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皇后宮職

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
皇后宮権大夫から転送)

皇后宮職(こうごうぐうしょく、こうごうぐうしき)は、かつて宮内省に設置されていた皇后家政機関

日本宮内庁においては宮内庁侍従職天皇皇后に関する事務を合わせて担当するため、現在は設置されていない。

職員

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  • 皇后宮大夫(こうごうぐうだいぶ)

皇后宮職の長。

  • 皇后宮女官長(こうごうぐうにょかんちょう)

皇后の側近奉仕のことを総括し、女官を監督する。 竹屋志計子[注釈 1]

  • 皇后宮女官(こうごうぐうにょかん)

皇后の側近奉仕のことを分掌し、女官長を補佐する。 四辻清子[注釈 2]、樹下範子[注釈 3]葉室光子橋本夏子、植松務子[注釈 4]、唐橋貞子[注釈 5]、壬生広子[注釈 6]、鳥居大路應子[注釈 7]、三上文子[注釈 8]、高倉忠子[注釈 9]、藤岡ヤス、西野亀子、清水谷秋子、千種任子[注釈 10]、慈光寺演子、西西子、堀川武子、山岡淑子、伊地知みき子、津軽理喜子[注釈 11]、油小路蒙子、北村民枝、万里小路そで[注釈 12]

  • 皇后宮御用掛(こうごうぐうごようがかり)

皇后の相談役。 高木多都雄[注釈 13]、吉見光子[注釈 14]

皇后宮大夫(明治 - 日本国憲法施行前)

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氏名 在任期間 備考
野宮定功 1869年9月3日 - 1871年1月30日
(明治2年7月27日 - 明治3年12月10日)
長谷信成 1871年1月30日 - 1871年11月16日
(明治3年12月10日 - 明治4年10月4日)
兼務
元田永孚 1878年(明治11年)6月20日 - 1881年(明治14年)5月14日
香川敬三 1881年(明治14年)5月14日 - 1882年(明治15年)11月15日
香川敬三 1882年(明治15年)11月15日 - 1886年(明治19年)2月4日 兼務
香川敬三 1886年(明治19年)2月5日 - 1912年(明治45年・大正元年)7月30日
一条実輝 1912年(明治45年・大正年)7月30日 - 1912年(大正元年)9月21日 心得
山内勝明 1912年(大正元年)9月21日 - 1912年(大正元年)12月17日 心得
馬場三郎 1912年(大正元年)12月28日 - 1914年(大正3年)6月27日 取扱
香川敬三 1914年(大正3年)6月27日 - 1914年(大正3年)7月31日 取扱
香川敬三 1914年(大正3年)7月31日 - 1915年(大正4年)3月20日 死去
徳川達孝 1915年(大正4年)3月23日 - 1916年(大正5年)6月22日 取扱
大森鍾一 1916年(大正5年)6月22日 - 1926年(大正15年・昭和元年)12月25日
珍田捨巳 1926年(大正15年・昭和元年)12月25日 - 1927年(昭和2年)3月3日 兼務
河井彌八 1927年(昭和2年)3月3日 - 1930年(昭和5年)3月4日 兼務
河井彌八 1930年(昭和5年)3月4日 - 1932年(昭和7年)9月17日
広幡忠隆 1932年(昭和7年)9月17日 - 1945年(昭和20年)10月23日
木下道雄 1945年(昭和20年)10月23日 - 1945年(昭和20年)11月24日

脚注

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注釈

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  1. ^ 竹屋光昭子爵令嬢。姉・津根子は皇太后宮女官長(貞明皇后)。
  2. ^ 羽林家・四辻公績大納言の三女。
  3. ^ 日吉大社社司・樹下成節
  4. ^ 植松雅言令嬢、梅溪通治子爵夫人。
  5. ^ 半家・唐橋在光少納言の長女。
  6. ^ 地下家・壬生輔世官務の娘。
  7. ^ 賀茂神社社司・鳥居大路道平の娘。
  8. ^ 北面武士三上景文六女。
  9. ^ 半家・高倉永胤侍従の三女。
  10. ^ 千種有任
  11. ^ 津軽承昭伯爵令嬢、津軽行雅男爵夫人。
  12. ^ 万里小路正秀男爵令嬢、猪野毛利栄政務官夫人。
  13. ^ 高木兼寛男爵令息、高木舜三帝国生命社長夫人。三井高景三井鉱山社長令嬢。
  14. ^ 北野天満宮宮司令嬢。

出典

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関連項目

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参考文献

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