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生源寺希烈

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生源寺 希烈(しょうげんじ まれやす[注 1]/まれつら[注 2]/まれたけ[注 3])は、江戸時代神職公卿

生涯

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天明5年(1785年)、近江国滋賀郡に生まれた。父は生源寺行整、兄は梅辻春樵。実子に生源寺希璵藤井希璞嘉納治郎作、養子に富小路任節がいる。

文化4年(1807年)、兄・希声から職を継承し、日吉大社の神職となった。

天保7年4月6日1836年5月20日)、53歳で従三位に叙され、公卿に列せられた[1] 。さらに嘉永2年12月19日1850年1月31日)、65歳で正三位に昇った[2]文久3年2月26日1863年4月13日)、79歳で薨去した[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『美術人名辞典』「生源寺希烈
  2. ^ 『デジタル版日本人名大辞典+Plus』「梅辻春樵
  3. ^ 美崎大洋「嘉納家と我孫子の関係は60年-治五郎死後、別荘は自宅だった-」『我孫子市史研究センター会報』第206号、2019年4月26日http://abikosisiken.main.jp/kaihou/kaihou206.pdf2021年10月14日閲覧 

出典

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  1. ^ 黒板勝美 & 國史大系編修會 1974, p. 375. 仁孝天皇天保七年条。
  2. ^ 黒板勝美 & 國史大系編修會 1974, p. 457. 孝明天皇嘉永二年条。
  3. ^ 黒板勝美 & 國史大系編修會 1974, p. 550. 孝明天皇文久三年条。

参考文献

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  • 黒板勝美; 國史大系編修會 編『公卿補任』《第五篇》吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1974年。