田中耕太郎 (海軍軍人)
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田中 耕太郎(たなか こうたろう、1868年4月18日(慶応4年3月26日[1]) - 1939年(昭和14年)11月9日[2])は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。
人物
[編集]丹波国多紀郡篠山(現在の兵庫県丹波篠山市)出身[3]。1890年(明治23年)、海軍兵学校を卒業。日清戦争では『扶桑』に乗り組み従軍した[3]。1900年(明治33年)にロシアに留学を命じられ、その後軍令部に勤務した[2]。1909年(明治42年)に在ロシア大使館附武官に就任[2]。1914年(大正3年)からは馬公要港部参謀長、海軍大学校教官、軍令部第三班課長を歴任した[2]。1919年(大正8年)より浦塩派遣軍附となった[2]。
海軍随一のロシア通であったが、帝政ロシアの没落とともに1923年(大正12年)に予備役に編入された[3]。その後、1928年(昭和3年)に後備役となり、1933年(昭和8年)に退役となった[2]。
家族
[編集]長男・一穂の岳父に置塩章
栄典
[編集]- 位階
- 1896年(明治29年)2月10日 - 従七位[4]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 正七位[5]
- 1901年(明治34年)4月20日 - 従六位[6]
- 1920年(大正9年)12月10日 - 従四位[7]
- 1923年(大正12年)4月30日 - 正四位[8]
- 勲章等
脚注
[編集]- ^ 日本海軍将官辞典 2000.
- ^ a b c d e f 「田中耕太郎中将遺稿「コルチャーク」高等統治官時代ノ西伯利亜政府 自昭和十五年三月」 アジア歴史資料センター Ref.B12080958900
- ^ a b c 多紀、氷上人名鑑 pp.91-92 1933.
- ^ 『官報』第3783号「叙任及辞令」1896年2月12日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第5337号「叙任及辞令」1901年4月22日。
- ^ 『官報』第2509号「叙任及辞令」1920年12月11日。
- ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
- ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。
参考文献
[編集]- 「田中耕太郎中将遺稿「コルチャーク」高等統治官時代ノ西伯利亜政府 自昭和十五年三月」 アジア歴史資料センター Ref.B12080958900
- 『多紀、氷上人名鑑』篠山新聞社、1933年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。