甲波宿禰神社 (渋川市川島)
表示
甲波宿禰神社 | |
---|---|
所在地 | 群馬県渋川市川島1287 |
位置 | 北緯36度31分50.2秒 東経138度58分03.3秒 / 北緯36.530611度 東経138.967583度座標: 北緯36度31分50.2秒 東経138度58分03.3秒 / 北緯36.530611度 東経138.967583度 |
主祭神 | |
神体 | 吾妻川 |
社格等 | |
創建 | 宝亀2年(771年)9月29日 |
本殿の様式 | 流造 |
別名 | 宿祢大明神 |
例祭 | 10月9日に近い日曜日 |
地図 |
甲波宿禰神社(かわすくねじんじゃ)は、群馬県渋川市川島にある神社。祭神は速秋津彦神、速秋津姫神[1]。上野国群馬郡の式内小社。旧社格は郷社。
由緒
[編集]当社の社記によれば、箱島村(現・東吾妻町箱島)の甲波宿禰神社、祖母島村(現・渋川市祖母島)の宿祢神社(現・武内神社)、湯上村(現・渋川市行幸田)の甲波宿禰神社は、文安年間(1444年 - 1449年)に当社から分祀されたものという[3]。
「甲波」を川、「宿禰」を「直根」として「川の本流」を意味する社名と解し、吾妻川沿いの箱島・祖母島・川島と「島」のつく地に3社が並んでいたことから、吾妻川を神格化したものと尾崎喜左雄は説明している[4]。
天明3年(1783年)7月に浅間山噴火で社殿が流失するが、天明5年(1785年)9月19日に現在地に再建される[5]。本殿は天明年間、拝殿は棟札から弘化2年(1845年)の建築とみられる[6]。
江戸時代には光明寺という修験寺院が別当寺として存在したが、明治維新後に廃寺となった[7]。
-
鳥居
-
神楽殿
-
古社地
社格
- 承和13年(846年)8月 - 従五位下(甲波宿禰神)[8][2]
- 嘉祥3年(850年)12月 - 官社[9][2]
- 貞観9年(867年)6月10日 - 従五位上(甲波宿禰神)[10][2]
- 貞観11年(869年)12月25日 - 正五位下(甲波宿禰神)[11][2]
- 貞観18年(876年)4月10日 - 正五位上(甲波宿禰神)[12][2]
- 元慶4年(880年)5月15日 - 従四位下(甲波宿禰神)[13][2]
- 永仁6年(1238)以前 - 従一位甲波宿祢神)(『上野国神名帳』一宮本)[14]
- 寛政5年(1794年)8月26日 - 正一位(甲波宿禰大明神)(宗源宣旨) [2]
- 明治13年(1881年)5月 - 郷社[15][2]
- 明治42年(1909年)2月27日 - 神饌幣帛料供進神社[15][2]
祭神
[編集]主祭神
合祀
- 大山祇神
- 誉田別神
- 川島村字西大塚の無格社・八幡社に祀られていた祭神。明治11年に氏子が提出した「神社保存願」が承諾され合祀を免れたが、明治40年7月に合祀した[16]。
配祀
-
本殿
-
本殿の装飾
境内社
[編集]摂社
- 諏訪神社
- 神明社
末社
- 天之御中主神、神皇産霊神、高皇産霊神、天照皇大神
- 天神社
- 猿田彦大神
- 庚申社
- 火雷神 - 寛政7年(1796年)6月18日合祀
- 牛頭天王 - 寛政7年(1796年)6月15日合祀
- 堅牢地神 - 享和3年(1804年)12月合祀
- 大黒天
-
諏訪神社
-
稲荷社
-
神明社
-
北辰社
文化財
[編集]渋川市指定重要文化財
[編集]- 甲波宿禰神社の算額(昭和50年1月30日指定)[20] - 幅190センチメートル、高さ80センチメートルの大きさで、安政3年(1856年)に利根郡筑地村(現・片品村)出身の千明慶悦が奉納したもの。算額の内容は、代数を使い直角三角形の底辺の長さを算出している[21]。
渋川市指定重要無形文化財
[編集]- 川島の獅子舞(昭和47年10月20日指定) - 川島獅子舞保存会によって演じられる、悪魔退散・無病息災・五穀豊穣を祈願する神事。境内社の諏訪神社の例祭(10月上旬)に奉納される[20]。天明3年(1783年)の浅間山噴火により中断したとみられるが、現存する獅子頭保存箱には天保4年(1833年)の紀年がありこの頃には再興されたとみられる。腰太鼓を胴につける一人立ち形式で、獅子頭は雄獅子(ほうがん)、雌獅子、子獅子の3頭から成る[22]。
交通
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 渋川市市誌編さん委員会 1984, p. 543.
