相田二郎
人物情報 | |
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生誕 |
1897年5月12日 日本神奈川県 |
死没 | 1945年6月22日 (48歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 歴史学(日本中世史)・古文書学 |
研究機関 | 東京帝国大学 |
相田 二郎(あいだ にろう、1897年(明治30年)5月12日[1] - 1945年(昭和20年)6月22日[2])は、日本の歴史学者。東京帝国大学史料編纂官。専門は日本中世史、日本古文書学で、生涯にわたって古文書学の研究・教育につとめた[3]。
略伝
[編集]神奈川県足柄下郡早川村(現在の神奈川県小田原市)に生まれる。神奈川県立小田原中学校[1]、第四高等学校[4]を経て、1923年、卒業論文「土地沽却上の支拂品より見たる銭貨の流通状態 王朝時代鎌倉時代」をまとめ[5]、東京帝国大学文学部国史学科を卒業[6]。同大大学院進学とともに、同大学文学部史料編纂掛嘱託となる[2]。1927年に史料編纂官補[1](同年、有栖川宮奨学金を受ける[2])、1930年から、東京帝国大学文学部講師として古文書学を講義[2][7]、1933年に史料編纂官となった[8]。太平洋戦争のさなかの1944年、史料編纂掛の図書疎開のため長野県に出張し、終戦間際の1945年6月に病に罹り49歳で歿した。
生涯史料編纂掛にあって、『大日本古文書』の編纂に従事するとともに、黒板勝美の傍にて、日本古文書学の体系化につとめた(なお、黒板の著作集である『虚心文集』に収録する「古文書学概論」は、相田によって受講者のノートを纏め上げて作られたといわれる)。また、広島文理科大学、九州帝国大学法文学部に出向して古文書学を講じ、石清水八幡宮史・静岡県史・沼津市史の編纂や、皇室関係の調査委員(東山御文庫・歴代宸翰の調査委員、臨時陵墓調査委員[2])、東京都史蹟名勝天然紀念物調査嘱託[2]などを兼ねた。ほかに、史料の探訪・調査に余念がなく、その数は12府県にも及ぶ。特に彼の出身地である神奈川県下の中世文書調査・研究は、『新編相州古文書』に纏められている。
主要業績
[編集]- 「小田原合戦」高柳光寿編『大日本戦史』(1962年)に所収 1938年
- 『中世の関所』畝傍書房 1943年
- 『新編相州古文書』神奈川県郷土研究会 1944年
- 『日本の古文書』上・下 岩波書店 1949年・1954年
- 『蒙古襲来の研究』吉川弘文館 1958年
- 『小田原合戦 - 豊臣秀吉の天下統一と北条氏五代の滅亡』名著出版 1976年
- 『相田二郎著作集』全3巻 1976年 - 1978年
参考文献
[編集]- 「相田二郎追悼特輯」『歴史地理』88-4 1958年
- 署名なし「相田二郎氏履歴」『歴史地理』第88巻第4号、日本歴史地理学会、1958年、66-71頁。
- 永原慶二『20世紀日本の歴史学』吉川弘文館 2003年
- 西岡「彙報 東大卒業論文」『歴史地理』第41巻第4号、日本歴史地理学会、1923年、377-380頁、NCID AN00254866。
脚注
[編集]- ^ a b c 内閣 (1927年4月19日). “「相田二郎ヲ史料編纂官補ニ任用シ初任判任官俸給制限外支給ノ件」『公文雑纂・昭和二年・第二十七巻・初任判任官俸給制限外支給一』”. 国立公文書館. 2022年11月9日閲覧。
- ^ a b c d e f 署名なし 1958
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 2頁。
- ^ 『第四高等学校一覧・第十臨時教員養成所一覧 自大正9年9月至大正10年3月』第四高等学校、1920年12月14日、213頁。NDLJP:940339/116。
- ^ 西岡 1923
- ^ 『東京帝国大学一覧 從大正12年至大正13年』東京帝国大学、1924年8月15日、(12)頁。NDLJP:940172/298。
- ^ 『東京帝国大学一覧 昭和5年度』東京帝国大学、1930年7月5日、405頁。NDLJP:1454301/212。
- ^ 『東京帝国大学一覧 昭和11年度』東京帝国大学、1936年7月15日、350頁。NDLJP:1453465/185。