「無学祖元」の版間の差分
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百億毛頭ひゃくおくもうとうに獅子現ししげんじ、百億毛頭に獅子吼ほゆ |
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2023年11月15日 (水) 03:36時点における版
無学祖元 | |
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宝慶2年3月18日[1] - 弘安9年9月3日 (1226年4月16日 - 1286年9月22日) | |
諡号 | 仏光国師・円満常照国師 |
生地 | 慶元府鄞県 |
没地 | 鎌倉建長寺 |
宗派 | 臨済宗無学派(仏光派) |
寺院 | 浄慈寺、白雲庵、能仁寺、建長寺、円覚寺、真如寺 |
師 | 北礀居簡、無準師範 |
弟子 | 高峰顕日、規庵祖円、無外如大 |
著作 | 『仏光国師語録』 |
無学祖元(むがく そげん)は、鎌倉時代の臨済宗の僧。諡は仏光国師・円満常照国師。号は子元。日本に帰化して無学派(仏光派)の祖となる。建長寺・円覚寺に兼住して日本の臨済宗に影響を与える。その指導法は懇切で、老婆禅と呼ばれ、多くの鎌倉武士の参禅を得た。
生涯
嘉熙元年(1237年)、兄の仲挙懐徳の命で臨安府浄慈寺の北礀居簡のもとで出家。淳祐年間に径山寺の無準師範に参じ、その法を嗣ぐ。この頃、石渓心月や虚堂智愚・物初大観・環渓惟一らを歴参する。
臨刃偈
徳祐元年(1275年)、元(蒙古)軍が南宋に侵入したとき、温州の能仁寺に避難していた無学祖元は元軍に包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ。「臨剣の頌」とも)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる[2]。
乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし
喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを
珍重す、大元三尺の剣
電光、影裏に春風を斬らん
なお、のちに臨済宗の雪村友梅も、元で諜者の嫌疑をかけられるが、この臨刃偈を唱えたことで許されたとも伝わる[2]。
来日
弘安2年(1279年)、鎌倉幕府の執権北条時宗の招きに応じて来日。鎌倉で南宋出身の僧蘭渓道隆遷化後の建長寺の住持となる。時宗を始め、鎌倉武士の信仰を受ける。
蒙古襲来
日本と元との戦いである元寇が起こり、弘安4年(1281年)、2度めの戦いである弘安の役に際して、その一月前に祖元は元軍の再来を予知し、時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と書を与えた[2]。
また、「驀直去」(まくじきにされ)と伝え、「驀直」(ばくちょく)に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた[2]。この祖元の言葉はのちに「驀直進前」(ばくちょくしんぜん)という故事成語になった。無学祖元によれば、日本が元軍を撃退した事に対して時宗は神風によって救われたという意識はなく、むしろ禅の大悟(だいご)によって精神を支えたといわれる[2]。
弘安5年(1282年)、時宗は巨費を投じて、元寇での戦没者追悼のために円覚寺を創建し、祖元は開山となる。
弘安9年9月3日(1286年9月22日)、建長寺にて示寂。享年61。墓所も建長寺にある。
語録
『仏光国師語録』
辞世
辞世は、「来たるも亦前ならず 去るも亦後ならず、百億毛頭に獅子現じ、百億毛頭に獅子吼ゆ」であった[2]。来たるも、また前すすまず、去るも、また後しりぞかず。 百億毛頭ひゃくおくもうとうに獅子現ししげんじ、百億毛頭に獅子吼ほゆ
弟子
高峰顕日・規庵祖円・無外如大。高峰門下に五山派の主流となる夢窓疎石が出る。
主な作品
墨跡
- 「与長楽寺一翁偈語」(国宝) 京都・相国寺(承天閣美術館保管) 紙本墨書 4幅 弘安2年(1279年)
- 「無学祖元墨跡 偈断簡」(重要文化財) 東京・根津美術館 紙本墨書 弘安3年(1280年)
- 「無学祖元墨跡 尺牘」(重要文化財)神奈川・円覚寺 紙本墨書 弘安6年(1283年)
着賛
- 「六祖慧能図」(重要文化財) 大阪・正木美術館 紙本墨画淡彩
- 「白楽天図」(重要文化財) 個人蔵 絹本著色
頂相
- 「無学祖元坐像」 (重要文化財) 神奈川・円覚寺 木像 彩色 玉眼
- 円覚寺舎利殿の背後に接して建つ開山堂に安置。弘安9年(1286年)の示寂直後に作られたとみられる。眼差しは鋭いながら口元は優しく、顔は生気に満ち、前かがみの姿勢は今にもこちらに語りかけそうな迫真性をもつ。多くの優れた鎌倉時代肖像彫刻の中でも、傑作中の傑作と評される。
脚注
参考資料
- 『建長寺創建750年記念 鎌倉 禅の起源』展図録、東京国立博物館、2003年