相馬昌胤
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相馬昌胤像(都玉神社蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 寛文元年7月7日(1661年8月1日) |
死没 | 享保13年10月6日(1728年11月7日) |
改名 | 虎之助(幼名)→昌胤 |
別名 | 采女(通称) |
戒名 | 建徳院殿勢誉峻岩孔照大居士 |
墓所 | 福島県相馬市中村宇多川町の興仁寺 |
官位 | 従五位下、弾正少弼 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 陸奥相馬中村藩主 |
氏族 | 相馬氏 |
父母 | 父:相馬忠胤、母:亀姫(相馬義胤の娘) |
兄弟 | 貞胤、昌胤 |
妻 | 正室:胤姫(松平頼元の長女) |
子 |
品(相馬叙胤正室)、尊胤(次男)、福胤(五男)、辰(板倉勝里正室)など 養子:叙胤 |
相馬 昌胤(そうま まさたね)は、江戸時代前期から中期の大名。相馬氏第21代当主。陸奥相馬中村藩第5代藩主。第3代藩主・相馬忠胤の次男。
生涯
[編集]延宝7年(1679年)12月18日、兄・貞胤が男子を残さず死去したため、末期養子として家督を相続した。同年12月26日、将軍徳川家綱に御目見する。同年12月28日、従五位下弾正少弼に叙任する。
元禄2年(1689年)3月2日、将軍徳川綱吉に召し出されて、奥詰になった。同年6月4日、側衆に転じる。同年8月21日、側衆を辞職する。元禄14年(1701年)2月11日に隠居し、婿養子の叙胤(佐竹義処の次男)に家督を譲った。その後、領内の幾世橋村に屋敷を新築し、隠居生活を送る。享保13年(1728年)10月6日、幾世橋村にて68歳で死去。幾世橋の興仁寺に葬られた。
『土芥寇讎記』で当時の領内について「藩士は豊かではなく、風俗も宜しくない。だが義を守る」と評価され、昌胤の政治についても「家民心易」とされている。昌胤個人の評価としては「(学は無いように見えるが)実はある」と強調されている。
系譜
[編集]父母
正室
- 胤姫 ー 松平頼元の長女
子女
養子