コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

白銀町 (八戸市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
白金浜から転送)
日本 > 青森県 > 八戸市 > 白銀町 (八戸市)
白銀町
白銀町の位置(青森県内)
白銀町
白銀町
白銀町の位置
北緯40度31分11.87秒 東経141度32分55.97秒 / 北緯40.5199639度 東経141.5488806度 / 40.5199639; 141.5488806
日本の旗 日本
都道府県 青森県
市町村 八戸市
人口
(2022年(令和4年)4月30日現在)[1]
 • 合計 11,070人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
031-0822
市外局番 0178[2]
ナンバープレート 八戸

白銀町(しろがねまち)とは、青森県八戸市町名である。37の小字がある[3]郵便番号031-0822。

地理

[編集]

八戸市東部に位置し、新井田川河口の右岸にあたる。内部で白銀を内包し、北に、八戸港、八戸漁港、築港街、東に鮫町、南に大久保白銀台岬台湊高台、西に湊町に接する。地内には、JR東日本八戸線白銀駅が立地する。幹線道路は、八戸階上線青森県道29号八戸環状線が通る。

小字

[編集]

字雷、字姥畑、字姥久保、字大久保道、字大沢片平、字大沢頭、字北側本町、字北外ノ沢、字木戸場、字久保下、字栗沢道、字源治囲内、字小沼、字佐部長根、字沢向、字下タ通、字昭和町、字白浜道、字新九郎蒔目、字洲賀端、字砂森、字田端、字大万堀、字寺ノ後、字中平、字人形沢、字八森、字浜崖、字左岩淵通、字左新井田道、字堀ノ内、字堀ノ外、字右岩淵通、字右新井田道、字三島上、字三島下、字南ケ丘

世帯数と人口

[編集]

2022年(令和4年)4月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

小字 世帯数 人口
392世帯 761人
姥畑 137世帯 260人
姥久保 172世帯 402人
大久保道 2世帯 4人
大沢片平 93世帯 176人
大沢頭 298世帯 588人
北側本町 2世帯 2人
北外ノ沢 18世帯 42人
木戸場 31世帯 62人
久保下 209世帯 451人
栗沢道 349世帯 765人
源治囲内 17世帯 37人
小沼 222世帯 459人
佐部長根 105世帯 227人
沢向 86世帯 131人
下タ通 7世帯 19人
昭和町 2世帯 4人
白浜道 208世帯 439人
新九郎蒔目 37世帯 72人
洲賀端 43世帯 68人
砂森 186世帯 332人
田端 101世帯 210人
大万堀 6世帯 12人
寺ノ後 30世帯 51人
中平 69世帯 142人
人形沢 93世帯 171人
八森 137世帯 269人
浜崖 98世帯 201人
左岩淵通 207世帯 407人
左新井田道 191世帯 373人
堀ノ内 162世帯 299人
堀ノ外 429世帯 823人
右岩淵通 302世帯 625人
右新井田道 241世帯 466人
三島上 140世帯 266人
三島下 17世帯 327人
南ケ丘 163世帯 281人
5,156世帯 10,224人

歴史

[編集]

1961年(昭和36年)に、地内で放火によって大規模火災に発展し1043戸が全焼した白銀大火が発生した。被災地域は災害復興を目的に土地区画整理事業が行われ近代的な住宅地が形成され、1974年昭和49年)に白銀住居表示で地内から分離した。 地内には、7つの学校と、青森労災病院がある。1952年(昭和27年)5月1日以前は、八戸市湊町の一部だった。

沿革

[編集]

