦載機が使用する45糎のものも積んでゐる4推進器艦で主機關の軸馬力100,000馬力なりといふ。|group="注釈"}}。
[[第一次世界大戦]]後にブレスト工廠で建造された{{#tag:ref|<strong>二等巡洋艦 “プリモウゲ {{lang|fr|Primauguet}}”</strong>{{Sfn|ポケット海軍年鑑|1937|p=132|ps=(原本246-247頁)二等巡洋艦プリモーゲ}} 全要目{排水量7,249噸 速力34.0節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管12門 起工1923年8月 竣工1926年11月 建造所 ブレスト海軍工廠} 佛國輕巡の中樞をなす同型三艦中の一艦で、1923年の建造は如何にもすでに一昔前ではあるが、その時すでに今日の輕巡の基本形を備へ重巡誕生の母となつた。全長184.08米、幅17.07米、平均吃水5.49米。7.5糎高角砲4門、單葉水上機二機を搭載、カタパルトは艦尾後甲板に据へられてゐる。魚雷發射管は53糎徑の大きなもので、別に艦載機が使用する45糎のものも積んでゐる4推進器艦で主機關の軸馬力100,000馬力なりといふ。|group="注釈"}}。
艦名は、[[:en:Battle of Saint-Mathieu|Battle of Saint-Mathieu]]で戦死したフランス海軍の[[:en:Hervé de Portzmoguer|Hervé de Portzmoguer]]のあだ名<ref>''French Cruisers 1922-1956'', p. 27</ref>。1934年[[6月5日]]、[[東郷平八郎|東郷]][[元帥]]の[[国葬]]に参列した<ref name="弔意一覧">[[#弔意一覧表]] p.18、[[#東郷元帥薨去弔意]] p.13〔 七、各國弔意表明振 (イ)軍艦特使 〕</ref>。[[第二次世界大戦]]で[[独仏休戦協定]]により[[ヴィシー政権]]が成立すると、[[:fr:Armée_d%27armistice|ヴィシー軍]]に所属した{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=129}}。1942年11月8日、[[トーチ作戦]]に伴い[[カサブランカ]]に来襲した[[連合国_(第二次世界大戦)|連合国軍]]の艦隊と交戦し{{Efn|name="第34任務部隊"|連合軍艦隊(第34任務部隊指揮官[[:en:Henry_Kent_Hewitt|H.ケント.ヒューイット]]少将)、第34.1任務群([[ロバート・C・ギッフェン|ギッフェン]]少将:戦艦マサチューセッツ、重巡2隻([[ウィチタ (重巡洋艦)|ウィチタ]]、[[タスカルーサ_(重巡洋艦)|タスカルーサ]])、駆逐艦4隻、補給艦1隻)、第34.9任務群(ヒューイット少将:重巡オーガスタ〈旗艦〉、軽巡ブルックリン、駆逐艦10隻、上陸部隊輸送船団)、第34.2任務群(空母[[レンジャー (CV-4)|レンジャー]]、護衛空母[[スワニー (護衛空母)|スワニー]]、軽巡[[クリーブランド (軽巡洋艦)|クリーブランド]]、駆逐艦5隻、潜水艦2隻、補給艦1隻)。}}、擱坐したのち放棄された{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=128b}}([[カサブランカ沖海戦]])。
艦名は、[[:en:Battle of Saint-Mathieu|Battle of Saint-Mathieu]]で戦死したフランス海軍の[[:en:Hervé de Portzmoguer|Hervé de Portzmoguer]]のあだ名<ref>''French Cruisers 1922-1956'', p. 27</ref>。1934年[[6月5日]]、[[東郷平八郎|東郷]][[元帥]]の[[国葬]]に参列した<ref name="弔意一覧">[[#弔意一覧表]] p.18、[[#東郷元帥薨去弔意]] p.13〔 七、各國弔意表明振 (イ)軍艦特使 〕</ref>。[[第二次世界大戦]]でフランスが破れ、[[ヴィシー政権]]が成立すると、[[:fr:Armée_d%27armistice|ヴィシー軍(休戦軍)]]に所属した{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=129}}。1942年11月8日、[[トーチ作戦]]に伴い[[カサブランカ]]に来襲した[[連合国_(第二次世界大戦)|連合国軍]]の艦隊と交戦し{{Efn|name="第34任務部隊"|連合軍艦隊(第34任務部隊指揮官[[:en:Henry_Kent_Hewitt|H.ケント.ヒューイット]]少将)、第34.1任務群([[ロバート・C・ギッフェン|ギッフェン]]少将:戦艦マサチューセッツ、重巡2隻([[ウィチタ (重巡洋艦)|ウィチタ]]、[[タスカルーサ_(重巡洋艦)|タスカルーサ]])、駆逐艦4隻、補給艦1隻)、第34.9任務群(ヒューイット少将:重巡オーガスタ〈旗艦〉、軽巡ブルックリン、駆逐艦10隻、上陸部隊輸送船団)、第34.2任務群(空母[[レンジャー (CV-4)|レンジャー]]、護衛空母[[スワニー (護衛空母)|スワニー]]、軽巡[[クリーブランド (軽巡洋艦)|クリーブランド]]、駆逐艦5隻、潜水艦2隻、補給艦1隻)。}}、擱坐したのち放棄された{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=128b}}([[カサブランカ沖海戦]])。


==艦歴==
==艦歴==
=== 戦間期 ===
[[第一次世界大戦]]後、[[フランス海軍]]が[[オマハ級軽巡洋艦]]([[アメリカ海軍]])を意識しつつ建造した[[巡洋艦]]が、[[デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦]]である{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=128b}}。
[[第一次世界大戦]]後、[[フランス海軍]]が[[オマハ級軽巡洋艦]]([[アメリカ海軍]])を意識しつつ建造した[[巡洋艦]]が、[[デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦]]である{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=128b}}。
3隻が計画され、2隻([[デュゲイ・トルーアン_(軽巡洋艦)|デュゲイ・トルーアン]]、プリモゲ)がブレスト工廠で、1隻([[ラモット・ピケ_(軽巡洋艦)|ラモット・ピケ]])が[[:en:Naval_Group|ロリアン海軍工廠]]で建造された{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=128b}}{{#tag:ref|<strong>二等巡洋艦 “ラモト・ピケ {{lang|fr|Lamotte Piquet}}”</strong>{{Sfn|ポケット海軍年鑑|1937|p=131|ps=(原本244-245頁)二等巡洋艦ラモツト・ピケ}} 全要目{排水量7,249噸 速力34.0節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管12門 起工1923年1月 竣工1926年9月 建造所 ロリアン海軍工廠} プリモウゲの同型艦で、南洋方面の遣外艦隊の旗艦として、幾度か日本にもやつて來た。長さがわが[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]よりも約10米長く出來てゐるのが見た眼に非常に長細い船だと感じさせるが、もともと遣外艦隊配属を目的として造られたものであるから、大きな圖体には少からざる燃料をつんで15節にて9,000浬といふ航續距離を示してゐる。主砲高角砲共に最新の制式を有し、單騎よく大洋のまん中にあつて決してひけはとらぬと云ふ。もう一隻の同型艦は“デユゲイ・トルーアン {{lang|fr|Duguay Trouin}}”要目全く同じである。|group="注釈"}}。
3隻が計画され、2隻([[デュゲイ・トルーアン_(軽巡洋艦)|デュゲイ・トルーアン]]、プリモゲ)がブレスト工廠で、1隻が[[:en:Naval_Group|ロリアン海軍工廠]]で建造された{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=128b}}{{#tag:ref|<strong>二等巡洋艦 “[[ラモト・ピケ_(軽巡洋艦)|ラモット・ピケ]] {{lang|fr|Lamotte Piquet}}”</strong>{{Sfn|ポケット海軍年鑑|1937|p=131|ps=(原本244-245頁)二等巡洋艦ラモツト・ピケ}} 全要目{排水量7,249噸 速力34.0節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管12門 起工1923年1月 竣工1926年9月 建造所 ロリアン海軍工廠} プリモウゲの同型艦で、南洋方面の遣外艦隊の旗艦として、幾度か日本にもやつて來た。長さがわが[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]よりも約10米長く出來てゐるのが見た眼に非常に長細い船だと感じさせるが、もともと遣外艦隊配属を目的として造られたものであるから、大きな圖体には少からざる燃料をつんで15節にて9,000浬といふ航續距離を示してゐる。主砲高角砲共に最新の制式を有し、單騎よく大洋のまん中にあつて決してひけはとらぬと云ふ。もう一隻の同型艦は“デユゲイ・トルーアン {{lang|fr|Duguay Trouin}}”要目全く同じである。|group="注釈"}}。
プリモゲは1923年(大正12年)8月16日に起工{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=129}}。1924年(大正13年)5月21日に進水{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=129}}。1926年(大正15年)9月1日に竣工した{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=129}}。
プリモゲは1923年(大正12年)8月16日に起工{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=129}}。1924年(大正13年)5月21日に進水{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=129}}。1926年(大正15年)9月1日に竣工した{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=129}}。


「プリモゲ」は東まわりで[[世界一周]]の航海に出た{{Efn|世界巡航の佛國巡洋艦 <small>月曜日來航す</small><ref>[https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/tnj19271014-01.1.3 Hoji Shinbun Digital Collection、Nippu Jiji, 1927.10.14、p.3、2023年8月2日閲覧]</ref> 當地佛國領事オーガステ・マークエス氏の許に達した電報に依ると世界巡航の途にある佛國巡洋艦プリマウゲート號は月曜日横濱から來航する、同號は佛國最新式巡洋艦で噸數九千五百噸、長さ六百呎 幅五十七呎、喫水十七呎である、航程はフランスを發しスエズ運河を經て日本に赴きホノルルからパナマ運河を通過して歸航する豫定となつてゐる(記事おわり)}}。
1934年(昭和9年)[[5月30日]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[東郷平八郎]]元帥が死去し{{Sfn|東郷元帥読本|1938|p=162|ps=附録、東郷元帥年表}}、[[6月5日]]に[[国葬]]がおこなわれる{{Sfn|東郷元帥読本|1938|pp=147-152|ps=(原本273-275頁)荘嚴なる國葬儀}}。列強各国はアジア方面に配置していた巡洋艦と、艦隊司令官(司令長官)を[[大日本帝国]]に派遣することにした<ref name="接待件">{{アジア歴史資料センター|C05023436600|第2576号 9.6.2 外国海軍指揮官接待に関する件}}</ref>。[[イギリス]]は重巡[[サフォーク (重巡洋艦)|サフォーク]] (''{{lang|en|HMS Suffolk, 55}}'') 、[[アメリカ合衆国]]は重巡[[オーガスタ (重巡洋艦)|オーガスタ]] (''{{lang|en|USS Augusta, CA-31}}'') 、[[イタリア王国]]は巡洋艦[[クアルト (防護巡洋艦)|クアルト]] (''{{lang|it|Esploratore Quarto}}'') 、[[オランダ]]は軽巡[[ジャワ (軽巡洋艦)|ジャワ]] (''{{lang|nl|Hr. Ms. Java}}'') 、[[中華民国]]は巡洋艦[[寧海 (巡洋艦)|寧海]]を派遣する<ref name="弔意一覧" />{{Efn|寧海は6月5日の式典に間に合わないことが判明し、[[下関区|下関]]に寄港して儀仗隊のみ先行させて式典に間に合わせ、寧海は6月6日[[東京湾]]に到着した{{Sfn|福井、世界巡洋艦物語|1994|pp=185-186}}。}}。フランスが派遣したのが、本艦だった。6月4日、極東艦隊のプリモゲは[[横浜港]]に入港。[[6月5日|5日]]の[[東郷平八郎]][[元帥]]の[[国葬]]に参列し、日本艦や招待艦などと共に[[半旗]]を掲げ[[弔砲]]を発射した{{Efn|フランス砲艦([[通報艦]])[[:fr:Tahure_(aviso)|タユール]] (''{{lang|fr|Tahure}}'') は弔砲を発射していない<ref>[https://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター] レファレンスコード:C05023436600</ref>。}}。国葬後に極東艦隊司令長官のリシャール少将は勲二等[[瑞宝章]]、艦隊参謀長兼艦長のルルー大佐は勲三等瑞宝章の叙勲を受けた<ref>[https://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター] レファレンスコード:A10113136700</ref>。
1927年(昭和2年)9月30日、フランス極東艦隊旗艦(ジャン・ジャック・ストック少将)プリモゲは<ref>[[#ストック外三名叙勲]] p.2</ref>、[[大日本帝国]]の[[横浜港]]に入港した<ref>[[#仏軍艦本邦沿海巡航]] p.10(横浜税関報)</ref>。
10月6日、フランス海軍の装甲巡洋艦「[[ジュール・ミシュレ_(装甲巡洋艦)|ジュール・ミシュレ]] (''{{lang|fr|Jules Michelet}}'') 」も横浜に入港し<ref>[[#仏軍艦本邦沿海巡航]] p.6(横浜税関報)</ref>、ストック少将は将旗を「プリモゲ」から「ジュール・ミシュレ」に移した<ref>[[#S2、プリモーゲ来航]] pp.9-11</ref>。
同6日、[[:en:List_of_ambassadors_of_France_to_Japan|フランス大使]]とプリモゲの将校2名が乗用車でドライブ中、[[鎌倉市]]で暴漢二人に襲われ、士官が負傷した{{Efn|佛國大使[[:fr:Robert_de_Billy|デビリー]]氏 鎌倉で兇漢に襲はる <small>佛巡洋艦乗組員とドライヴ中 大使は幸に無事、士官二名負傷す</small><ref>[https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/nos19271007-01.1.3 Hoji Shinbun Digital Collection、Nan’yō Nichinichi Shinbun, 1927.10.07、p.3、2023年8月2日閲覧]</ref>(六日東京發)駐日佛國大使デビリー氏は佛巡洋艦プリモゲ號の乗組士官二名と鎌倉附近をドライブ中二名の日本人醉漢に襲はれた。大使は負傷しなかつたが士官は打撲傷を負ひ醉漢と格闘中警官驅けつけ來たり兩名共犯人を逮捕した。同大使に右を單に些細な出來事と看做し外務當局に同事件の解決を迫るやうなことはしまいと(記事おわり)}}。
10月7日、「プリモゲ」は横浜を出発する<ref>[[#仏軍艦本邦沿海巡航]] p.14(横浜税関報)</ref>。10月17日、[[ハワイ島]]に到着した<ref>[https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/jan19271019-01.1.1 Hoji Shinbun Digital Collection、Nichibei Shinbun, 1927.10.19、p.1、2023年8月2日閲覧] 〔 布哇安着の佛國巡洋艦 近く桑港へ(ホノルル) 〕</ref>。[[ホノルル]]に滞在したあと、サンフランシスコにむかった<ref>[https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/tnj19271023-01.1.3 Hoji Shinbun Digital Collection、Nippu Jiji, 1927.10.23、p.3、2023年8月2日閲覧]〔 佛國巡洋艦今朝出航 桑港に向ふ 〕</ref>。