- ^ a b c d e f g h i j 群馬県群馬郡教育会 1925, pp. 575–577.
- ^ 渋川市市誌編さん委員会 1993, pp. 883–884, 933–934.
- ^ 尾崎, 喜左雄『上野国神名帳の研究』尾崎先生著書刊行会、1974年12月10日、210-212頁。doi:10.11501/12266236。(要登録)
- ^ 渋川市市誌編さん委員会 1993, p. 235.
- ^ 渋川市市誌編さん委員会 1993, p. 236.
- ^ 渋川市市誌編さん委員会 1993, pp. 237, 960–962.
- ^ 『続日本後紀』《卷十六承和十三年(八四六)八月辛巳【十二】》○辛巳。奉授上野國群馬郡无位甲波宿禰神從五位下。
- ^ 『文徳天皇実録』《卷二嘉祥三年(八五〇)十二月庚戌【甲辰朔七】》○十二月庚戌。詔以上野國甲波宿禰神列於官社。
- ^ 『文徳天皇実録』《卷十四貞觀九年(八六七)六月廿日丁亥》○廿日丁亥。授上野國從四位下勳八等貫前神從四位上。從五位上赤城神。伊賀保神並正五位下。從五位下甲波宿禰神從五位上。
- ^ 『日本三代実録』《卷十六貞觀十一年(八六九)十二月廿五日戊申。》○廿五日戊申。授陸奧國五位上勳九等苅田嶺神從四位下。上野國正五位下赤城神。伊賀保神並正五位上。從五位上甲波宿禰神。近江國從五位上新川神並正五位下。
- ^ 『日本三代実録』《卷二十八貞觀十八年(八七六)四月十日丁巳》○十日丁巳。授上野國從四位上貫前神正四位下。正五位上伊賀保神從四位下。正五位下甲波宿禰神正五位上。
- ^ 『日本三代実録』《卷卅七元慶四年(八八〇)五月廿五日戊寅》○廿五日戊寅。授上野國正四位上勳八等貫前神從三位勳七等。從四位下赤城石神・伊賀保神並從四位上。正五位下甲波宿禰神從四位下。
- ^ 渋川市市誌編さん委員会 1993, pp. 233–234.
- ^ a b 『明治神社誌料: 府県郷社 上』群馬縣上野國群馬郡金島村大字川島字南大塚 郷社 甲波宿禰神社 より(出版社)明治神社誌料編纂所(発行年)明治45年
- ^ 渋川市市誌編さん委員会 1993, p. 876.
- ^ 渋川市市誌編さん委員会 1993, pp. 875–876.
- ^ 渋川市市誌編さん委員会 1984, pp. 639–643.
- ^ 渋川市市誌編さん委員会 1993, pp. 876–877.
- ^ a b “旧渋川市地区の指定文化財”. www.city.shibukawa.lg.jp. 2024年8月20日閲覧。
- ^ 渋川市市誌編さん委員会 1986, pp. 273–274.
- ^ 渋川市市誌編さん委員会 1986, pp. 299–230.
参考文献
[編集]- 群馬県群馬郡教育会『群馬県群馬郡誌』群馬県群馬郡教育会、1925年10月20日。doi:10.11501/1020918。
- 渋川市市誌編さん委員会 編『石造物と文化財』渋川市、1986年3月31日。doi:10.11501/12424075。(要登録)
- 渋川市市誌編さん委員会 編『渋川市誌』 第2巻 通史編・上 原始~近世、渋川市、1993年3月31日。doi:10.11501/9644681。(要登録)
- 渋川市市誌編さん委員会 編『渋川市誌』 第4巻 民俗編、渋川市、1984年10月1日。doi:10.11501/9643284。(要登録)