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県下名勝史蹟四十五佳選

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石小屋ダムから望む石小屋湖(本文参照)

県下名勝史蹟四十五佳選(けんかめいしょうしせきよんじゅうごかせん)は、横浜貿易新報社(神奈川新聞社の前身)が1935年昭和10年)に創業45周年と新社長就任の記念事業[注 1]の一つとして読者投票により選定した神奈川県下45箇所の名勝史蹟。村会や青年団などの諸団体による組織的な投票が行われたため、旧来からの名勝史蹟よりも、比較的新しい場所が多く含まれる結果となった。選定後には、俳句・川柳の募集、『横浜貿易新報』紙への紹介記事の掲載、記念標の造立などの顕彰事業が行われた[2]

名勝史蹟一覧

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選定された45箇所の名勝・史蹟は以下の通り[2]

第1位の石小屋は、「天然の大石が柱となり、床となって八畳敷の座敷を造って、四季を通じて訪れる観光客は、自然美の偉大さを痛感する」(『愛川町郷土誌』)、中津川渓谷随一の景勝地[3]だったが、宮ヶ瀬ダムに付随する石小屋ダムの建設によって水没した[4]

順位 名勝史蹟名[注 2] 得票数 所在地[注 3]
1 石小屋 284,726 愛甲郡愛川町半原
2 妙香寺 275,770 横浜市中区妙香寺台
3 峰の灸 239,345 横浜市磯子区峰町
4 玉泉寺 218,220 横浜市南区中村町1丁目
5 八菅神社 168,880 愛甲郡愛川町八菅山
6 早川城趾 166,204 綾瀬市早川城山3丁目
7 石老山 163,165 相模原市緑区寸沢嵐
8 浅間神社 146,967 横浜市西区浅間町1丁目
9 八景ノ棚 146,393 相模原市南区下溝
10 宮ヶ瀬渓谷 131,222 愛甲郡清川村宮ヶ瀬
11 道了尊御本地 123,417 伊勢原市高森台1丁目
12 ペルリ上陸記念碑 121,684 横須賀市久里浜7丁目
13 丹沢の大滝 116,718 相模原市緑区鳥屋
14 金砂山子育観音 111,775 藤沢市藤沢
15 北向庚申神社 109,722 座間市栗原中央1丁目
16 鬼子母神常照寺 105,437 横浜市南区南太田1丁目
17 重国城趾天満宮 095,169 藤沢市長後
18 城山城趾 092,829 相模原市緑区根小屋
19 鮎の水郷田名 083,413 相模原市中央区水郷田名2丁目
20 花水河口 080,350 平塚市虹ケ浜
21 志田山朝日寺 071,895 相模原市緑区長竹
22 青柳寺 069,718 相模原市南区上鶴間本町3丁目
23 称名寺百観音 064,114 横浜市金沢区金沢町
24 三眼六足稲荷 062,145 海老名市河原口2丁目
25 与瀬神社 060,616 相模原市緑区与瀬
26 綱島温泉桃雲台 059,374 横浜市港北区綱島東2丁目
27 永谷天満宮 050,729 横浜市港南区上永谷5丁目
28 大ダルミ 050,311 相模原市緑区千木良
29 若雷神社 046,799 横浜市港北区新吉田町
30 三浦畠山地蔵尊 046,593 三浦郡葉山町長柄
31 畠山重忠霊堂 044,142 横浜市旭区鶴ケ峰本町2丁目
32 波切不動の滝 042,373 横浜市緑区鴨居2丁目
33 吾妻神社 041,461 中郡二宮町山西
34 宝泉寺 039,646 藤沢市遠藤
35 柏山稲荷 039,607 藤沢市城南3丁目
36 金蔵院安産子育観音 039,270 横浜市金沢区釜利谷東5丁目
37 広沢寺温泉 038,481 厚木市七沢
38 金目観音 038,196 平塚市南金目
39 円満寺白衣観音 038,100 横浜市西区久保町
40 座間神社 037,816 座間市座間1丁目
41 白滝不動尊 037,666 横浜市中区根岸町3丁目
42 龍源院弁財天 036,578 座間市入谷西2丁目
43 旧城寺 036,252 横浜市緑区三保町
44 日限地蔵尊 035,638 横浜市港南区日限山1丁目
45 滝出現見合不動尊 034,837 藤沢市葛原

