田村初太郎
田村 初太郎 | |
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1875年頃撮影。パシフィック大学所蔵。 | |
教会 | 浪花教会、天満教会、洛陽教会 |
個人情報 | |
別名 | 粂次郎(幼名) |
出生 |
嘉永5年8月15日(1852年9月28日) 武蔵国江戸八丁堀地蔵橋(東京都中央区日本橋茅場町) |
死去 |
1915年(大正4年)5月20日 京都府京都市上京区河原町通下切通上ル出水町 |
墓所 | 若王子墓地 |
国籍 | 日本 |
教派・教会名 | 会衆派教会、日本組合基督教会、日本聖公会 |
両親 | 田村弘蔵、光 |
配偶者 | 三沢サク |
出身校 | 開成所、パシフィック大学、オーバリン神学校 |
著作 | 『英語綴字書』 |
田村 初太郎(たむら はつたろう、嘉永5年8月15日(1852年9月28日) - 1915年(大正4年)5月20日)は明治時代のキリスト教系教育者。パシフィック大学教授、梅花女学校校長、第三高等中学校教諭、静岡県尋常中学校浜松分校校長、京都市基督教青年会英語学校校長、平安女学院院長。
経歴
[編集]江戸、静岡
[編集]嘉永5年8月15日(1852年9月28日)江戸八丁堀地蔵橋に田村弘蔵と光の次男として生まれた[1]。幼名は粂次郎[1]。安政2年(1855年)の安政江戸地震では棟木の下敷きになり、下男に救われて焼死を免れた[1]。安政5年(1858年)習字・漢書、元治元年(1864年)開成所で英語を学び、慶応元年(1865年)9月稽古人世話心得、慶応2年(1866年)英学教授手伝となり、5人扶持を給付された[1]。
明治元年11月4日(1868年12月17日)父が浜松添奉行となり、一家で転居した[1]。明治2年2月4日(1869年3月16日)駿府の名村五八郎私塾に入り、27日丁髷を廃し、4月2日府中学問所英学四等教授、12月11日三等教授となった[1]。
明治3年(1870年)3月東京に出て、4月2日大学南校に入学した[1]。
アメリカ留学
[編集]1870年6月22日(新暦)横浜港からアメリカ合衆国へ渡り、7月13日サンフランシスコに到着し、パルマルにキリスト教の指導を受け、その母の家に奉公した[1]。
9月オレゴン州フォレストグローヴに移り、パシフィック大学付属中学校に入学し、斎藤金平、能勢栄が合流し、校長S・H・マルシュ宅で割烹、鋸挽き、薪割り、乳搾りをしながら英語、法書を学んだ[1]。1871年12月サンフランシスコで岩倉使節団に会い、官費生となった[1]。1872年大学に進学し、1875年化学教授となり、記帳法、フランス語、分析化学を学び、音楽、写真、花火術を研究した[1]。
1876年6月7日大学を卒業し、8月フィラデルフィア万国博覧会を見学した後、9月メリーランド州エリコットシティに移り、セント・クレメンツ・ホール教授となった[1]。12月ワシントンDCを訪れ、1877年1月1日ユリシーズ・グラント大統領と面会、握手した[1]。
3月オハイオ州オーバリンに移って同地の神学校に入学し、5月6日第二組合教会でキンケード牧師に洗礼を受け、7月から1878年3月まで同州各地の教会で演説した[1][2]。
大阪
[編集]1878年(明治11年)2月25日父の急死を聞き、4月卒業を目前に帰国した[1]。9月沢山保羅の世話で大阪英語学校に勤め、10月2日大手通一丁目に講義場・日曜学校を開き、11月1日浪花教会に入会した[1]。1879年(明治12年)8月18日梅花女学校校長を兼ねた[1]。1880年(明治13年)大阪中学校雇、1881年(明治14年)教諭[1]。
1882年(明治15年)9月10日天満教会に移籍して執事となり、1883年(明治16年)5月梅花女学校校長職を沢山保羅に譲った[1]。7月21日パシフィック大学からMaster of Artsを授与された[1]。1885年(明治18年)9月大学分校教諭、12月教務課主事、1886年(明治19年)4月4日第三高等中学校教諭[1]。
京都
[編集]1889年(明治22年)7月第三高等中学校の京都移転に伴い、9月14日河原町通下切通上ル出水町に移り、10月基督教講義所執事となった[1]。1890年(明治23年)第三高等中学校教授[1]。
1894年(明治27年)8月29日第三高等中学校解散により非職となり、10月27日静岡県尋常中学校浜松分校校長となったが、1895年(明治28年)2月9日辞任し、22日平安女学院教頭となった[1]。1897年(明治30年)1月29日ジョン・マキム監督に堅信を受けて聖公会に入会し、1898年(明治31年)関西女子高等学校理事、1899年(明治32年)7月20日同志社理事となった[1]。
1903年(明治36年)京都基督教青年会創立に関わり、10月19日理事、26日会長となり、1904年(明治37年)英語学校を設立して校主、1907年(明治40年)9月校長となった[1]。1908年(明治41年)平安女学院院長、1915年(大正4年)校長となった[1]。
1913年(大正2年)9月22日京都帝国大学文科大学講師となり、ラテン語を教えた[1]。1915年(大正4年)5月20日尿毒症を患い、21日午前1時10分死去し、聖三一教会で葬儀が行われ、若王子墓地に埋葬された[1]。
著書
[編集]栄典
[編集]家族
[編集]- 父:田村弘蔵 - 明治元年(1868年)11月4日浜松添奉行[1]。1878年(明治11年)1月18日没[1]。
- 母:光 - 嘉永6年(1853年)没[1]。
- 兄:矢太郎 - 嘉永6年(1853年)没[1]。
- 妻:三沢サク - 1879年(明治12年)5月10日結婚[1]。サクは佐藤泰然の孫で、姉たちの夫に三沢元衛(今村信行弟)、緒方維準(緒方洪庵次男)、箕作麟祥がいる。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 加納重朗「田村初太郎について ―未発表「略歴」より―」『のぞみ』第19号、平安女学院短期大学、1977年2月。
外部リンク
[編集]- The House that Marsh Built - パシフィック大学
- 第三高等中学校教授田村初太郎官等陞叙ノ件 - 国立公文書館デジタルアーカイブ