1933年(昭和8年)4月から8月にかけて、「プリモゲ」は日本の長崎、神戸、敦賀など各地を訪問する{{Sfn|海軍省年報、昭和8年|1935|p=20|ps=9.外國軍艦本邦沿岸出入一覧 昭和8年度}}。門司では出港直後に民間船と衝突して相手を沈没させたが、日本人5名を救助せずに別府に向かうなど、小事故や事件の多い訪日であった<ref>[[#S8、官房3665号]] pp.7-9〔 佛國軍艦「プリモーゲ」來航中ノ事故 〕</ref>。
「プリモゲ」は1937年9月7日にブレストより出航し、[[タンジェ]]<!--Tangiers-->を経て9月14日に[[トゥーロン]]着<ref name=Guiglini(3)79>"French Light Cruisers: Part 3", p. 79</ref>。復水器の不具合のため同地で入渠した後、10月4日に出航し、[[ビゼルト]]、[[ポートサイド]]、[[スエズ]]、[[ジブチ]]、[[アデン]]、[[コロンボ]]、[[ペナン]]、[[シンガポール]]を経由11月21日サイゴンに着いた<ref name=Guiglini(3)79/><ref>''French Cruisers 1922-1956'', p. 173には1937年11月22日から極東配備、とある</ref>。12月、[[ブンタウ|Cap Saint-Jacques]]、[[カムラン]]を経て上海へ移動<ref name=Guiglini(3)80>"French Light Cruisers: Part 3", p. 80</ref>。1938年3月14日まで「プリモゲ」は上海にとどまり、それからChusan Archipelagoに赴いた<ref name=Guiglini(3)80/>。そのあとは上海に戻り、4月23日まで同地にあった<ref name=Guiglini(3)80/>。上海から出航すると、「プリモゲ」はChefoo、Chin-Wang-Tao、呉淞と訪れ、5月8日に上海に戻った<ref name=Guiglini(3)80/>。5月18日に「プリモゲ」は出航し、Chusan Archipelagoで巡洋艦「[[ラモット・ピケ (軽巡洋艦)|ラモット・ピケ]]と会った香港へ向かった<ref name=Guiglini(3)80/>。香港では整備を行い、カムラン泊地を経て6月3日にサイゴン着<ref name=Guiglini(3)80/>。6月中旬から7月初めにかけて「プリモゲ」はカムラン、[[ダナン|トゥーラン]]、Along Bay、Norway Islands、トンキン、ハイフォン、Vanfong Bayを訪れた<ref name=Guiglini(3)80/>。しばらくサイゴンに滞在した後、Fort-Bayardを経て7月31日にAlong Bayで「ラモット・ピケ」と会い訓練を実施<ref>"French Light Cruisers: Part 3", pp. 63, 80</ref>。それから香港、上海、[[マニラ]]と訪れ、サイゴンに戻った<ref name=Guiglini(3)80/>。10月は初めはサイゴンにあり、その後は香港に滞在<ref name=Guiglini(3)80/>。トゥーランとカムランを経て11月4日にサイゴンに戻った<ref name=Guiglini(3)80/>。11月下旬からはFort-Bayard、ハイフォンと訪れ、Along Bayで「ラモット・ピケ」と会い、La Noix、Lan-Ha Bay、香港を訪れた<ref name=Guiglini(3)80/>。その後はしばらく上海に滞在し、1939年1月24日にサイゴン着<ref name=Guiglini(3)80/>。


1934年(昭和9年)[[5月30日]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[東郷平八郎]]元帥が死去し{{Sfn|東郷元帥読本|1938|p=162|ps=附録、東郷元帥年表}}、[[6月5日]]に[[国葬]]がおこなわれる{{Sfn|東郷元帥読本|1938|pp=147-152|ps=(原本273-275頁)荘嚴なる國葬儀}}。列強各国はアジア方面に配置していた巡洋艦と、艦隊司令官(司令長官)を[[大日本帝国]]に派遣することにした<ref>[https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/tnj19340602-01.1.1 Hoji Shinbun Digital Collection、Nippu Jiji, 1934.06.02、p.1、2023年8月2日閲覧] 〔 支那、伊太利も亦 軍艦派遣決定 故東郷元帥の國葬に 南京政府、鄭重な弔意/接待艦比叡で答禮親和の宴 各國代表艦長を招待 〕</ref><ref name="接待件">{{アジア歴史資料センター|C05023436600|第2576号 9.6.2 外国海軍指揮官接待に関する件}}</ref>。
1939年1月30日、「プリモゲ」は近東のフランス権益保護に向かう<ref name=Guiglini(3)80/>。途中コロンボに寄港し、2月14日にジブチ着<ref name=Guiglini(3)80/>。マスカリ島<!--Maskali Island-->等の監視を行った<ref name=Guiglini(3)80/>。また、3月8-9日には通報艦「[[:en:French aviso D'Iberville|D'Iberville]]」、潜水艦「[[:en:French submarine Morse (1925)|Morse]]」、「[[:en:French submarine Souffleur (1924)|Souffleur]]」と訓練を行い、4月初めにはイランの皇太子を乗せた汽船「Mohamed Ali el Kebir」の護衛を行っている<ref name=Guiglini(3)80/>。4月25日に「プリモゲ」はジブチを離れ、コロンボを経由し、シンガポールで入渠して5月20日にサイゴンに着いた<ref name=Guiglini(3)80/>。
[[イギリス]]は重巡「[[サフォーク (重巡洋艦)|サフォーク]] (''{{lang|en|HMS Suffolk, 55}}'') 」、[[アメリカ合衆国]]は重巡「[[オーガスタ (重巡洋艦)|オーガスタ]] (''{{lang|en|USS Augusta, CA-31}}'') 」、[[イタリア王国]]は巡洋艦「[[クアルト (防護巡洋艦)|クアルト]] (''{{lang|it|Esploratore Quarto}}'') 」、[[中華民国]]は[[寧海級巡洋艦|巡洋艦]]「[[寧海 (巡洋艦)|寧海]]」を派遣する<ref name="弔意一覧" />{{Efn|「寧海」は6月5日の式典に間に合わないことが判明し、[[下関区|下関]]に寄港して儀仗隊のみ先行させて式典に間に合わせ、「寧海」は6月6日[[東京湾]]に到着した{{Sfn|福井、世界巡洋艦物語|1994|pp=185-186}}。[[オランダ]]が軽巡「[[ジャワ (軽巡洋艦)|ジャワ]] (''{{lang|nl|Hr. Ms. Java}}'') 」を派遣したという資料もある。}}。フランスが派遣したのが、本艦だった<ref>{{アジア歴史資料センター|J21021971000|Shin Sekai Nichi Nichi Shinbun 1934.06.03 新世界日日新聞/nwd_19340603(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3〔 英米佛伊支海軍から弔問に軍艦派遣 宛然世界海軍葬の觀ある 東郷元帥の葬儀 〕</ref>。
6月4日、極東艦隊の「プリモゲ」は[[横浜港]]に入港{{Efn|(3)艦船{{Sfn|海軍省年報、昭和9年|1936|pp=21-22|ps=原本31-32頁}} '''10.外國軍艦本邦沿岸出入一覧'''(フランス)(プリモーゲ) }}。[[6月5日|5日]]の[[東郷平八郎]][[元帥]]の[[国葬]]に参列し<ref>{{アジア歴史資料センター|J21021971400|Shin Sekai Nichi Nichi Shinbun 1934.06.05 新世界日日新聞/nwd_19340605(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3(東郷元帥葬儀記事)</ref>、日本艦や招待艦などと共に[[半旗]]を掲げ[[弔砲]]を発射した{{Efn|フランス砲艦([[通報艦]])[[:fr:Tahure_(aviso)|タユール]] (''{{lang|fr|Tahure}}'') は弔砲を発射していない<ref>[https://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター] レファレンスコード:C05023436600</ref>。}}。国葬後の6日、横須賀鎮守府司令長官[[永野修身]]大将(接伴委員長)は、各国司令長官や将星を[[ホテルニューグランド]]での午餐会に招待した{{Efn|'''國葬参列の各國将星を永野大将が招待す''' {{smaller|ホテル、ニューグランドに悲しみの裡に國際親善}}<ref>{{アジア歴史資料センター|J21021971800|Shin Sekai Nichi Nichi Shinbun 1934.06.07 新世界日日新聞/nwd_19340607(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3</ref> 東郷元帥國葬参列の重任を果した英、米、佛、伊、支五ヶ國代表及其一行をば接伴委員長横須賀鎭守府司令長官永野修身大将が招待して六日午後一時より盛大な午餐會を横濱のホテル、ニューグランドに開いた、ドレーヤー大将(英國) アツパム大将(米) リシャール中将(佛) プリポネツシ大佐(伊) 王壽廷(支)を初めとして其幕僚、大使館附武官等各國の将星二十二名出席し、日本側は永野長官以下各聯絡将校等を初め約二十名出席し接伴艦[[比叡 (戦艦)|比叡]]の軍樂隊伴奏裡に一同歡を盡して國際親善の實を収めた(記事おわり)}}。
6月21日、極東艦隊司令長官のリシャール少将と、艦隊参謀長兼プリモゲ艦長のルルー大佐は、[[昭和天皇]]に拝謁した{{Efn|◎謁見<ref>[{{NDLDC|2958716/4}} 昭和9年06月22日(金)官報第2241号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ4(原本557)</ref> 佛國極東艦隊司令長官海軍少将<ins>アルフレッド、ルイ、マリー、リシャール</ins>今般來航ニ付敬意ヲ表スルタメ同艦隊参謀長海軍大佐<ins>ルルー</ins>外一名ヲ從ヘ同國特命全權大使<ins>フェルナン、ジャン、マリー、ピラ</ins>同伴同大使館附海軍武官 海軍少佐<ins>オーブリー・ド、ラ、ノエ</ins>ト共ニ昨二十一日午前十一時 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ(以下略) }}。そしてリシャール少将は勲二等[[瑞宝章]]、ルルー大佐は勲三等瑞宝章の叙勲を受けた<ref>[https://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター] レファレンスコード:A10113136700</ref>。その後、「プリモゲ」は神戸、宮島、別府を経由して日本を離れる{{Sfn|海軍省年報、昭和9年|1936|pp=21-22|ps=原本31-32頁}}。間もなく機関修理とタービン検査のため再来日し、[[三菱重工業長崎造船所]]に入渠することになった<ref>[[#S9.第3077号プリモゲ長崎]] p.3(佛國巡洋艦「プリモーゲ」ノ長崎來航ニ關スル件)</ref>。8月31日<ref>[[#第3077号プリモゲ長崎]] p.12(8月31日、長崎着報告)</ref>から10月16日<ref>[[#S09.第4077号プリモゲ来航]] p.12(昭和9年10月16日)〔 佛國軍艦プリモーゲハ本日午前十時横濱ヘ向ケ出港セリ。〕</ref>まで長崎滞在、10月18日<ref>[[#S09.第4260号タユール寄港]] p.6(昭和9年10月18日)〔 佛國軍艦プリモウゲ號 入港ス。 〕</ref>から29日<ref>[[#S09.第4260号タユール寄港]] p.16(昭和9年10月29日)〔 佛國軍艦プリモーゲ號 出港ス、 〕</ref>まで横浜に寄港した{{Sfn|海軍省年報、昭和9年|1936|pp=21-22|ps=原本31-32頁}}。