選外

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入選は逃したが得票数の多かった以下の10箇所も公表された[5]

順位 名勝史蹟名 得票数 所在地[注 4]
46 滝不動 34,727 中郡北秦野村
47 碓氷峠 33,240 足柄下郡宮城野村
48 宇賀神社 30,743 大磯町東小磯
49 浅間町子育地蔵 29,039 横浜市浅間町
50 大岡越前墓所浄見寺 27,752 高座郡小出村
51 神澤江岸 26,966 高座郡大沢村
52 大雄山最乗寺 26,705 上郡関本
53 七沢城趾 26,660 愛甲郡玉川村
54 松田城趾 23,790 松田町
55 名勝曲松 20,684 中郡西秦野村

選定経緯

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『横浜貿易新報』は「隠れたる勝地讃ふべき史蹟を再検討して広く之を世に出す」ことを名勝史蹟投票の事業目的として掲げた[1]。さらに、「その名勝史蹟による土地の発展は著しいものがある」[6]ため、「欲求するものは『世に出す機会』である」」[6]としている。

読者による投票は1935年9月5日から10月5日まで行われた。その間、毎日2票の投票用紙が『横浜貿易新報』の紙面に掲載されたが、官製はがきによる投票も可とされた。投票開始翌日の9月6日からは、各地の「抜きつ抜かれつ」の得票数が連日報じられ、投票を盛り上げた[2]

得票経過を報じる記事には、「宣戦の烽火挙り」[7]「戦機全く熟して」[8]「戦線に灼熱の火花」[9]「奮迅の一斉猛射に」[10]「戦線に歓声漲る」[11]「戦闘旗を打連ねて」[12]「戦線に赤色信号」[13]「全線にわたる大進軍」[14]「旗鼓堂々と進軍」[15]「爆撃の機今や来る 各陣営に突撃喇叭」[16]「全戦線に妖雲漲る」[17]「死闘力戦の一日」[18]など、戦況報道のようなセンセーショナルな見出しが付けられ、読者の関心を引いて投票へと駆り立てた[4]

また、各地での組織的な投票についても報じられ[2]、戸塚桜堤保勝会[19][20]津久井城山史蹟保存会、旅小屋連合青年会、八景の棚保勝会、湯河原振興会[20]、軍港観光協会[10]、子育地蔵講(浅間町)[15]、横浜小出会[21]、宮ヶ瀬青年団[22]などの団体名が挙げられたほか、投票を期に各地に当選期成会[10][23]や保勝会[24]が結成され活動していることが伝えられている。麻溝村では臨時の村会が招集され[25]、宮ヶ瀬村では全村での『横浜貿易新報』紙購読が決議された[12]

総投票数は500万票とされる[5]

