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目黒護國神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
目黒護國神社
地図
所在地 東京都目黒区五本木二丁目20番17号
位置 北緯35度38分4.1秒 東経139度41分21秒 / 北緯35.634472度 東経139.68917度 / 35.634472; 139.68917 (目黒護國神社)座標: 北緯35度38分4.1秒 東経139度41分21秒 / 北緯35.634472度 東経139.68917度 / 35.634472; 139.68917 (目黒護國神社)
主祭神 日清戦争以降の戦没者約2300柱
社格 指定外護国神社
創建 1941年昭和16年)
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目黒護國神社(めぐろごこくじんじゃ)は、東京都目黒区にあった神社護国神社)。

歴史

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創建

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1941年昭和16年)3月に創建された。台湾日日新報社長だった守屋善兵衛(1930年没)の遺族より、目黒区に対して宅地居宅の一部を寄贈する申し出があり、その際に「忠霊を祀る神社を建設すること等」という条件があったので、当時の目黒区は公費で神社を創建した[1][2]

第二次世界大戦後、日本国憲法施行により、目黒区が神社を運営することができなくなったため(政教分離原則)、戦没者遺族が管理することになった。1958年(昭和33年)7月、目黒区立守屋図書館の改築にあたり神社を敷地内(五本木庚申塔[3]の隣接地)に移転した[1]1959年(昭和34年)10月に「目黒護國神社崇敬会」が設立され、目黒区と土地賃貸借契約(敷地面積198.50m2)を結ぶことになった[1]

廃社

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ところが、2000年平成12年)以降、管理者をしていた崇敬会の役員が死去したことにより、崇敬会の活動が休止した。目黒区に払う地代も滞納するようになり、御魂であった戦没者名簿も行方不明となった[2]

2005年度(平成17年度)の目黒区の包括外部監査で、単に政教分離上の問題だけでなく、建物が老朽化しており安全面でも問題があるとの指摘を受けた[1]

2008年(平成20年)7月、隣接する旧目黒区守屋教育会館の解体に伴い撤去された。他神社への合祀や他団体の管理も模索されたというが、折り合いがつかず結局断念することになった[2]

なお、目黒護國神社の跡地には防災備蓄倉庫が、旧目黒区守屋教育会館の跡地には私立保育園(旧目黒区立上目黒保育園の移転民営化[4])が建てられた(目黒区立守屋図書館が南側にある)。

所在地

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沿革

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  • 1940年昭和15年)
    • 7月 - 守屋善兵衛の遺族から旧邸宅の寄付申し込み(条件:忠霊を祀る神社を建設すること等)
    • 9月 - 寄付受領議決
  • 1941年(昭和16年)
  • 1947年(昭和22年)5月 - 日本国憲法施行により神社は遺族が管理
  • 1958年(昭和33年)7月 - 守屋図書館改築にあたり神社を敷地内で移転
  • 1959年(昭和34年)10月 - 目黒護国神社崇敬会設立
  • 1971年(昭和46年)4月 - 土地賃貸借契約を崇敬会と締結
  • 1974年(昭和49年)9月 - 賃貸料改定契約
  • 1976年(昭和51年)4月 - 土地賃貸借契約の更新
  • 1981年(昭和56年)4月 - 土地賃貸借契約の更新
  • 1986年(昭和61年)3月 - 土地賃貸借契約の期間満了
  • 1987年(昭和62年)4月 - 地代の授受を継続
  • 1998年平成10年)2月 - 関係者(遺族会)と話し合い
  • 1999年(平成11年)1月 - 関係者(崇敬会、遺族会)と話し合い
  • 2000年(平成13年)3月 - 地代未納につき土地賃貸借契約解除手続き
  • 2008年(平成20年)7月 - 隣接する旧目黒区立守屋教育会館の解体に伴い撤去

脚注

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  1. ^ a b c d 平成17年度 包括外部監査の結果報告書』目黒区、2006年2月、111-112頁https://www.city.meguro.tokyo.jp/documents/67/h17.pdf 
  2. ^ a b c 「戦没者ほこらひっそり幕 目黒護国神社、管理者なく」『東京新聞』2008年7月8日、夕刊。
  3. ^ 五本木庚申塔、目黒区
  4. ^ 区立保育園の民営化に関する計画(令和3年度~11年度)、目黒区

関連項目

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