1935年(昭和10年)8月上旬から10月末にかけて、「プリモゲ」は[[日本列島]]の各地に立ち寄った{{Sfn|海軍省年報、昭和10年|1937|pp=24a-25|ps=(原本20-22頁)(3)艦船 10.外國軍艦本邦沿岸出入一覧…續 昭和10年度}}{{Efn|大連(7月30日~8月6日)<ref>[[#S10.第2928号プリモゲ寄港]] p.16(昭和10年7月30日)(プリモゲの大連着、英重巡[[ベリック_(重巡洋艦)|ベリック]]の大連発報告)</ref>、門司(8月31日~9月3日)<ref>[[#S10.第3487号プリモゲ寄港]] p.8(昭和10年8月31日)〔 佛國軍艦フリーモーゲ號ハ八月卅一日午後十時管下門司入港セリ。〕、同資料 p.9(昭和10年9月3日)〔 佛國軍艦フリーモーゲ九月三日午后三時門司抜錨敦賀ニ向フ。〕</ref>、敦賀(9月4日~9月11日)<ref>[[#S10.第3487号プリモゲ寄港]] p.10(昭和10年9月4日)(プリモゲ敦賀着報告)、[[#S10.第3680号プリモゲ寄港]] p.6(昭和10年9月11日)(プリモゲ敦賀発報告)</ref>、長崎(9月13日~10月1日、装甲巡洋艦「[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]]」と交流、三菱長崎造船所で修理)<ref>[[#S10.第3680号プリモゲ寄港]] pp.9-13(佛艦「プリモウゲ」寄港ニ關スル件)</ref>、神戸(10月3日~10月13日)<ref>[[#S10.第3680号プリモゲ寄港]] pp.7-8(昭和10年10月3日、4日)(プリモウゲ神戸着、英駆逐艦[[ダイアモンド_(駆逐艦・初代)|ダイヤモンド]]や[[:en:HMS_Decoy_(H75)|デコイ]]など神戸発報告)、同資料 pp.14,16(昭和10年10月13日)(プリモウゲ神戸発報告)</ref>、横浜(10月14日~10月28日)<ref>[[#S10.第3680号プリモゲ寄港]] p.15(昭和10年10月14日)(プリモゲ横浜着報告)、同資料 p.17(昭和10年10月28日)(プリモゲ横浜出港報告)</ref>。}}。
6月、「プリモゲ」は[[ニャチャン]]、カムラン、Port-Dayot、厦門、上海を訪れた<ref name=Guiglini(3)80/>。
[[10月14日]]<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070352200|「10月(2)」、昭和10年 海軍公報 下巻(防衛省防衛研究所)}} pp.3-4(海軍公報、第2590号、昭和10年10月14日)〔 ○艦船所在 ○十月十四日午前十時調【横須賀】【長浦】【浦賀】 〕</ref>、「プリモゲ」は横浜港に入港する{{Sfn|海軍省年報、昭和10年|1937|pp=24b-25}}。同14日、[[フィリピン大統領]]就任式および[[:en:Names_of_the_Philippines|フィリピン連邦]]始政式<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022075400|Shin Sekai Asahi Shinbun 1935.11.16、新世界朝日新聞/nws_19351116(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.1〔 東洋の新生國 比島聯邦始政式擧行 〕、同p.3(式典参加者など)</ref>に参加するため[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]などを乗せて太平洋を横断してきたアメリカ海軍の重巡「[[チェスター (重巡洋艦)|チェスター]] (''{{lang|en|USS Chester, CA-27}}'') 」も、横浜に到着した{{Sfn|海軍省年報、昭和10年|1937|pp=24b-25}}。
[[10月15日|15日]]、[[ジョージ・ヘンリー・ダーン|ダーン]]合衆国陸軍長官と、フランス極東艦隊司令長官は<ref>[https://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター] レファレンスコード:A10113154300</ref>、[[昭和天皇]]に拝謁した<ref>{{アジア歴史資料センター|B13091751000|外務省報第三百三十四号(昭和十年十一月一日)/宮廷記事0、外務省報 第二十巻(外・報20)(外務省外交史料館)}} p.1</ref>{{Efn|◎謁見<ref>[{{NDLDC|2959117/5}} 昭和10年10月16日(水)官報第2638号。国立国会図書館デジタルコレクション] コマ5(原本437)</ref> ◎謁見 米國陸軍長官<ins>ジョージ、エイチ、ダーン</ins>今般渡來ニ付敬意ヲ表スルタメ同國臨時代理大使<ins>エドヴィン、エル、ネヴィル</ins>同伴昨十五日午前十一時 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ<br/>佛國極東艦隊司令長官海軍中将<ins>ジャン、ピエール、エステヴァ</ins>今般來航ニ付敬意ヲ表スルタメ同艦隊参謀長海軍大佐<ins>ルルー</ins>ヲ從ヘ本邦駐箚同國特命全權大使<ins>フェルナン、ジャン、マリー、ピラ</ins>同伴同大使館附海軍武官海軍大佐<ins>ロザテイ</ins>ト共ニ同日午前十一時三十分 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ(以下略)}}。
[[10月16日]]、イギリス海軍の重巡「[[ドーセットシャー (重巡洋艦)|ドーセットシャー]] (''{{lang|en|HMS Dorsetshire, 40}}'') 」が横浜港に到着する{{Sfn|海軍省年報、昭和10年|1937|pp=24b-25}}。横浜に、外国艦艇の乗組員があふれることになった{{Efn|三大海軍國 顔合せ {{smaller|水兵京濱に氾濫}}(横濱十六日電通)<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022069400|Shin Sekai Asahi Shinbun 1935.10.17、新世界朝日新聞/nws_19351017(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.3</ref> 十四日入港した米佛軍艦に引續き十六日朝英國一万トン巡洋艦トーセツシヤー號が入港はからずも三大海軍國の顔合せとなり、横濱は青い目の[[セーラー服|水兵服]]が氾濫海軍景気を現出してゐる(記事終わり)}}。10月28日、日本海軍の軽巡「[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]」が礼砲を発射したが、天候不良のためか「プリモゲ」は答礼しなかった<ref>[[#プリモゲ礼砲問題]] pp.3-4</ref>。


{{seealso|[[:fr:Histoire_de_la_marine_française_en_Indochine_de_1939_à_1945|1939~1945年に到る極東のフランス海軍の歴史]]}}
7月28日、「プリモゲ」は巡洋艦「[[シュフラン (重巡洋艦)|シュフラン]]」と交代となり、フランス本国へ向けて出発<ref>"French Light Cruisers: Part 3", p. 80, ''French Cruisers 1922-1956'', p. 173</ref>。コロンボ、[[ディエゴ・スアレス]]、[[ケープタウン]]、[[タコラディ]]、[[フリータウン]]を経て9月14日に[[ダカール]]着<ref>"French Light Cruisers: Part 3", pp. 80-81</ref>。この間に第二次世界大戦が勃発した。「プリモゲ」はダカールで入渠後、船団護衛やドイツ商船捜索に従事した<ref name=Guiglini(3)81>"French Light Cruisers: Part 3", p. 81</ref>。10月13日に「プリモゲ」はダカールより出航し、巡洋艦「[[デュゲイ・トルーアン (軽巡洋艦)|デュゲイ・トルーアン]]」と共にリュフィスク湾<!--Rufisque Bay-->で訓練を実施<ref name=Guiglini(3)81/>。その際、「プリモゲ」ではボイラー室で蒸気漏れが発生し、5名が死亡した<ref name=Guiglini(3)81/>。ダカールへ戻り、それから道中船団を護衛して10月28日に[[ロリアン]]着<ref name=Guiglini(3)81/>。同地で1940年2月5日まで整備改修が行われた<ref name=Guiglini(3)81/>。

「プリモゲ」は1937年9月7日にブレストより出航し、[[タンジェ]]<!--Tangiers-->を経て9月14日に[[トゥーロン]]着<ref name=Guiglini(3)79>"French Light Cruisers: Part 3", p. 79</ref>。復水器の不具合のため同地で入渠した後、10月4日に出航し、[[ビゼルト]]、[[ポートサイド]]、[[スエズ]]、[[ジブチ]]、[[アデン]]、[[コロンボ]]、[[ペナン]]を経由して<ref name=Guiglini(3)79/>11月16日に[[シンガポール]]へ入港た<ref>[https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/sin19371116-01.1.3 Hoji Shinbun Digital Collection、Singapōru Nippō, 1937.11.16、p.3、2023年8月2日閲覧] 〔 佛軍艦寄港 賑ふ軍港の秋 〕</ref>。11月21日サイゴンに着いた<ref name=Guiglini(3)79/><ref>''French Cruisers 1922-1956'', p. 173には1937年11月22日から極東配備、とある</ref>。12月、[[ブンタウ|Cap Saint-Jacques]]、[[カムラン]]を経て上海へ移動<ref name=Guiglini(3)80>"French Light Cruisers: Part 3", p. 80</ref>。1938年3月14日まで「プリモゲ」は上海にとどまり、それからChusan Archipelagoに赴いた<ref name=Guiglini(3)80/>。そのあとは上海に戻り、4月23日まで同地にあった<ref name=Guiglini(3)80/>。上海から出航すると、「プリモゲ」はChefoo、Chin-Wang-Tao、呉淞と訪れ、5月8日に上海に戻った<ref name=Guiglini(3)80/>。5月18日に「プリモゲ」は出航し、Chusan Archipelagoで姉妹艦「[[ラモット・ピケ (軽巡洋艦)|ラモット・ピケ]]と会ったあと香港へ向かった<ref name=Guiglini(3)80/>。香港では整備を行い、カムラン泊地を経て6月3日にサイゴン着<ref name=Guiglini(3)80/>。6月中旬から7月初めにかけて「プリモゲ」はカムラン、[[ダナン|トゥーラン]]、Along Bay、Norway Islands、トンキン、ハイフォン、Vanfong Bayを訪れた<ref name=Guiglini(3)80/>。しばらくサイゴンに滞在した後、Fort-Bayardを経て7月31日にAlong Bayで「ラモット・ピケ」と会い訓練を実施<ref>"French Light Cruisers: Part 3", pp. 63, 80</ref>。それから香港、上海、[[マニラ]]と訪れ、サイゴンに戻った<ref name=Guiglini(3)80/>。10月は初めはサイゴンにあり、その後は香港に滞在<ref name=Guiglini(3)80/>。トゥーランとカムランを経て11月4日にサイゴンに戻った<ref name=Guiglini(3)80/>。11月下旬からはFort-Bayard、ハイフォンと訪れ、Along Bayで「ラモット・ピケ」と会い、La Noix、Lan-Ha Bay、香港を訪れた<ref name=Guiglini(3)80/>。その後はしばらく上海に滞在し、1939年1月19日に同地を出発した{{Efn|ヂブチに到着 <small>謎の佛巡洋艦プ號</small><ref name="sin19390215p2">[https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/sin19390215-01.1.2 Hoji Shinbun Digital Collection、Singapōru Nippō, 1939.02.15、p.2、2023年8月2日閲覧]</ref>(十四日ヂブチ發ルーター)去る一月十九日何処に行くも分らず突如上海を出港した佛國巡洋艦プリモウゲ号は本日ヂブチに入港した 出港當時パリでは同艦が一年以上も東洋に居たことであるので本國へ歸還するのは豫定のことであり、西貢ヂブチに寄港する筈だと云はれてゐたところである(記事おわり)}}。1月24日、サイゴン着<ref name=Guiglini(3)80/>。