投票開始の翌日から結果発表までに『横浜貿易新報』に掲載された名勝史蹟のうち、上位の5位までの推移は以下の通り。

日付 1位 2位 3位 4位 5位
9月6日[7] 震生湖 桃雲台 八聖殿 衣笠城 遊行寺
9月7日[26] 宝泉寺 三眼六足稲荷 本牧神社 三ツ池 震生湖
9月8日[19] 三眼六足稲荷 宝泉寺 宮ヶ瀬渓谷 本牧神社 三ツ池
9月9日[8] 宝泉寺 広沢寺温泉 三眼六足稲荷 宮ヶ瀬渓谷 本牧神社
9月10日[20] 三眼六足稲荷 広沢寺温泉 宝泉寺 本牧神社 国歌君ヶ代発祥地[注 5]
9月11日[25] 宝泉寺 三眼六足稲荷 広沢寺温泉 本牧神社 国歌君ヶ代発祥地
9月12日[27] 八景ノ棚 八菅神社 広沢寺温泉 三眼六足稲荷 宝泉寺
9月13日[9] 三眼六足稲荷 八景ノ棚 八菅神社 宝泉寺 広沢寺温泉
9月14日[28] 石小屋 三眼六足稲荷 宮ヶ瀬渓谷 綱島温泉桃雲台 八菅神社
9月15日[10] 八菅神社 石小屋 三眼六足稲荷 宮ヶ瀬渓谷 綱島温泉桃雲台
9月16日[11] 三眼六足稲荷 八菅神社 峰の灸円海山 石小屋 玉泉寺
9月17日[12] 峰の灸円海山 三眼六足稲荷 八菅神社 石小屋 玉泉寺
9月18日[13] 峰の灸円海山 三眼六足稲荷 八菅神社 石小屋 玉泉寺
9月19日[29] 峰の灸円海山 石小屋 三眼六足稲荷 八菅神社 玉泉寺
9月20日[24] 石小屋 峰の灸円海山 三眼六足稲荷 八菅神社 玉泉寺
9月21日[30] 八菅神社 石小屋 峰の灸円海山 三眼六足稲荷 志田山朝日寺
9月22日[14] 八菅神社 石小屋 峰の灸円海山 三眼六足稲荷 志田山朝日寺
9月23日[23] 八菅神社 峰の灸円海山 石小屋 三眼六足稲荷 志田山朝日寺
9月24日[31] 八菅神社 峰の灸円海山 石小屋 三眼六足稲荷 柏山稲荷神社
9月25日[15] 八菅神社 重国城趾天満宮 峰の灸円海山 石小屋 三眼六足稲荷
9月26日[32] 八菅神社 重国城趾天満宮 峰の灸円海山 石小屋 三眼六足稲荷
9月27日[21] 八菅神社 志田山朝日寺 重国城趾天満宮 峰の灸円海山 城山城趾
9月28日[16] 八菅神社 志田山朝日寺 峰の灸円海山 重国城趾天満宮 三眼六足稲荷
9月29日[22] 八菅神社 志田山朝日寺 浅間神社 峰の灸円海山 重国城趾天満宮
9月30日[33] 宮ヶ瀬渓谷 八菅神社 道了尊御本地 峰の灸円海山 志田山朝日寺
10月1日[34] 浅間神社 石小屋 道了尊御本地 宮ヶ瀬渓谷 八菅神社
10月2日[35] 石小屋 浅間神社 玉泉寺 宮ヶ瀬渓谷 道了尊御本地
10月3日[17] 石老山 石小屋 玉泉寺 峰の灸円海山 浅間神社
10月4日[36] 石小屋 妙香寺 石老山 玉泉寺 称名寺百観音
10月5日[18] 石小屋 石老山 妙香寺 宮ヶ瀬渓谷 ペルリ上陸記念碑
10月7日[5] 石小屋 妙香寺 峰の灸 玉泉寺 八菅神社

顕彰事業

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投票開始後の1935年9月7日に俳句・川柳の募集が選者の柴田五万石によって予告され[37]、10月7日の投票結果の発表とともに、「当選せる四十五ヶ所と次点十位迄を適宜に詠む事」とする募集規定が発表された[5]。10月19日に締切となった[2]。22,934句の応募作から飯田九一ら10名の選者によって684の入選句と17の推薦句が選ばれ、12月16日の紙上で発表された[4]

結果発表の翌日から「祝賀訪問隊」による当選地訪問が開始された[2]。10月8日の朝刊には、その日のうちに石小屋、志田山朝日寺、丹沢大滝など10ヶ所を「『陸のヨット』ダットサンを連ね」て巡るスケジュールが掲載されている[38]。8日から10日までの3日間で各地を回る予定だったが、実際に訪問を終えたのは10月24日となった[4]

11月から翌年3月まで、入選した45箇所および選外の10箇所の紹介記事が『横浜貿易新報』紙上に連載された[2]

顕彰事業として写真帖・絵葉書の作成も予告されていたが、実際には作成されなかった[2]

記念標

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入選した名勝史蹟には、その名称と「縣下名勝史蹟四十五佳選當選記念」「横濱貿易新報社」と刻まれた記念標が造立され、現在でも数多く残されている[2]

各地における活動

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『横浜貿易新報』紙上で報じられた以外にも、地域をあげての投票活動が行われ、入選後には祝賀活動が行われた[40]

