佐竹義躬
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
---|---|
生誕 | 寛延2年8月1日(1749年9月16日)[1][注釈 1] |
死没 | 寛政12年1月16日(1800年2月9日) |
改名 | 太郎(幼名)→義寛(初名)→義躬 |
別名 | 河内、主計(通称)、雪松、嘯月亭、小松山人、一謙亭(号)、素盈(俳号) |
戒名 | 泰俊院殿武山良威 |
主君 | 佐竹義敦→義和 |
藩 | 出羽国久保田藩角館所預 |
氏族 | 佐竹北家 |
父母 | 父:佐竹義邦 |
妻 | 多賀谷峯章の娘 |
子 | 義文 |
佐竹 義躬(さたけ よしみ)は、佐竹氏一門の佐竹北家第13代当主。佐竹北家角館第6代所預。
生涯
[編集]寛延2年(1749年)、佐竹義邦の長男として生まれる。明和6年(1769年)、父の隠居により家督を相続し、角館城代となる。安永4年(1776年)、藩主佐竹義敦の帰国の御礼使者として江戸に出府し、将軍徳川家治に拝謁する。天明元年(1781年)、光格天皇即位式典の祝賀使を務める。天明8年(1789年)、藩主佐竹義和の将軍徳川家斉への御目見の介添えを務める。寛政5年(1793年)、郷校弘道書院を開設する。寛政11年(1799年)、隠居して家督を嫡男義文に譲る。寛政12年(1800年)死去、享年52。
小田野直武から教えを受けて、花鳥図などの洋風画を描いており、直武・佐竹義敦(曙山)と並ぶ秋田蘭画の代表的な画家の一人である。父義邦と同じく谷素外に師事し、素盈と号した俳人としても活躍している。
作品
[編集]作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
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松にこぶし図 | 絹本著色 | 1幅 | 121.0x31.0 | 歸空庵(板橋区立美術館寄託) | 款記「雪松畫」/「源義躬」朱文方印・「字通大」白文方印 | ||
桜図 | 絹本著色 | 1幅 | 98.7x33.8 | 神戸市立博物館 | |||
岩に牡丹図 | 絹本著色 | 1幅 | 100.5x31.5 | 個人 | 款記「小松山人源義躬畫」/「小松山人」朱文方印・「源義躬印」白文方印 | ||
岩に牡丹図 | 絹本著色 | 1幅 | 93.2x31.3 | 個人 | 款記「源義躬」/「小松山人」朱文方印・「源義躬印」白文方印 | ||
岩に牡丹図 | 絹本著色 | 1幅 | 108.0x28.8 | 秋田県立近代美術館 | 款記なし/「義躬」白文方印・「一謙亭」朱文方印 | 義躬の父・義邦による賛「昔吟 此家に 是はと おもふ 牡丹かな」 | |
白牡丹図 | 紙本著色 | 1幅 | 秋田市立千秋美術館 | ||||
岩に蔦と芙蓉図 | 紙本著色 | 1幅 | 秋田市立千秋美術館 | ||||
金頭図 | 紙本著色 | 1幅 | 個人(秋田市立千秋美術館寄託) | ||||
紫陽花図 | 1幅 | 角館歴史村・青柳家 | |||||
円窓牡丹図 | 絹本著色 | 1幅 | 73.3x32.8 | 神戸市立博物館 | 款記「添幽仙客」「嘯月閑人」/「小松山人源義躬畫」/「小松山人」白文方印・「源義躬」朱文方印 | ||
紅毛玻璃図 | 絹本著色 | 1幅 | 37.0x53.0 | 秋田県立近代美術館 | 「小松山人」朱文方印・「源義躬印」白文方印 | 田代忠国との合作 | |
植物写生図 | 紙本著色 | 10幅 | 仙北市学習資料館 | 無款 | 仙北市指定文化財 |
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 林正崇『図説・角館城下町の歴史』無明舎出版、1982年
- 内田洸 池田芙美 柴橋大典編集 『世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画』 サントリー美術館、2016年11月16日