1939年1月30日、「プリモゲ」は近東のフランス権益保護に向かう<ref name=Guiglini(3)80/>。途中コロンボに寄港し<ref name=Guiglini(3)80/>、2月14日にジブチ着<ref name="sin19390215p2" />。マスカリ島<!--Maskali Island-->等の監視を行った<ref name=Guiglini(3)80/>。また、3月8-9日には通報艦「[[:en:French aviso D'Iberville|D'Iberville]]」、潜水艦「[[:en:French submarine Morse (1925)|Morse]]」、「[[:en:French submarine Souffleur (1924)|Souffleur]]」と訓練を行い、4月初めにはイランの皇太子を乗せた汽船「Mohamed Ali el Kebir」の護衛を行っている<ref name=Guiglini(3)80/>。4月25日に「プリモゲ」はジブチを離れ、コロンボを経由し、シンガポールで入渠して5月20日にサイゴンに着いた<ref name=Guiglini(3)80/>。

6月、「プリモゲ」は[[ニャチャン]]、カムラン、Port-Dayot、厦門、上海を訪れた<ref name=Guiglini(3)80/>。6月15日、フランス潜水艦「[[:en:French submarine Phénix (Q157)|フェニックス]] (''{{lang|fr|[[:fr:Phénix (Q157)|Phénix]]}}'') 」が演習中にカムラン湾で消息不明となると、「ラモット・ピケ」と「プリモゲ」はその捜索を行った{{Efn|遭難佛國潜水艦 {{smaller|乗組員七十一名}} 全く絶望(サイゴン十七日同盟)<ref>{{アジア歴史資料センター|J21022332600|Shin Sekai Asahi Shinbun 1939.06.20、新世界朝日新聞/nws_19390620(スタンフォード大学フーヴァー研究所)}} p.1</ref> 演習中浸没せるフランス潜水艦フエニツクス號の沈没箇所は十七日夕刻にいたり海上に多量の油が浮かべるのを發見捜査の結果カムラン灣沖で水深二百フイトのところなる事が漸く判明した、現場附近には極東艦隊所属の巡洋艦ラモツト・ピケゴー、同プリモーゲ號その他サイゴンより急行せる救助船數隻が警戒してゐるが、乗組員七十一名の運命は絶望視されてゐる、なほ[[フランス領インドシナ総督|佛印總督]][[ジョセフ・ジュール・ブレビエ|プレピエモ]]は十七日サイゴン發カムランへ急行した(記事おわり)}}。

7月28日、「プリモゲ」は巡洋艦「[[シュフラン (重巡洋艦)|シュフラン]]」と交代となり、フランス本国へ向けて出発<ref>"French Light Cruisers: Part 3", p. 80, ''French Cruisers 1922-1956'', p. 173</ref>。コロンボ、[[ディエゴ・スアレス]]、[[ケープタウン]]、[[タコラディ]]、[[フリータウン]]を経て9月14日に[[ダカール]]着<ref>"French Light Cruisers: Part 3", pp. 80-81</ref>。この間に第二次世界大戦が勃発した。

=== 第二次世界大戦 ===
「プリモゲ」はダカールで入渠後、船団護衛やドイツ商船捜索に従事した<ref name=Guiglini(3)81>"French Light Cruisers: Part 3", p. 81</ref>。10月13日に「プリモゲ」はダカールより出航し、巡洋艦「[[デュゲイ・トルーアン (軽巡洋艦)|デュゲイ・トルーアン]]」と共にリュフィスク湾<!--Rufisque Bay-->で訓練を実施<ref name=Guiglini(3)81/>。その際、「プリモゲ」ではボイラー室で蒸気漏れが発生し、5名が死亡した<ref name=Guiglini(3)81/>。ダカールへ戻り、それから道中船団を護衛して10月28日に[[ロリアン]]着<ref name=Guiglini(3)81/>。同地で1940年2月5日まで整備改修が行われた<ref name=Guiglini(3)81/>。


1940年2月、「プリモゲ」は[[キブロン湾]]で訓練を実施<ref name=Guiglini(3)81/>。3月2日にロリアンより出航し、[[ブレスト]]、[[カサブランカ]]を経て3月7日に[[オラン]]着<ref name=Guiglini(3)81/>。同地より巡洋艦「[[ラ・ガリソニエール (軽巡洋艦)|ラ・ガリソニエール]]」とともにモロッコ小銃兵を[[マルセイユ]]へ運び、それから「プリモゲ」は[[トゥーロン]]へ向かった<ref name=Guiglini(3)81/>。3月10日に戦艦「[[ブルターニュ (戦艦)|ブルターニュ]]」、巡洋艦「[[アルジェリー (重巡洋艦)|アルジェリー]]」などと共に出航してオランへ向かい、到着後「プリモゲ」はカサブランカへ向かって3月13日に着いた<ref name=Guiglini(3)81/>。3月後半は中立国商船の監視を行った<ref name=Guiglini(3)81/>。
1940年2月、「プリモゲ」は[[キブロン湾]]で訓練を実施<ref name=Guiglini(3)81/>。3月2日にロリアンより出航し、[[ブレスト]]、[[カサブランカ]]を経て3月7日に[[オラン]]着<ref name=Guiglini(3)81/>。同地より巡洋艦「[[ラ・ガリソニエール (軽巡洋艦)|ラ・ガリソニエール]]」とともにモロッコ小銃兵を[[マルセイユ]]へ運び、それから「プリモゲ」は[[トゥーロン]]へ向かった<ref name=Guiglini(3)81/>。3月10日に戦艦「[[ブルターニュ (戦艦)|ブルターニュ]]」、巡洋艦「[[アルジェリー (重巡洋艦)|アルジェリー]]」などと共に出航してオランへ向かい、到着後「プリモゲ」はカサブランカへ向かって3月13日に着いた<ref name=Guiglini(3)81/>。3月後半は中立国商船の監視を行った<ref name=Guiglini(3)81/>。


4月1日、「プリモゲ」は巡洋艦「[[ジャンヌ・ダルク (軽巡洋艦)|ジャンヌ・ダルク]]」と交代するためカサブランカより[[マルティニーク]]へ向け出航<ref name=Guiglini(3)81/>。途中、3日にノルウェーのタンカー「Protée」を拿捕し、4月10日に[[フォール=ド=フランス]]に着いた<ref>"French Light Cruisers: Part 3", pp. 81-82</ref>。「プリモゲ」の任務はカリブ海での船舶の監視で、4月後半には20隻ほどの船を停船させ、ノルウェー船「Gudvor」と「Gornes」をフォール=ド=フランスへ送った<ref name=Guiglini(3)82>"French Light Cruisers: Part 3", p. 82</ref>。5月はオランダ領内のドイツ船の監視を実施<ref name=Guiglini(3)82/>。10日にドイツが低地諸国へ侵攻すると「プリモゲ」は[[アルバ|アルバ湾]]に入り、オイルタンクに対する破壊活動防止のため陸戦隊を派遣した<ref name=Guiglini(3)82/>。
4月1日、「プリモゲ」は巡洋艦「[[ジャンヌ・ダルク (軽巡洋艦)|ジャンヌ・ダルク]]」と交代するためカサブランカより[[マルティニーク]]へ向け出航<ref name=Guiglini(3)81/>。途中、3日にノルウェーのタンカー「Protée」を拿捕し、4月10日に[[フォール=ド=フランス]]に着いた<ref>"French Light Cruisers: Part 3", pp. 81-82</ref>。「プリモゲ」の任務はカリブ海での船舶の監視で、4月後半には20隻ほどの船を停船させ、ノルウェー船「Gudvor」と「Gornes」をフォール=ド=フランスへ送った<ref name=Guiglini(3)82>"French Light Cruisers: Part 3", p. 82</ref>。5月はオランダ領内のドイツ船の監視を実施<ref name=Guiglini(3)82/>。10日にドイツが低地諸国へ侵攻すると「プリモゲ」は[[アルバ|アルバ湾]]に入り、オイルタンクに対する破壊活動防止のため陸戦隊を派遣した<ref name=Guiglini(3)82/>。
5月16日にフォール=ド=フランスに戻り、6月3日に同地を発って[[ポートオブスペイン]]、ダカール、カサブランカを経て6月19日に[[ジロンド川]]に着いた<ref name=Guiglini(3)82/>。
<!--
1940年(昭和15年)5月、[[西部戦線_(第二次世界大戦)|西部戦線]]で[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|連合軍は大敗]]した。[[オランダ]]が[[オランダにおける戦い_(1940年)|降伏すると]]、プリモゲは[[西インド諸島]]の[[オランダ領アンティル|オランダ植民地]]の平定任務に従事した{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=129}}。
-->
「プリモゲ」は5月16日にフォール=ド=フランスに戻り、6月3日に同地を発って[[ポートオブスペイン]]、ダカール、カサブランカを経て6月19日に[[ジロンド川]]に着いた<ref name=Guiglini(3)82/>。


6月20日、触雷した汽船「Mexque」を救援<ref name=Guiglini(3)82/>。6月22日には「プリモゲ」は爆撃を受けたが命中はしなかった<ref>"French Light Cruisers: Part 3", pp. 82-83</ref>。「プリモゲ」は[[ロワイヤン]]で6月23日に金15トンやプラチナ、フランスの紙幣を積み、それらをカサブランカへ運んだ<ref>"French Light Cruisers: Part 3", p. 83, ''French Cruisers 1922-1956'', p. 182</ref>。
6月20日、触雷した汽船「Mexque」を救援<ref name=Guiglini(3)82/>。6月22日には「プリモゲ」は爆撃を受けたが命中はしなかった<ref>"French Light Cruisers: Part 3", pp. 82-83</ref>。「プリモゲ」は[[ロワイヤン]]で6月23日に金15トンやプラチナ、フランスの紙幣を積み、それらをカサブランカへ運んだ<ref>"French Light Cruisers: Part 3", p. 83, ''French Cruisers 1922-1956'', p. 182</ref>。


6月22日に[[独仏休戦協定]]と{{仮リンク|ヴィラ・インサーチ協定|en|Franco-Italian_Armistice|it|Armistizio_di_Villa_Incisa}}が結ばれて、フランスは[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]と[[イタリア王国]]に事実上降伏した。[[ヴィシー政権|ヴィシー・フランス]]が成立したが、同時に[[自由フランス軍]]も発足した。「プリモゲ」は[[:fr:Armée_d%27armistice|ヴィシー軍]]に残る{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=129}}。
6月22日に[[独仏休戦協定]]と{{仮リンク|ヴィラ・インサーチ協定|en|Franco-Italian_Armistice|it|Armistizio_di_Villa_Incisa}}が結ばれて、フランスは[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]と[[イタリア王国]]に事実上降伏した。[[ヴィシー政権|ヴィシー・フランス]]が成立したが、同時に[[自由フランス軍]]も発足した。「プリモゲ」は[[:fr:Armée_d%27armistice|ヴィシー軍]]に残る{{Sfn|イカロス、世界の巡洋艦|2018|p=129}}。