三戸郡浜通村時代

  • 江戸時代から明治初年ごろ
    • 八戸藩三戸郡浜通村にあった10の浦(浜)の一地区として成立。浜通村の役所は、湊(現在の湊町)に設置されていたが、湊、白銀浜、鮫湊を合わせて八戸湊・八戸浦と言われていた。
    • 1681年天和元年)、36頭の捕獲して、解体後に鯨の骨で小川に橋を架けた。
    • 1690年元禄3年)、家数78、他領の持ち家4、猟船数46艇(6人乗り4、5人乗り1、3人乗り2、2人乗り28、半役12)[4]
    • 1769年明和6年)、鰯の〆粕、魚油の生産高は1130俵、315樽[5]
    • 1719年(享保4年)、八戸藩資料の浦数覚の中で、八戸廻りの一つとして「白金」の記述がある。
    • 1770年明和7年)、「湊に大船が入船することが難しいときは、白銀浜が対応して荷物を積むなり」[6]の記録がある。
    • 1826年文政6年)、船着場の防波堤工事がはじまる。
    • 1868年慶応4年)、軍艦孟春が白銀浦で座礁する。

湊村時代

  • 1868年(明治元年)から1929年(昭和4年)
    • 1868年(明治元年) 戸数11。土地の状況は下の下。田は無く、農耕する人4割、漁業する人4割、商漁する人2割だった。(商漁とはイサハと読む。遠方に魚を売りにいく人。現在でも『イサバのカッチャ』=(魚を遠くに売に行く女性)という言葉が残る)
    • 明治時代、地内の東南部に「大久保平」、西端に「浜の平」の2箇所に原野があった[7]
    • 1875年(明治8年)、清水小学校(現八戸市立白銀小学校)が地内の福昌寺内に創立する[8]
    • 1900年(明治33年)三戸郡湊村の小学校内に水産補習学校が付設(県立青森県立八戸水産高等学校の前身)
    • 1909年(明治42年)青森県水産試験場伝習部が開設(現青森県立八戸水産高等学校
    • 1925年(大正14年)、白銀尋常小学校(現八戸市立白銀小学校)が、地内字大久保道(現在地)に移転。校舎が増築される[8]
  • 1929年(昭和4年)地内が八戸市に編入する。

白銀町時代(現在)

地名の由来

[編集]

白銀は、江戸時代の浦名として命名されたと考えられている。藩政時代は「白金」「白金浜」とも言われていた。 文書に初めて登場したのは1617年元和3年)である。盛岡藩主南部利直によって根城南部氏の給所が田名部から八戸に移された際、その時、八戸の浜23箇所のうちに「一、しろかね」の記述が残る[9]

伝説

[編集]
  • 白銀4丁目にある福昌寺と地内にある法官家に義経をかくまったという伝説があり、現在も小字として「源治囲内(げんじかこいない)」が残っている[10]

芸能・民謡

[編集]
  • 芸能:神楽白銀四頭(しとう)権現
  • 民謡:白銀ころばし(白銀ころし)

交通

[編集]

鉄道

[編集]

施設

[編集]

教育

[編集]

病院

[編集]

公園・公民館・社寺

[編集]
  • 白銀緑地(字三島下)
  • 白銀水道公園(字雷35-10)
  • 三嶋神社(字三島上5-9)

 ・秋葉山神社(字大沢片平6-14)

出典

[編集]
  1. ^ a b 八戸市 (2022年4月30日). “八戸市人口データ(令和4年度)”. 八戸市. 2023年2月14日閲覧。
  2. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
  3. ^ 八戸市の地名(大字・字のつく住所)”. 八戸市 (2021年2月3日). 2024年8月26日閲覧。
  4. ^ 「さめの記録」
  5. ^ 「八戸勘定所日記」
  6. ^ 本文は、「(湊へ)大船が入りかたきときは白銀浜へかかり荷物積也」「日本汐路之記」
  7. ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会 (1985)「角川日本地名大辞典 青森県」角川書店 pp485
  8. ^ a b 八戸市立白銀小学校HP
  9. ^ 「遠野南部文書」角川日本地名大辞典編纂委員会 (1985)「角川日本地名大辞典 青森県」角川書店 pp485
  10. ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会 (1985)「角川日本地名大辞典 青森県」角川書店 pp484

関連項目

[編集]