佐竹義術
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政5年7月2日(1793年8月8日)[1] |
死没 | 天保12年10月14日(1841年11月26日)[1] |
改名 | 百太郎(幼名)→義術 |
別名 | 又四郎、河内(通称) |
戒名 | 慈徳院殿俊山良英 |
主君 | 佐竹義厚 |
藩 | 出羽国久保田藩角館所預 |
氏族 | 佐竹北家 |
父母 | 父:佐竹義文、母:戸村義敬の長女 |
妻 | 正室:佐竹義恭の娘(佐竹義純の姉または妹) |
子 |
於庫(多賀谷厚孝正室)、武子(佐竹義茂正室)、義陳 養子:義許 (多賀谷厚孝の子) |
佐竹 義術(さたけ よしやす)は、佐竹氏一門の佐竹北家第15代当主。佐竹北家角館第8代所預。
生涯
[編集]寛政5年(1793年)、佐竹義文の子として生まれる。文政7年(1824年)、藩主佐竹義厚が将軍徳川家斉に拝謁する際に同席する。文政8年(1825年)、父の隠居により家督を相続し、角館城代となる。天保5年(1834年)、北浦一揆が発生すると、自ら一揆勢と面談して取り鎮めた。天保7年(1837年)、嫡男の義陳(よしのぶ)が17歳で早世する。天保12年(1841年)死去。家督は外孫(長女の長男)で多賀谷厚孝の長子である義許が養子となって相続した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 林正崇『図説・角館城下町の歴史』無明舎出版、1982年