{{seealso|ダカール沖海戦}}


[[フランス領チャド|チャド]]、[[:en:French Cameroon|カメルーン]]、[[フランス領コンゴ|コンゴ]]が自由フランス側につくと、「プリモゲ」はスループ「La Surprise」、「Gazelle」、油槽船「Tarn」とともに9月4日にカサブランカからダカールへ向かい、9月9日に着いた<ref>''French Cruisers 1922-1956'', p. 184</ref>。また、巡洋艦3隻と大型駆逐艦3隻からなるY部隊がトゥーロンからダカールへ向かった<ref>''French Cruisers 1922-1956'', pp. 184-185</ref>。「プリモゲ」はY部隊指揮官の指揮下に入り、後続のY部隊へ給油を行う予定の「Tarn」とともに9月14日に[[リーブルヴィル]]へ向けて出発したが、2隻は9月19日にイギリス巡洋艦「[[コーンウォール (重巡洋艦)|コーンウォール]]」、「デリー」に捕捉されてカサブランカへ戻るよう命じられ、Y部隊指揮官の命令により2隻はカサブランカに戻った<ref>"French Light Cruisers: Part 3", p. 83, ''French Cruisers 1922-1956'', p. 185</ref>。
[[フランス領チャド|チャド]]、[[:en:French Cameroon|カメルーン]]、[[フランス領コンゴ|コンゴ]]が自由フランス側につくと、「プリモゲ」はスループ「La Surprise」、「Gazelle」、油槽船「Tarn」とともに9月4日にカサブランカからダカールへ向かい、9月9日に着いた<ref>''French Cruisers 1922-1956'', p. 184</ref>。また、巡洋艦3隻と大型駆逐艦3隻からなるY部隊がトゥーロンからダカールへ向かった<ref>''French Cruisers 1922-1956'', pp. 184-185</ref>。「プリモゲ」はY部隊指揮官の指揮下に入り、後続のY部隊へ給油を行う予定の「Tarn」とともに9月14日に[[リーブルヴィル]]へ向けて出発したが、2隻は9月19日にイギリス巡洋艦「[[コーンウォール (重巡洋艦)|コーンウォール]]」、「デリー」に捕捉されてカサブランカへ戻るよう命じられ、Y部隊指揮官の命令により2隻はカサブランカに戻った<ref>"French Light Cruisers: Part 3", p. 83, ''French Cruisers 1922-1956'', p. 185</ref>。
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11月中旬、水雷艇や潜水艦と演習を実施<ref name=Guiglini(3)83>"French Light Cruisers: Part 3", p. 83</ref>。その際、[[アガディール]]に滞在している<ref name=Guiglini(3)83/>。12月上旬、「プリモゲ」は30億ドル相当の金のインゴットをダカールからカサブランカへ運んだ<ref name=Guiglini(3)83/>。その後は数度の訓練及び後述の1941年4月中旬の出来事を除き、「プリモゲ」は1941年10月27日に離れるまでカサブランカにとどまった<ref name=Guiglini(3)83/>。4月12日、「プリモゲ」と駆逐艦「シムーン」、「フロンデュール」に支援された駆逐艦「[[アルバトロス (大型駆逐艦)|アルバトロス]]」が、イギリス海軍に拿捕されたバナナ運搬船「Fort-de-France」<ref>''French Cruisers 1922-1956''ではハイフンなし</ref>を奪還した<ref name=Guiglini(3)83/>。「プリモゲ」は11月2日から11月17日までダカールでドック入りし、続いてカサブランカで1942年3月15日まで大規模な改修がなされた<ref>"French Light Cruisers: Part 3", p. 83, ''French Cruisers 1922-1956'', p. 189</ref>。4月19日、カサブランカで第2軽戦隊が編成され、「プリモゲ」は同戦隊旗艦となった<ref name=Jordan189>''French Cruisers 1922-1956'', p. 189</ref>。9月までは時々訓練を行うのみで、10月4日から再び改修に入った<ref>"French Light Cruisers: Part 3", p. 84, ''French Cruisers 1922-1956'', p. 189</ref>。その完了は11月25日の予定であったが<ref name=Guiglini(3)84>"French Light Cruisers: Part 3", p. 84</ref>、その前にアメリカ軍が来襲した。
11月中旬、水雷艇や潜水艦と演習を実施<ref name=Guiglini(3)83>"French Light Cruisers: Part 3", p. 83</ref>。その際、[[アガディール]]に滞在している<ref name=Guiglini(3)83/>。12月上旬、「プリモゲ」は30億ドル相当の金のインゴットをダカールからカサブランカへ運んだ<ref name=Guiglini(3)83/>。その後は数度の訓練及び後述の1941年4月中旬の出来事を除き、「プリモゲ」は1941年10月27日に離れるまでカサブランカにとどまった<ref name=Guiglini(3)83/>。4月12日、「プリモゲ」と駆逐艦「シムーン」、「フロンデュール」に支援された駆逐艦「[[アルバトロス (大型駆逐艦)|アルバトロス]]」が、イギリス海軍に拿捕されたバナナ運搬船「Fort-de-France」<ref>''French Cruisers 1922-1956''ではハイフンなし</ref>を奪還した<ref name=Guiglini(3)83/>。「プリモゲ」は11月2日から11月17日までダカールでドック入りし、続いてカサブランカで1942年3月15日まで大規模な改修がなされた<ref>"French Light Cruisers: Part 3", p. 83, ''French Cruisers 1922-1956'', p. 189</ref>。4月19日、カサブランカで第2軽戦隊が編成され、「プリモゲ」は同戦隊旗艦となった<ref name=Jordan189>''French Cruisers 1922-1956'', p. 189</ref>。9月までは時々訓練を行うのみで、10月4日から再び改修に入った<ref>"French Light Cruisers: Part 3", p. 84, ''French Cruisers 1922-1956'', p. 189</ref>。その完了は11月25日の予定であったが<ref name=Guiglini(3)84>"French Light Cruisers: Part 3", p. 84</ref>、その前にアメリカ軍が来襲した。


{{seealso|カサブランカ沖海戦}}
1942年11月8日、連合国軍はモロッコとアルジェリアへの上陸を実行([[トーチ作戦]])。カサブランカ付近ではアメリカ海軍第34.1任務群(戦艦「[[マサチューセッツ (戦艦)|マサチューセッツ]]」、重巡洋艦「[[ウィチタ (重巡洋艦)|ウィチタ]]」、「[[タスカルーサ (重巡洋艦)|タスカルーサ]]」他)、第34.9任務群(重巡洋艦「[[オーガスタ (重巡洋艦)|オーガスタ]]」、軽巡洋艦「[[ブルックリン (軽巡洋艦)|ブルックリン]]」他)、第34.2任務群 (空母「[[レンジャー (CV-4)|レンジャー]]」他)とフランス軍との間で戦闘([[カサブランカ沖海戦]])が生起した。


1942年11月8日、連合国軍はモロッコとアルジェリアへの上陸を実行([[トーチ作戦]])。カサブランカ付近ではアメリカ海軍第34.1任務群(戦艦「[[マサチューセッツ (戦艦)|マサチューセッツ]]」、重巡洋艦「[[ウィチタ (重巡洋艦)|ウィチタ]]」、「[[タスカルーサ (重巡洋艦)|タスカルーサ]]」他)、第34.9任務群(重巡洋艦「[[オーガスタ (重巡洋艦)|オーガスタ]]」、軽巡洋艦「[[ブルックリン (軽巡洋艦)|ブルックリン]]」他)、第34.2任務群 (空母「[[レンジャー (CV-4)|レンジャー]]」他)とフランス軍との間で戦闘が生起した。
「プリモゲ」は第2軽戦隊の大型駆逐艦2隻、駆逐艦5隻の出撃より遅れて10時<ref>''French Cruisers 1922-1956''と''Torch''では時刻に1時間のずれがあり、''Torch''では9時。以下、時刻は''French Cruisers 1922-1956''の方に合わせる。</ref>頃に出撃<ref name=Jordan189/>。10時15分に大型駆逐艦「[[ミラン (大型駆逐艦)|ミラン]]」、「[[アルバトロス (大型駆逐艦)|アルバトロス]]」などと合流し、10時35分に「マサチューセッツ」に対して砲撃を開始した<ref>''French Cruisers 1922-1956'', p. 189, ''Torch'', THE NAVAL BATTLE OF CASABLANCA, The 2nd Light Squadron Sorties: 0815</ref>。11時20分、「プリモゲ」は艦首、中央部、ミリタリーマストに被弾したが、すべて不発であった<ref name=Jordan189他>''French Cruisers 1922-1956'', p. 189, ''Torch'', THE NAVAL BATTLE OF CASABLANCA, The Decisive Phase: 1000–1130</ref>。これは「ブルックリン」ないし、「ブルックリン」と駆逐艦1隻によるものと思われる<ref name=OHara1>''Torch'', THE NAVAL BATTLE OF CASABLANCA, The Decisive Phase: 1000–1130</ref>。11時45分、「プリモゲ」艦尾付近に至近弾があり、2名が死亡し、若干の浸水が生じた<ref name=Jordan189他/>。11時57分、「プリモゲ」は「マサチューセッツ」に命中弾を与え、小火災を発生させた<ref name=Jordan189他/>。12時30分、「プリモゲ」はボイラー室に被弾<ref name=Jordan189/>。これはおそらく「タスカルーサ」からのもので、不発ではあったがボイラー1基を破壊し、「プリモゲ」の速力は4ノット低下した<ref name=OHara1/>。12時40分、[[SBD (航空機)|SBDドーントレス]]5機による「プリモゲ」攻撃で、500ポンド爆弾1発が命中した<ref name=Jordan189他/>。その後、「プリモゲ」はカサブランカに戻った<ref name=Jordan189/>。


「プリモゲ」は第2軽戦隊の大型駆逐艦2隻、駆逐艦5隻の出撃より遅れて10時<ref>''French Cruisers 1922-1956''と''Torch''では時刻に1時間のずれがあり、''Torch''では9時。以下、時刻は''French Cruisers 1922-1956''の方に合わせる。</ref>頃に出撃<ref name=Jordan189/>。10時15分に大型駆逐艦「[[ミラン (大型駆逐艦)|ミラン]]」、「[[アルバトロス (大型駆逐艦)|アルバトロス]]」などと合流し、10時35分に「マサチューセッツ」に対して砲撃を開始した<ref>''French Cruisers 1922-1956'', p. 189, ''Torch'', THE NAVAL BATTLE OF CASABLANCA, The 2nd Light Squadron Sorties: 0815</ref>。11時20分、「プリモゲ」は艦首、中央部、ミリタリーマストに被弾したが、すべて不発であった<ref name=Jordan189他>''French Cruisers 1922-1956'', p. 189, ''Torch'', THE NAVAL BATTLE OF CASABLANCA, The Decisive Phase: 1000–1130</ref>。これは「ブルックリン」ないし、「ブルックリン」と駆逐艦1隻によるものと思われる<ref name=OHara1>''Torch'', THE NAVAL BATTLE OF CASABLANCA, The Decisive Phase: 1000–1130</ref>。11時45分、「プリモゲ」艦尾付近に至近弾があり、2名が死亡し、若干の浸水が生じた<ref name=Jordan189他/>。11時57分、「プリモゲ」は「マサチューセッツ」に命中弾を与え、小火災を発生させた<ref name=Jordan189他/>。12時30分、「プリモゲ」はボイラー室に被弾<ref name=Jordan189/>。これはおそらく「タスカルーサ」からのもので、不発ではあったがボイラー1基を破壊し、「プリモゲ」の速力は4ノット低下した<ref name=OHara1/>。またカサブランカに停泊中のフランス戦艦「[[ジャン・バール_(戦艦・2代)|ジャン・バール]]」を攻撃していた米空母部隊の艦上機が今度は連合軍上陸部隊を守るために「プリモゲ」などを攻撃する{{Sfn|第二次大戦のSBD部隊と戦歴|2003|pp=82-84}}。[[F4F (航空機)|F4Fワイルドキャット戦闘機]]が機銃掃射をおこなったあと、「レンジャー」の[[SBD (航空機)|SBDドーントレス急降下爆撃機]]([[:en:VFA-14|第41偵察飛行隊]]、VS-41)と、「[[スワニー_(護衛空母)|スワニー]]」の[[TBF_(航空機)|TBFアヴェンジャー雷撃機]](第27偵察飛行隊、VSG-27)がフランス艦隊を襲撃した{{Sfn|第二次大戦のSBD部隊と戦歴|2003|pp=82-84}}。12時40分、ドーントレス5機による「プリモゲ」攻撃で、500ポンド爆弾1発が命中した<ref name=Jordan189他/>。その後、「プリモゲ」はカサブランカに戻った<ref name=Jordan189/>。
14時40分、SBDドーントレス9機による攻撃で少なくとも3発の爆弾が命中<ref name=Jordan189/>。艦橋への被弾もあり、艦長Mercier大佐などが戦死した<ref>"French Light Cruisers: Part 3", p. 85, ''French Cruisers 1922-1956'', p. 189</ref>。15時44分から「ウィチタ」と「タスカルーサ」が「プリモゲ」を砲撃したが、命中弾はなかった<ref>''Torch'', THE NAVAL BATTLE OF CASABLANCA, Battle’s End</ref>。または、そのころ砲弾1発を被弾<ref name=Jordan189/>。16時50分に「プリモゲ」は再度空襲を受け、艦橋に被弾した<ref name=Jordan189/>。その後、「プリモゲ」は擱座し、一晩中燃え続けた<ref name=Jordan189/>。

