孝端顕皇后
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王皇后 | |
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明の皇后 | |
孝端顕皇后王喜姐 | |
在位 |
万暦6年2月19日 - 万暦48年4月6日 (1578年3月26日 - 1620年5月7日) |
全名 | 王喜姐 |
別称 | 孝端貞恪荘恵仁明媲天毓聖顕皇后 |
出生 |
嘉靖43年10月4日 (1564年11月7日) 順天府 |
死去 |
万暦48年4月6日 (1620年5月7日) 順天府、紫禁城 |
埋葬 | 定陵 |
配偶者 | 万暦帝 |
子女 | 朱軒媖(栄昌公主) |
父親 | 王偉(永年伯) |
孝端顕皇后(こうたんけんこうごう)は、明の万暦帝の皇后。姓は王、諱は喜姐(きしゃ)[1]。
生涯
[編集]順天府の出身。原籍は紹興府余姚県。従九品文思院副使の王偉の長女として生まれた。万暦5年(1577年)、選抜されて翌年2月に皇后となった。父の王偉は永年伯に封じられた。
真赤の服を好み[2]、後宮の主として聡明かつ謹厳な性格で、極めて有能であった。万暦帝の文書の収集・整理、皇太后たちへの孝事をこなし、太子朱常洛(後の泰昌帝、王皇貴妃の子)を支持し、皇帝の寵妃(鄭皇貴妃)には寬容で、自身に皇帝の寵愛はなくとも皇后の地位を盤石にした。一方で、鬱憤を晴らすために宮女や太監(宦官)たちへの虐待を数多く行い、時には折檻して死に至らしめたと後年、太監劉若愚が『酌中志』で回顧している。
万暦48年(1620年)、万暦帝に先立つこと4カ月にして崩じた。孝端貞恪荘恵仁明媲天毓聖顕皇后の諡号を贈られ、定陵に次代の生母王皇貴妃とともに帝と合葬された。生涯のライバル鄭皇貴妃は立后を謀ったが失敗に終わり、金山への埋葬を余儀なくされた。
中国史上で在位期間が最も長い皇后である(42年) 。
子女
[編集]- 朱軒媖(栄昌公主)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『明史』
- 『明神宗実録』
- 『酌中志』
- 『万暦野獲編』
- 『万暦起居注』