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田中勇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たなか いさむ

田中 勇
生誕 (1905-01-20) 1905年1月20日
茨城県水戸市
死没 (2000-02-12) 2000年2月12日(95歳没)
出身校 東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科
職業 実業家
栄誉 勲二等旭日重光章
レジオンドヌール勲章
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田中勇(たなか いさむ、1905年明治38年)1月20日 - 2000年平成12年)2月12日)は、日本の実業家東京急行電鉄副社長、伊豆急行社長、東亜国内航空社長。五島慶太父子に仕え「東急グループ大番頭」の異名で呼ばれた。

年表

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エピソード

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  • 水戸中学校4年生のときに重度の脚気に罹る。
  • 東京高等工業在学中、小石川の渋沢元治邸に書生として住み込む。女中頭のキミとは初日から折り合いが悪かった。
  • 昭和2年から数ヶ月、運転士として目蒲線に乗務した。
  • 戦局が厳しくなっても、田中は国の技術者優遇策により徴兵を免除されていた。
  • 東急副社長時代は不要照明の節約や裏紙使用の奨励など、資源活用やコスト削減の徹底を推進し、五島昇から「ケチ副」と呼ばれた。
  • 五島昇の長男・本田技研を辞めて東急に入社する意向があると聞いた時、田中は一席設けて、「いまは昔とちがって、大名の子が大名になれる時代じゃない。もし東急にくるなら、駅員からやれ」と、はなからの重役就任に反対した[3]。その哲は東急建設の取締役からスタートしたが、祖父・慶太に似た奔放な性格が誤解を受け易く、時として父親との折り合いが悪かったこともあって、必ずしも後継者の路線を歩まなかった。あの時、東急の重役にして、オレの身近に置いておけば…。あるいは哲も、それなりの道を歩んでいたかもしれない。と田中は悔いている[3]

脚注

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  1. ^ a b 蔵前工業会創立100周年記念特集” (PDF). 社団法人蔵前工業会. p. 59 (2006年). 2019年11月23日閲覧。
  2. ^ a b 天下の大番頭 下 1994, p. 548.
  3. ^ a b 天下の大番頭 下 1994, p. 560 - 561.

参考文献

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  • 本所次郎『昭和の大番頭 東急田中勇の企業人生 上』新潮社、1990年1月。ISBN 978-4103774013 
  • 本所次郎『昭和の大番頭 東急田中勇の企業人生 下』新潮社、1990年1月。ISBN 978-4103774020 
先代
大久保謙
蔵前工業会理事長
1974年 - 1978年
次代
白澤富一郎