第41偵察飛行隊(レンジャー搭載部隊)などのSBDドーントレスは、ひきつづきカサブランカのフランス艦隊や砲台を攻撃した{{Sfn|第二次大戦のSBD部隊と戦歴|2003|pp=82-84}}。14時40分、SBDドーントレス9機による攻撃で少なくとも3発の爆弾が命中<ref name=Jordan189/>。艦橋への被弾もあり、艦長Mercier大佐などが戦死した<ref>"French Light Cruisers: Part 3", p. 85, ''French Cruisers 1922-1956'', p. 189</ref>。15時44分から「ウィチタ」と「タスカルーサ」が「プリモゲ」を砲撃したが、命中弾はなかった<ref>''Torch'', THE NAVAL BATTLE OF CASABLANCA, Battle’s End</ref>。または、そのころ砲弾1発を被弾<ref name=Jordan189/>。16時50分に「プリモゲ」は再度空襲を受け、艦橋に被弾した<ref name=Jordan189/>。その後、「プリモゲ」は擱座し、一晩中燃え続けた<ref name=Jordan189/>。


「プリモゲ」の残骸は1951年に売却され、解体された<ref name=Jordan189/>。
「プリモゲ」の残骸は1951年に売却され、解体された<ref name=Jordan189/>。

==脚注==
==脚注==
=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<!-- 著者五十音順 -->
<!-- 著者五十音順 -->
* <!-- ティルマン2003 -->{{Cite book|和書|author=バレット・ティルマン|coauthors=|others=富成太郎 訳 |date=2003-08|chapter=|title=第二次大戦のSBDドーントレス部隊と戦歴 {{lang|en|SBD Dauntless Units of World War 2}}|publisher=株式会社大日本絵画|series=オスプレイ軍用機シリーズ36|isbn=4-499-22815-8|ref={{SfnRef|第二次大戦のSBD部隊と戦歴|2003}}}}
* <!-- フクイ1994-06 -->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|editor=阿部安雄、戸高一成|date=1994-06|title={{smaller|福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想}} 第八巻 世界巡洋艦物語|chapter=|publisher=[[光人社]]|isbn=4-7698-0656-6|ref={{SfnRef|福井、世界巡洋艦物語|1994}}}}
* <!-- フクイ1994-06 -->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|editor=阿部安雄、戸高一成|date=1994-06|title={{smaller|福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想}} 第八巻 世界巡洋艦物語|chapter=|publisher=[[光人社]]|isbn=4-7698-0656-6|ref={{SfnRef|福井、世界巡洋艦物語|1994}}}}
* <!-- モトヨシタカシ2018 -->{{Cite book|和書|author1=本吉隆(著)|author2=田村紀雄、吉原幹也(図版)|date=2018-12|chapter=フランスの巡洋艦|title=第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド|publisher=イカロス出版株式会社|series=|isbn=978-4-8022-0627-3|ref={{SfnRef|イカロス、世界の巡洋艦|2018}}}}
* <!-- モトヨシタカシ2018 -->{{Cite book|和書|author1=本吉隆(著)|author2=田村紀雄、吉原幹也(図版)|date=2018-12|chapter=フランスの巡洋艦|title=第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド|publisher=イカロス出版株式会社|series=|isbn=978-4-8022-0627-3|ref={{SfnRef|イカロス、世界の巡洋艦|2018}}}}
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*[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]
*[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]
**{{Citation |和書|author1=海軍大臣官房|editor=|date=1935-06|title=昭和八年 海軍省年報 第五十九回 {{smaller|昭和十年六月刊行}}|chapter=|publisher=海軍大臣官房|url={{NDLDC|1367018}}|ref={{SfnRef|海軍省年報、昭和8年|1935}}}}
** {{Citation |和書|author1=海軍大臣官房|editor=|date=1936-06|title=昭和九年 海軍省年報 第六十囘 {{smaller|昭和十一年六月刊行}}|chapter=|publisher=海軍省|url={{NDLDC|1367019}}|ref={{SfnRef|海軍省年報、昭和9年|1936}}}}
**{{Citation |和書|author1=海軍大臣官房|editor=|date=1937-05|title=昭和十年 海軍省年報 第六十一囘 {{smaller|昭和十二年五月刊行}}|chapter=|publisher=海軍大臣官房|url={{NDLDC|1271197}}|ref={{SfnRef|海軍省年報、昭和10年|1937}}}}
** {{Citation |和書|author=海軍研究社編輯部 編|date=1935-05|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版|url={{NDLDC|1109500}}|publisher=海軍研究社|ref={{SfnRef|ポケット海軍年鑑|1935}}}}
** {{Citation |和書|author=海軍研究社編輯部 編|date=1935-05|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版|url={{NDLDC|1109500}}|publisher=海軍研究社|ref={{SfnRef|ポケット海軍年鑑|1935}}}}
** {{Citation |和書|author=海軍研究社編輯部 編|date=1937-02|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版|url={{NDLDC|1231209}}|publisher=海軍研究社|ref={{SfnRef|ポケット海軍年鑑|1937}}}}
** {{Citation |和書|author=海軍研究社編輯部 編|date=1937-02|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版|url={{NDLDC|1231209}}|publisher=海軍研究社|ref={{SfnRef|ポケット海軍年鑑|1937}}}}
** {{Citation |和書|author={{smaller|財団法人}}有終会 編|editor=|date=1927-09|title=海軍及海事要覧 昭和二年版|chapter=|publisher=有終会|url={{NDLDC|1188179}}|ref={{SfnRef|海軍及海事要覧、昭和2年版|1927}}}}
** {{Citation |和書|author=世界軍備研究会(編)|editor=|date=1935-06|title=世界海軍大写真帖|chapter=|publisher=帝国軍備研究社|url={{NDLDC|1465596}}|ref={{SfnRef|世界海軍大写真帖|1935}}}}
** {{Citation |和書|author=世界軍備研究会(編)|editor=|date=1935-06|title=世界海軍大写真帖|chapter=|publisher=帝国軍備研究社|url={{NDLDC|1465596}}|ref={{SfnRef|世界海軍大写真帖|1935}}}}
** {{Citation |和書|author=竹下勇(監修者)|editor=|date=1938-06|title=東郷元帥読本|chapter=|publisher=愛之事業者|url={{NDLDC|1112506}}|ref={{SfnRef|東郷元帥読本|1938}}}}
** {{Citation |和書|author=竹下勇(監修者)|editor=|date=1938-06|title=東郷元帥読本|chapter=|publisher=愛之事業者|url={{NDLDC|1112506}}|ref={{SfnRef|東郷元帥読本|1938}}}}


* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**{{Cite book|和書|id=Ref.A10113035900|title=「仏国極東艦隊司令官海軍少将ジャン、ジャック、ストック外三名叙勲ノ件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.、叙勲裁可書・昭和二年・叙勲巻六・外国人(国立公文書館)|ref=ストック外三名叙勲}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.A10110768400|title=中華民国政府並海軍代表者参列○在京米国大使大統領ノ名代トシテ参列○満洲国吉林省官憲ノ表弔振○北平ニ於ケル表弔振|ref=代表者参列}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.A10110768400|title=中華民国政府並海軍代表者参列○在京米国大使大統領ノ名代トシテ参列○満洲国吉林省官憲ノ表弔振○北平ニ於ケル表弔振|ref=代表者参列}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.A10110768800|title=故元帥海軍大将東郷平八郎葬儀書類 二止・昭和九年|ref=東郷元帥葬儀書類}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.A10110768800|title=故元帥海軍大将東郷平八郎葬儀書類 二止・昭和九年|ref=東郷元帥葬儀書類}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C01003766700|title=「仏国軍艦「プリモーゲ」来航に関する件」、密大日記 6冊の内 第4冊 昭和2年(防衛省防衛研究所)|ref=S2、密大、プリモゲ来航}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C04015610700|title=「仏国極東艦隊プリモーゲ.ジュール.ミシュレ本邦来航の件」、公文備考 艦船3 巻32(防衛省防衛研究所)|ref=S2、公文備考 艦船3巻32}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C04015610800|title=「仏国軍艦「プリモーゲ」来航に関する件」、公文備考 艦船3 巻32(防衛省防衛研究所)|ref=S2、プリモーゲ来航}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C04015610900|title=「仏国軍艦本邦沿海巡航に関する件」、公文備考 艦船3 巻32(防衛省防衛研究所)|ref=仏軍艦本邦沿海巡航}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C04015611100|title=「仏国極東艦隊乗員歓迎に関する件」、公文備考 艦船3 巻32(防衛省防衛研究所)|ref=S2、仏極東艦隊歓迎}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C04015611200|title=「外国軍艦入港の件」、公文備考 艦船3 巻32(防衛省防衛研究所)|ref=S2、外国軍艦入港}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C05022740500|title=「官房第1350号 8.3.30 仏国巡洋艦「プリモーゲー」本邦来航に関する件」、公文備考 D巻4 外事 海軍大臣官房記録 昭和8(防衛省防衛研究所)|ref=S8、官房1350号}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C05022740600|title=「官房第2319号 8.5.23 仏国巡洋艦「プリモーゲー」本邦寄港日程変更の件」、公文備考 D巻4 外事 海軍大臣官房記録 昭和8(防衛省防衛研究所)|ref=S8、官房2319号}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C05022740900|title=「官房第3665号 8.8.11 仏国軍艦「プリモーゲー」及「デュモン・デュルヴィル」本邦寄港に関する件」、公文備考 D巻4 外事 海軍大臣官房記録 昭和8(防衛省防衛研究所)|ref=S8、官房3665号}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C05022741000|title=「官房第3245号 8.7.11 仏国軍艦「プリモーゲー」及「タユール」本邦来航に関する件」、公文備考 D巻4 外事 海軍大臣官房記録 昭和8(防衛省防衛研究所)|ref=S8、官房3245号}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C05034180100|title=「第3680号 10.9.4 仏国軍艦「プリモ-ゲ」の本邦寄港に関する件」、公文備考 昭和10年 D 外事 巻11(防衛省防衛研究所)|ref=S10.第3680号プリモゲ寄港}}
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== 関連項目 ==
* [[ヴィシー政権]]


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プリモゲ
プリモゲ、1940年撮影。
プリモゲ、1940年撮影。
基本情報
建造所 ブレスト工廠
運用者  フランス海軍
艦種 軽巡洋艦
級名 デュゲイ・トルーアン級
艦歴
起工 1923年8月16日
進水 1924年5月21日
竣工 1926年9月1日
最期 1942年11月8日カサブランカで攻撃を受け大破擱座し放棄
要目
基準排水量 7,249 トン
長さ 181.6 m
17.2 m
速力 33ノット
兵装 55口径15.5cm連装砲4基
3連装魚雷発射管4基
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プリモゲ (Primauguet) はフランス海軍軽巡洋艦[注釈 1]デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦の3番艦[2][注釈 2]第一次世界大戦後にブレスト工廠で建造された[注釈 3]。 艦名は、Battle of Saint-Mathieuで戦死したフランス海軍のHervé de Portzmoguerのあだ名[5]。1934年6月5日東郷元帥国葬に参列した[6]第二次世界大戦でフランスが破れ、ヴィシー政権が成立すると、ヴィシー軍(休戦軍)に所属した[7]。1942年11月8日、トーチ作戦に伴いカサブランカに来襲した連合国軍の艦隊と交戦し[注釈 4]、擱坐したのち放棄された[8]カサブランカ沖海戦)。

