珍内町
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ちんないちょう 珍内町 | |
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廃止日 | 1949年6月1日 |
廃止理由 |
国家行政組織法施行 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 樺太地方 |
都道府県 | 樺太庁 恵須取支庁 |
郡 | 恵須取郡 |
面積 | 約539.805[1] km2. |
総人口 |
15,430人 (1941年12月1日) |
隣接自治体 |
恵須取郡鵜城村 泊居郡久春内村 元泊郡知取町、元泊村、帆寄村 |
珍内町役場 | |
所在地 | 樺太庁恵須取郡珍内町 |
座標 | 北緯48度25分19秒 東経142度05分00秒 / 北緯48.4219度 東経142.0833度座標: 北緯48度25分19秒 東経142度05分00秒 / 北緯48.4219度 東経142.0833度 |
特記事項 | 1943年4月1日以降は北海地方に所属。 |
ウィキプロジェクト |
珍内町(ちんないちょう)は、日本の領有下において樺太に存在した町。本項では町制前の名称である三浜村(みはまむら)についても述べる。
珍内という地名は、アイヌ語の「チン・ナイ」(海と湖を結ぶ運河=川口を拡げた川)による[2]。
当該地域の領有権に関する詳細は樺太の項目を参照のこと。現在は、この周辺をロシア連邦がサハリン州クラスノゴルスクとして実効支配している(行政区分は一致しない)。
有名なアイヌ文化伝承者、藤山ハル、浅井タケの出身地でもある。
概要
[編集]歴史
[編集]- 1915年(大正4年)6月26日 - 「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」(大正4年勅令第101号)の施行により三浜村が行政区画として発足。久春内郡に所属し、泊居支庁久春内出張所が管轄。
- 1929年(昭和4年)7月1日 - 樺太町村制の施行により三浜村(二級町村)が発足。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 三浜村が町制施行して珍内町(一級町村)となる。
- 1940年(昭和15年)1月 - 管轄支庁が恵須取支庁に変更。
- 1942年(昭和17年)11月 - 所属郡が恵須取郡に変更。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)が廃止され、内地編入。
- 1945年(昭和20年)8月22日 - ソビエト連邦により占拠される。
- 1949年(昭和24年)6月1日 - 国家行政組織法の施行のため法的に樺太庁が廃止。同日珍内町廃止。
町内の地名
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交通
[編集]鉄道路線
[編集]樺太西線が久春内村から町内を通り恵須取町を経て塔路町まで計画されており、路盤の整備も進んでいたが完成することなくソ連に占領された。
地域
[編集]教育
[編集]以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[4]。
- 樺太公立幸浜国民学校
- 樺太公立留久志国民学校
- 樺太公立小田洲第一国民学校
- 樺太公立小田洲第二国民学校
- 樺太公立珍内国民学校
- 南珍内分教場
- 樺太公立下大川国民学校
- 樺太公立杉森国民学校
- 樺太公立来知志第一国民学校
- 樺太公立来知志第二国民学校
脚注
[編集]- ^ 三濱村勢一覽(樺太久春内郡三濱村役場 1937年)に「面積凡ソ三十五方里ト稱セラル」とあり。
- ^ 南樺太:概要・地名解・史実 p.360 - 361
- ^ 南樺太:概要・地名解・史実(西村いわお・著、高速印刷センター内出版部 1994年)より。
- ^ 北海道立教育研究所『北海道教育史 地方編2』(1957年)p. 1687