コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

佐竹義処

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
佐竹 義処
佐竹義処像(天徳寺蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永14年8月21日1637年10月9日
死没 元禄16年6月23日1703年8月5日
改名 徳寿丸(幼名)、義処
別名 次郎(通称)
戒名 徳雲院不山宗見
墓所 秋田県秋田市泉三嶽根の天徳寺
官位 従四位下右京大夫侍従左少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
出羽久保田藩
氏族 佐竹氏
父母 佐竹義隆光聚院
兄弟 義寘義処義慰義長、亀子
正室鶴姫
側室:智清院ら2人
義苗相馬叙胤義格藤堂高通養女、松平宣富正室、養真院、幻体院ら
テンプレートを表示

佐竹 義処(さたけ よしずみ、旧字体・正式表記: 義處)は、江戸時代前期から中期にかけての大名出羽国久保田藩の第3代藩主佐竹氏第21代当主。官位従四位下右京大夫侍従左少将

生涯

[編集]

寛永14年(1637年)、2代藩主・佐竹義隆の次男として誕生。

正保3年(1646年)8月12日、江戸幕府の3代将軍徳川家光御目見する。承応3年(1654年)12月26日、従四位下・右京大夫に叙任される。後に侍従、左少将に遷任される。

寛文12年(1672年)2月9日、父・義隆の死去により家督を相続した。元禄14年(1701年)2月11日、弟・義長に2万石、庶兄・義寘の子義都に1万石を分け与えた。

元禄16年(1703年)6月23日、領内横手城において死去、享年65。寝食を忘れ、時には吐血しながらも藩政改革に取り組んだが、傾いた財政を建て直す前に死去した。

長男・義苗は早世したものの、次男・相馬叙胤相馬中村藩主、三男・佐竹義格は久保田藩主になった。

系譜

[編集]
  • 父:佐竹義隆(1609-1672)
  • 母:光聚院(1620-1684)、寿流姫 - 佐竹義章の娘
  • 正室:鶴姫、宝明院(1649-1683) - 松平直政の娘
    • 長女:吉(凉月院)(1668-1672)
    • 次女:亀(常照院)(1670-1675)
    • 長男:佐竹義苗(1671-1699)
    • 三女:鍋(霜林院)(1675-1676)
    • 次男:相馬叙胤(1677-1711) - 相馬昌胤の婿養子
    • 四女:清(1679-1680) - 藤堂高通の養女
    • 五女:弁(霊苗院)(1680-1687)
  • 側室:覚性院(?-1691) 清 - 谷氏
    • 六女:岩(真覚院)(1687-1709) - 松平宣富正室
    • 七女:久(養真院)(1689-1731) - 黒田長軌正室
  • 側室:智清院(1665-1749) - 布施氏
    • 三男:佐竹義格(1695-1715)
    • 八女:源(円覚院)(1697-1703)
    • 九女:順(幻体院)(1703-1721) - 松平宣維正室

偏諱を受けた人物

[編集]

 (※「処」は正式には旧字体で「處」と書くのが正しい。)