艦歴

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戦間期

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第一次世界大戦後、フランス海軍オマハ級軽巡洋艦アメリカ海軍)を意識しつつ建造した巡洋艦が、デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦である[8]。 3隻が計画され、2隻(デュゲイ・トルーアン、プリモゲ)がブレスト工廠で、1隻がロリアン海軍工廠で建造された[8][注釈 5]。 「プリモゲ」は1923年(大正12年)8月16日に起工[7]。1924年(大正13年)5月21日に進水[7]。1926年(大正15年)9月1日に竣工した[7]

「プリモゲ」は東まわりで世界一周の航海に出た[注釈 6]。 1927年(昭和2年)9月30日、フランス極東艦隊旗艦(ジャン・ジャック・ストック少将)プリモゲは[11]大日本帝国横浜港に入港した[12]。 10月6日、フランス海軍の装甲巡洋艦「ジュール・ミシュレ (Jules Michelet) 」も横浜に入港し[13]、ストック少将は将旗を「プリモゲ」から「ジュール・ミシュレ」に移した[14]。 同6日、フランス大使とプリモゲの将校2名が乗用車でドライブ中、鎌倉市で暴漢二人に襲われ、士官が負傷した[注釈 7]。 10月7日、「プリモゲ」は横浜を出発する[16]。10月17日、ハワイ島に到着した[17]ホノルルに滞在したあと、サンフランシスコにむかった[18]

1933年(昭和8年)4月から8月にかけて、「プリモゲ」は日本の長崎、神戸、敦賀など各地を訪問する[19]。門司では出港直後に民間船と衝突して相手を沈没させたが、日本人5名を救助せずに別府に向かうなど、小事故や事件の多い訪日であった[20]

1934年(昭和9年)5月30日日本海軍東郷平八郎元帥が死去し[21]6月5日国葬がおこなわれる[22]。列強各国はアジア方面に配置していた巡洋艦と、艦隊司令官(司令長官)を大日本帝国に派遣することにした[23][24]イギリスは重巡「サフォーク (HMS Suffolk, 55) 」、アメリカ合衆国は重巡「オーガスタ (USS Augusta, CA-31) 」、イタリア王国は巡洋艦「クアルト (Esploratore Quarto) 」、中華民国巡洋艦寧海」を派遣する[6][注釈 8]。フランスが派遣したのが、本艦だった[26]。 6月4日、極東艦隊の「プリモゲ」は横浜港に入港[注釈 9]5日東郷平八郎元帥国葬に参列し[28]、日本艦や招待艦などと共に半旗を掲げ弔砲を発射した[注釈 10]。国葬後の6日、横須賀鎮守府司令長官永野修身大将(接伴委員長)は、各国司令長官や将星をホテルニューグランドでの午餐会に招待した[注釈 11]。 6月21日、極東艦隊司令長官のリシャール少将と、艦隊参謀長兼プリモゲ艦長のルルー大佐は、昭和天皇に拝謁した[注釈 12]。そしてリシャール少将は勲二等瑞宝章、ルルー大佐は勲三等瑞宝章の叙勲を受けた[32]。その後、「プリモゲ」は神戸、宮島、別府を経由して日本を離れる[27]。間もなく機関修理とタービン検査のため再来日し、三菱重工業長崎造船所に入渠することになった[33]。8月31日[34]から10月16日[35]まで長崎滞在、10月18日[36]から29日[37]まで横浜に寄港した[27]

1935年(昭和10年)8月上旬から10月末にかけて、「プリモゲ」は日本列島の各地に立ち寄った[38][注釈 13]10月14日[45]、「プリモゲ」は横浜港に入港する[46]。同14日、フィリピン大統領就任式およびフィリピン連邦始政式[47]に参加するため陸軍長官などを乗せて太平洋を横断してきたアメリカ海軍の重巡「チェスター (USS Chester, CA-27) 」も、横浜に到着した[46]15日ダーン合衆国陸軍長官と、フランス極東艦隊司令長官は[48]昭和天皇に拝謁した[49][注釈 14]10月16日、イギリス海軍の重巡「ドーセットシャー (HMS Dorsetshire, 40) 」が横浜港に到着する[46]。横浜に、外国艦艇の乗組員があふれることになった[注釈 15]。10月28日、日本海軍の軽巡「木曾」が礼砲を発射したが、天候不良のためか「プリモゲ」は答礼しなかった[52]

「プリモゲ」は1937年9月7日にブレストより出航し、タンジェを経て9月14日にトゥーロン[53]。復水器の不具合のため同地で入渠した後、10月4日に出航し、ビゼルトポートサイドスエズジブチアデンコロンボペナンを経由して[53]、11月16日にシンガポールへ入港した[54]。11月21日、サイゴンに着いた[53][55]。12月、Cap Saint-Jacquesカムランを経て上海へ移動[56]。1938年3月14日まで「プリモゲ」は上海にとどまり、それからChusan Archipelagoに赴いた[56]。そのあとは上海に戻り、4月23日まで同地にあった[56]。上海から出航すると、「プリモゲ」はChefoo、Chin-Wang-Tao、呉淞と訪れ、5月8日に上海に戻った[56]。5月18日に「プリモゲ」は出航し、Chusan Archipelagoで姉妹艦「ラモット・ピケ」と会ったあと香港へ向かった[56]。香港では整備を行い、カムラン泊地を経て6月3日にサイゴン着[56]。6月中旬から7月初めにかけて「プリモゲ」はカムラン、トゥーラン、Along Bay、Norway Islands、トンキン、ハイフォン、Vanfong Bayを訪れた[56]。しばらくサイゴンに滞在した後、Fort-Bayardを経て7月31日にAlong Bayで「ラモット・ピケ」と会い訓練を実施[57]。それから香港、上海、マニラと訪れ、サイゴンに戻った[56]。10月は初めはサイゴンにあり、その後は香港に滞在[56]。トゥーランとカムランを経て11月4日にサイゴンに戻った[56]。11月下旬からはFort-Bayard、ハイフォンと訪れ、Along Bayで「ラモット・ピケ」と会い、La Noix、Lan-Ha Bay、香港を訪れた[56]。その後はしばらく上海に滞在し、1939年1月19日に同地を出発した[注釈 16]。1月24日、サイゴン着[56]

1939年1月30日、「プリモゲ」は近東のフランス権益保護に向かう[56]。途中コロンボに寄港し[56]、2月14日にジブチ着[58]。マスカリ島等の監視を行った[56]。また、3月8-9日には通報艦「D'Iberville」、潜水艦「Morse」、「Souffleur」と訓練を行い、4月初めにはイランの皇太子を乗せた汽船「Mohamed Ali el Kebir」の護衛を行っている[56]。4月25日に「プリモゲ」はジブチを離れ、コロンボを経由し、シンガポールで入渠して5月20日にサイゴンに着いた[56]

6月、「プリモゲ」はニャチャン、カムラン、Port-Dayot、厦門、上海を訪れた[56]。6月15日、フランス潜水艦「フェニックス (Phénix) 」が演習中にカムラン湾で消息不明となると、「ラモット・ピケ」と「プリモゲ」はその捜索を行った[注釈 17]

7月28日、「プリモゲ」は巡洋艦「シュフラン」と交代となり、フランス本国へ向けて出発[60]。コロンボ、ディエゴ・スアレスケープタウンタコラディフリータウンを経て9月14日にダカール[61]。この間に第二次世界大戦が勃発した。

第二次世界大戦

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「プリモゲ」はダカールで入渠後、船団護衛やドイツ商船捜索に従事した[62]。10月13日に「プリモゲ」はダカールより出航し、巡洋艦「デュゲイ・トルーアン」と共にリュフィスク湾で訓練を実施[62]。その際、「プリモゲ」ではボイラー室で蒸気漏れが発生し、5名が死亡した[62]。ダカールへ戻り、それから道中船団を護衛して10月28日にロリアン[62]。同地で1940年2月5日まで整備改修が行われた[62]

1940年2月、「プリモゲ」はキブロン湾で訓練を実施[62]。3月2日にロリアンより出航し、ブレストカサブランカを経て3月7日にオラン[62]。同地より巡洋艦「ラ・ガリソニエール」とともにモロッコ小銃兵をマルセイユへ運び、それから「プリモゲ」はトゥーロンへ向かった[62]。3月10日に戦艦「ブルターニュ」、巡洋艦「アルジェリー」などと共に出航してオランへ向かい、到着後「プリモゲ」はカサブランカへ向かって3月13日に着いた[62]。3月後半は中立国商船の監視を行った[62]

4月1日、「プリモゲ」は巡洋艦「ジャンヌ・ダルク」と交代するためカサブランカよりマルティニークへ向け出航[62]。途中、3日にノルウェーのタンカー「Protée」を拿捕し、4月10日にフォール=ド=フランスに着いた[63]。「プリモゲ」の任務はカリブ海での船舶の監視で、4月後半には20隻ほどの船を停船させ、ノルウェー船「Gudvor」と「Gornes」をフォール=ド=フランスへ送った[64]。5月はオランダ領内のドイツ船の監視を実施[64]。10日にドイツが低地諸国へ侵攻すると「プリモゲ」はアルバ湾に入り、オイルタンクに対する破壊活動防止のため陸戦隊を派遣した[64]。 5月16日にフォール=ド=フランスに戻り、6月3日に同地を発ってポートオブスペイン、ダカール、カサブランカを経て6月19日にジロンド川に着いた[64]

6月20日、触雷した汽船「Mexque」を救援[64]。6月22日には「プリモゲ」は爆撃を受けたが命中はしなかった[65]。「プリモゲ」はロワイヤンで6月23日に金15トンやプラチナ、フランスの紙幣を積み、それらをカサブランカへ運んだ[66]

6月22日に独仏休戦協定ヴィラ・インサーチ協定英語版イタリア語版が結ばれて、フランスはドイツイタリア王国に事実上降伏した。ヴィシー・フランスが成立したが、同時に自由フランス軍も発足した。「プリモゲ」はヴィシー軍に残る[7]

チャドカメルーンコンゴが自由フランス側につくと、「プリモゲ」はスループ「La Surprise」、「Gazelle」、油槽船「Tarn」とともに9月4日にカサブランカからダカールへ向かい、9月9日に着いた[67]。また、巡洋艦3隻と大型駆逐艦3隻からなるY部隊がトゥーロンからダカールへ向かった[68]。「プリモゲ」はY部隊指揮官の指揮下に入り、後続のY部隊へ給油を行う予定の「Tarn」とともに9月14日にリーブルヴィルへ向けて出発したが、2隻は9月19日にイギリス巡洋艦「コーンウォール」、「デリー」に捕捉されてカサブランカへ戻るよう命じられ、Y部隊指揮官の命令により2隻はカサブランカに戻った[69]

11月中旬、水雷艇や潜水艦と演習を実施[70]。その際、アガディールに滞在している[70]。12月上旬、「プリモゲ」は30億ドル相当の金のインゴットをダカールからカサブランカへ運んだ[70]。その後は数度の訓練及び後述の1941年4月中旬の出来事を除き、「プリモゲ」は1941年10月27日に離れるまでカサブランカにとどまった[70]。4月12日、「プリモゲ」と駆逐艦「シムーン」、「フロンデュール」に支援された駆逐艦「アルバトロス」が、イギリス海軍に拿捕されたバナナ運搬船「Fort-de-France」[71]を奪還した[70]。「プリモゲ」は11月2日から11月17日までダカールでドック入りし、続いてカサブランカで1942年3月15日まで大規模な改修がなされた[72]。4月19日、カサブランカで第2軽戦隊が編成され、「プリモゲ」は同戦隊旗艦となった[73]。9月までは時々訓練を行うのみで、10月4日から再び改修に入った[74]。その完了は11月25日の予定であったが[75]、その前にアメリカ軍が来襲した。

