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[[広島県立広島工業高等学校|広島工業]]では[[大井成元 (サッカー選手)|大井成元]]、[[沖宗敏彦]]、室野哲雄らとディフェンスラインを組み2年次[[1976年]]、[[新潟県|新潟]][[全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会|高校総体]]ベスト8、[[国民体育大会|国体]]準優勝(1-4[[静岡県]]選抜)、3年次[[1977年]]、岡山高校総体ベスト4進出に貢献した。


[[中央大学]]を経て[[日本鋼管サッカー部]]に所属。小柄ながら俊足とジャンプ力に優れた主力[[ディフェンダー (サッカー)|DF]]として[[日本サッカーリーグ]](JSL)151試合に出場した。日本鋼管では[[田中孝司]]、[[倉又寿雄]]、[[ゴールキーパー (サッカー)|GK]][[松井清隆]]らとゴールを守りJSLで[[1985年]]からの優勝争い([[1985年のJSL|1985年]]、[[1986年-1987年のJSL|1986年-1987年]]、[[1987年-1988年のJSL|1987年-1988年]]シーズン三年連続2位)、1987年[[JSLカップ]]制覇に貢献した。
[[中央大学]]を経て[[日本鋼管サッカー部]]に所属。小柄ながら俊足とジャンプ力に優れた主力[[ディフェンダー (サッカー)|DF]]として[[日本サッカーリーグ]](JSL)151試合に出場した。日本鋼管では[[田中孝司 (サッカー選手)|田中孝司]]、[[倉又寿雄]]、[[ゴールキーパー (サッカー)|GK]][[松井清隆]]らとゴールを守りJSLで[[1985年]]からの優勝争い([[1985年のJSL|1985年]]、[[1986年-1987年のJSL|1986年-1987年]]、[[1987年-1988年のJSL|1987年-1988年]]シーズン三年連続2位)、1987年[[JSLカップ]]制覇に貢献した。


代表では[[1979年]]、[[U-20サッカー日本代表]]として[[FIFA U-20ワールドカップ|ワールドユース]]日本大会に出場の他、[[サッカー日本代表|日本代表]]として[[国際Aマッチ]]5試合、Cマッチ5試合に出場した。[[1987年]]の[[ソウルオリンピック]]予選では[[加藤久]]、[[堀池巧]]、[[勝矢寿延]]、[[奥寺康彦]]らディフェンスラインを組んだ。代表の"赤い"ユニフォームも着た。
代表では[[1979年]]、[[U-20サッカー日本代表]]として[[FIFA U-20ワールドカップ|ワールドユース]]日本大会に出場の他、[[サッカー日本代表|日本代表]]として[[国際Aマッチ]]5試合、Cマッチ5試合に出場した。[[1987年]]の[[ソウルオリンピック]]予選では[[加藤久]]、[[堀池巧]]、[[勝矢寿延]]、[[奥寺康彦]]らディフェンスラインを組んだ。代表の"赤い"ユニフォームも着た。

2023年3月10日 (金) 10:19時点における版

中本 邦治
名前
カタカナ ナカモト クニハル
ラテン文字 NAKAMOTO Kuniharu
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1959-10-29) 1959年10月29日(64歳)
出身地 広島県
身長 174cm
体重 68kg
選手情報
ポジション DF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
代表歴2
1987[1] 日本の旗 日本 5 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2011年12月7日現在。
2. 2011年12月7日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

中本 邦治(なかもと くにはる、1959年10月29日 - )は広島県出身の元サッカー選手

来歴

広島工業では大井成元沖宗敏彦、室野哲雄らとディフェンスラインを組み2年次1976年新潟高校総体ベスト8、国体準優勝(1-4静岡県選抜)、3年次1977年、岡山高校総体ベスト4進出に貢献した。

中央大学を経て日本鋼管サッカー部に所属。小柄ながら俊足とジャンプ力に優れた主力DFとして日本サッカーリーグ(JSL)151試合に出場した。日本鋼管では田中孝司倉又寿雄GK松井清隆らとゴールを守りJSLで1985年からの優勝争い(1985年1986年-1987年1987年-1988年シーズン三年連続2位)、1987年JSLカップ制覇に貢献した。

代表では1979年U-20サッカー日本代表としてワールドユース日本大会に出場の他、日本代表として国際Aマッチ5試合、Cマッチ5試合に出場した。1987年ソウルオリンピック予選では加藤久堀池巧勝矢寿延奥寺康彦らディフェンスラインを組んだ。代表の"赤い"ユニフォームも着た。

近年は宝くじの普及広報を目的とした、ドリームサッカー日本代表OBのメンバーとして各地で試合を行っている。

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1982 鋼管 2 JSL1部 9 0 3 0 2 0 14 0
1983 JSL2部 17 0 0 0 4 0 21 0
1984 JSL1部 18 0 1 0
1985 22 0 2 0 3 0 27 0
1986-87 22 0 3 0 5 0 30 0
1987-88 21 0 5 0 2 0 28 0
1988-89 NKK 22 0 0 0 0 0
1989-90 17 0 2 0 2 0 21 0
1990-91 20 0 2 0
通算 日本 JSL1部 151 0
日本 JSL2部 17 0 0 0 4 0 21 0
総通算 168 0

JSLオールスターサッカー 2回出場(1987年、1988年)


その他の公式戦

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 5試合 0得点 (1987)[1]


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1987 5 0 5 0 10 0
通算 5 0 5 0 10 0

出典

外部リンク