1942年11月8日、連合国軍はモロッコとアルジェリアへの上陸を実行(トーチ作戦)。カサブランカ付近ではアメリカ海軍第34.1任務群(戦艦「マサチューセッツ」、重巡洋艦「ウィチタ」、「タスカルーサ」他)、第34.9任務群(重巡洋艦「オーガスタ」、軽巡洋艦「ブルックリン」他)、第34.2任務群 (空母「レンジャー」他)とフランス軍との間で戦闘が生起した。

「プリモゲ」は第2軽戦隊の大型駆逐艦2隻、駆逐艦5隻の出撃より遅れて10時[76]頃に出撃[73]。10時15分に大型駆逐艦「ミラン」、「アルバトロス」などと合流し、10時35分に「マサチューセッツ」に対して砲撃を開始した[77]。11時20分、「プリモゲ」は艦首、中央部、ミリタリーマストに被弾したが、すべて不発であった[78]。これは「ブルックリン」ないし、「ブルックリン」と駆逐艦1隻によるものと思われる[79]。11時45分、「プリモゲ」艦尾付近に至近弾があり、2名が死亡し、若干の浸水が生じた[78]。11時57分、「プリモゲ」は「マサチューセッツ」に命中弾を与え、小火災を発生させた[78]。12時30分、「プリモゲ」はボイラー室に被弾[73]。これはおそらく「タスカルーサ」からのもので、不発ではあったがボイラー1基を破壊し、「プリモゲ」の速力は4ノット低下した[79]。またカサブランカに停泊中のフランス戦艦「ジャン・バール」を攻撃していた米空母部隊の艦上機が、今度は連合軍上陸部隊を守るために「プリモゲ」などを攻撃する[80]F4Fワイルドキャット戦闘機が機銃掃射をおこなったあと、「レンジャー」のSBDドーントレス急降下爆撃機第41偵察飛行隊、VS-41)と、「スワニー」のTBFアヴェンジャー雷撃機(第27偵察飛行隊、VSG-27)がフランス艦隊を襲撃した[80]。12時40分、ドーントレス5機による「プリモゲ」攻撃で、500ポンド爆弾1発が命中した[78]。その後、「プリモゲ」はカサブランカに戻った[73]

第41偵察飛行隊(レンジャー搭載部隊)などのSBDドーントレスは、ひきつづきカサブランカのフランス艦隊や砲台を攻撃した[80]。14時40分、SBDドーントレス9機による攻撃で少なくとも3発の爆弾が命中[73]。艦橋への被弾もあり、艦長Mercier大佐などが戦死した[81]。15時44分から「ウィチタ」と「タスカルーサ」が「プリモゲ」を砲撃したが、命中弾はなかった[82]。または、そのころ砲弾1発を被弾[73]。16時50分に「プリモゲ」は再度空襲を受け、艦橋に被弾した[73]。その後、「プリモゲ」は擱座し、一晩中燃え続けた[73]

「プリモゲ」の残骸は1951年に売却され、解体された[73]

脚注

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注釈

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  1. ^ 巡洋艦プリモウゲ(一九二五年十一月竣工)[1] 基準排水量七二四九噸、時速三四節。ラモット・ピックヰエと共にデュゲェイ・トロワン級三隻中の一。特に遠洋航行に優秀性を有し、ポンブルジュ艦長指揮の下に現に極東艦隊旗艦たり。水雷二十四個を有し、その艦載水雷艇は一七.七吋水雷四個を備ふ。偵察機二臺を携行。後尾砲塔後部にカタパルト一基を装備。
  2. ^ 二等巡洋艦“デュガイ・トルーアン Duguay Trouin[3] 全要目{排水量7,249噸 速力34節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管(53糎)12門 起工1922年8月 竣工1926年11月 建造所ブレスト海軍工廠} 同型艦“ラモツトピケ Lamotte-Picquet}” “プリモウゲ Primauguet”全長184.08米、幅17.07米、平均吃水5.49米。上記の外に7.5糎高角砲4門その他小砲7門を有す。/水上機2機(哨戒機)を搭載す。34節の全速力に於ける軸馬力は100,000馬力。重油搭載量は最大1,500噸。34節の全速力にて880浬の行動半徑を航續し得、同じく30節では1,290浬、20節で3,000浬、15節では4,500浬と云はれてゐる。魚雷は24個搭載しその外に艦載艇用魚雷(45糎)を搭載してゐる。
  3. ^ 二等巡洋艦 “プリモウゲ Primauguet[4] 全要目{排水量7,249噸 速力34.0節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管12門 起工1923年8月 竣工1926年11月 建造所 ブレスト海軍工廠} 佛國輕巡の中樞をなす同型三艦中の一艦で、1923年の建造は如何にもすでに一昔前ではあるが、その時すでに今日の輕巡の基本形を備へ重巡誕生の母となつた。全長184.08米、幅17.07米、平均吃水5.49米。7.5糎高角砲4門、單葉水上機二機を搭載、カタパルトは艦尾後甲板に据へられてゐる。魚雷發射管は53糎徑の大きなもので、別に艦載機が使用する45糎のものも積んでゐる4推進器艦で主機關の軸馬力100,000馬力なりといふ。
  4. ^ 連合軍艦隊(第34任務部隊指揮官H.ケント.ヒューイット少将)、第34.1任務群(ギッフェン少将:戦艦マサチューセッツ、重巡2隻(ウィチタタスカルーサ)、駆逐艦4隻、補給艦1隻)、第34.9任務群(ヒューイット少将:重巡オーガスタ〈旗艦〉、軽巡ブルックリン、駆逐艦10隻、上陸部隊輸送船団)、第34.2任務群(空母レンジャー、護衛空母スワニー、軽巡クリーブランド、駆逐艦5隻、潜水艦2隻、補給艦1隻)。
  5. ^ 二等巡洋艦 “ラモット・ピケ Lamotte Piquet[9] 全要目{排水量7,249噸 速力34.0節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管12門 起工1923年1月 竣工1926年9月 建造所 ロリアン海軍工廠} プリモウゲの同型艦で、南洋方面の遣外艦隊の旗艦として、幾度か日本にもやつて來た。長さがわが衣笠よりも約10米長く出來てゐるのが見た眼に非常に長細い船だと感じさせるが、もともと遣外艦隊配属を目的として造られたものであるから、大きな圖体には少からざる燃料をつんで15節にて9,000浬といふ航續距離を示してゐる。主砲高角砲共に最新の制式を有し、單騎よく大洋のまん中にあつて決してひけはとらぬと云ふ。もう一隻の同型艦は“デユゲイ・トルーアン Duguay Trouin”要目全く同じである。
  6. ^ 世界巡航の佛國巡洋艦 月曜日來航す[10] 當地佛國領事オーガステ・マークエス氏の許に達した電報に依ると世界巡航の途にある佛國巡洋艦プリマウゲート號は月曜日横濱から來航する、同號は佛國最新式巡洋艦で噸數九千五百噸、長さ六百呎 幅五十七呎、喫水十七呎である、航程はフランスを發しスエズ運河を經て日本に赴きホノルルからパナマ運河を通過して歸航する豫定となつてゐる(記事おわり)
  7. ^ 佛國大使デビリー氏 鎌倉で兇漢に襲はる 佛巡洋艦乗組員とドライヴ中 大使は幸に無事、士官二名負傷す[15](六日東京發)駐日佛國大使デビリー氏は佛巡洋艦プリモゲ號の乗組士官二名と鎌倉附近をドライブ中二名の日本人醉漢に襲はれた。大使は負傷しなかつたが士官は打撲傷を負ひ醉漢と格闘中警官驅けつけ來たり兩名共犯人を逮捕した。同大使に右を單に些細な出來事と看做し外務當局に同事件の解決を迫るやうなことはしまいと(記事おわり)
  8. ^ 「寧海」は6月5日の式典に間に合わないことが判明し、下関に寄港して儀仗隊のみ先行させて式典に間に合わせ、「寧海」は6月6日東京湾に到着した[25]オランダが軽巡「ジャワ (Hr. Ms. Java) 」を派遣したという資料もある。
  9. ^ (3)艦船[27] 10.外國軍艦本邦沿岸出入一覧(フランス)(プリモーゲ)
  10. ^ フランス砲艦(通報艦タユール (Tahure) は弔砲を発射していない[29]
  11. ^ 國葬参列の各國将星を永野大将が招待す ホテル、ニューグランドに悲しみの裡に國際親善[30] 東郷元帥國葬参列の重任を果した英、米、佛、伊、支五ヶ國代表及其一行をば接伴委員長横須賀鎭守府司令長官永野修身大将が招待して六日午後一時より盛大な午餐會を横濱のホテル、ニューグランドに開いた、ドレーヤー大将(英國) アツパム大将(米) リシャール中将(佛) プリポネツシ大佐(伊) 王壽廷(支)を初めとして其幕僚、大使館附武官等各國の将星二十二名出席し、日本側は永野長官以下各聯絡将校等を初め約二十名出席し接伴艦比叡の軍樂隊伴奏裡に一同歡を盡して國際親善の實を収めた(記事おわり)
  12. ^ ◎謁見[31] 佛國極東艦隊司令長官海軍少将アルフレッド、ルイ、マリー、リシャール今般來航ニ付敬意ヲ表スルタメ同艦隊参謀長海軍大佐ルルー外一名ヲ從ヘ同國特命全權大使フェルナン、ジャン、マリー、ピラ同伴同大使館附海軍武官 海軍少佐オーブリー・ド、ラ、ノエト共ニ昨二十一日午前十一時 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ(以下略)
  13. ^ 大連(7月30日~8月6日)[39]、門司(8月31日~9月3日)[40]、敦賀(9月4日~9月11日)[41]、長崎(9月13日~10月1日、装甲巡洋艦「出雲」と交流、三菱長崎造船所で修理)[42]、神戸(10月3日~10月13日)[43]、横浜(10月14日~10月28日)[44]
  14. ^ ◎謁見[50] ◎謁見 米國陸軍長官ジョージ、エイチ、ダーン今般渡來ニ付敬意ヲ表スルタメ同國臨時代理大使エドヴィン、エル、ネヴィル同伴昨十五日午前十一時 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ
    佛國極東艦隊司令長官海軍中将ジャン、ピエール、エステヴァ今般來航ニ付敬意ヲ表スルタメ同艦隊参謀長海軍大佐ルルーヲ從ヘ本邦駐箚同國特命全權大使フェルナン、ジャン、マリー、ピラ同伴同大使館附海軍武官海軍大佐ロザテイト共ニ同日午前十一時三十分 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ(以下略)
  15. ^ 三大海軍國 顔合せ 水兵京濱に氾濫(横濱十六日電通)[51] 十四日入港した米佛軍艦に引續き十六日朝英國一万トン巡洋艦トーセツシヤー號が入港はからずも三大海軍國の顔合せとなり、横濱は青い目の水兵服が氾濫海軍景気を現出してゐる(記事終わり)
  16. ^ ヂブチに到着 謎の佛巡洋艦プ號[58](十四日ヂブチ發ルーター)去る一月十九日何処に行くも分らず突如上海を出港した佛國巡洋艦プリモウゲ号は本日ヂブチに入港した 出港當時パリでは同艦が一年以上も東洋に居たことであるので本國へ歸還するのは豫定のことであり、西貢ヂブチに寄港する筈だと云はれてゐたところである(記事おわり)
  17. ^ 遭難佛國潜水艦 乗組員七十一名 全く絶望(サイゴン十七日同盟)[59] 演習中浸没せるフランス潜水艦フエニツクス號の沈没箇所は十七日夕刻にいたり海上に多量の油が浮かべるのを發見捜査の結果カムラン灣沖で水深二百フイトのところなる事が漸く判明した、現場附近には極東艦隊所属の巡洋艦ラモツト・ピケゴー、同プリモーゲ號その他サイゴンより急行せる救助船數隻が警戒してゐるが、乗組員七十一名の運命は絶望視されてゐる、なほ佛印總督プレピエモは十七日サイゴン發カムランへ急行した(記事おわり)

出典

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参考文献

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関連項目

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