綱島温泉桃雲台

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26位の綱島温泉桃雲台の入選には、地域の名望家飯田助夫が尽力した[40]。「飯田助夫日記」の9月6日には「貿易新報四十五名勝史蹟の為綱島神明山桃雲台投票印」の注文記録が、9月27日には「横浜貿易新報四十五名勝史蹟投票綱島温泉桃雲台ノ為メ」に新聞店に20円[注 7]を支払った記録が残されており、投票のために新聞を大量に購入したことがうかがえる[2]

若雷神社

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29位で入賞した若雷神社では、神社の主催で祝賀会が開催された。その決算報告は、当時の新田村村長・相澤昵宗の若雷神社関係書類の一部として残されている。入選の翌々年(1937年)1月16日には記念標の除幕式が行われ、その際の記念写真が作製された[40]

滝出現見合不動尊

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45位に入賞した滝出現見合不動尊は、御所見村の部落区長からの依頼で御所見村青年団葛原支部が運動を担った。当時、約30名いた支部の団員が毎朝交代で新聞配達を行い運動資金を調達していたほか、二反三畝の共有地で甘薯を耕作して25円程の利益を上げていた。支部長と役員が投票券を集め、締め切りが近づくと連日新聞社に行って状況を見極めた。記念標は3年後の1938年(昭和13年)に造立された[41]

脚注

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注釈

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  1. ^ 豪華大花火大会、特選民謡競演会、青年代表雄弁大会、自転車選手権競走、交通・衛生・防火普及と選挙粛正の週間、本県警察博覧会、時局政経講演会、県下四十五勝地投票の8事業[1]
  2. ^ 入選発表時の名称[5]
  3. ^ 現在の地名
  4. ^ 地名は紙面のまま
  5. ^ 入選時の名称は「妙香寺」
  6. ^ 緑区遺産 登録番号015[39]
  7. ^ 当時の『横浜貿易新報』の1ヶ月の購読料は70銭[2]

出典

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  1. ^ a b “本社創業四十五周年 新社長就任祝賀 記念緒事業の巨弾”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月3日) 
  2. ^ a b c d e f g h i j k 百瀬敏夫「1935年神奈川県名勝・史蹟投票」『市史通信』第6巻、横浜市史資料室、2009年、8-10頁。 
  3. ^ 愛川町教育委員会,愛川町郷土誌編纂委員会『愛川町郷土誌』愛川町、1982年、500-501頁。 
  4. ^ a b c d 平本元一「県下名勝史跡四十五選佳選」『県央史談』第54号、県央史談会、2015年、51-59頁。 
  5. ^ a b c d e “珠玉の四十五勝地決定 栄冠半原「石小屋」に輝く 肩々相磨す伯仲の大接戦 総投票数実に五百万”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年10月7日) 
  6. ^ a b “武相を壓す怒涛の人気 「四十五名勝投票」の展開 用意成る!五日より第一線 “景勝神奈川”総動員だ”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月3日) 
  7. ^ a b “宣戦の烽火挙り 登場の名勝史蹟 震生湖、桃雲台、衣笠城趾 霊地に沸く善男善女の熱狂”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月6日) 
  8. ^ a b “戦機全く熟して 灼熱の歓声高し 「広沢寺温泉」見事に抜き 続々登場名勝史蹟の「鳥瞰図」”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月9日) 
  9. ^ a b “三眼六足稲荷 見事な三段飛び 各地群雄を抜き悠々たり 戦線に灼熱の火花”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月13日) 
  10. ^ a b c d “奮迅の一斉猛射に 「八菅神社」の凱歌 「峰のお灸」虚を突き台頭 躍進鋭し衣笠城趾”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月15日) 
  11. ^ a b “三眼稲荷に再度の凱歌 峰のお灸も超飛躍 古刹「玉泉寺」も打つて出で 戦線に歓声漲る”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月16日) 
  12. ^ a b c “戦闘旗を打連ねて 「峰のお灸」王座へ 全村本誌購読を決議して 「宮ヶ瀬渓谷」の奮起”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月17日) 
  13. ^ a b “対敵目指す進軍 戦線に赤色信号 各地に涙ぐましい挿話 四十五名勝史蹟投票・第二期線”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月18日) 
  14. ^ a b “燦たり!!金鵄勲章 重国城趾天満宮 秘策を練って嵐を呼び 全線にわたる大進軍”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月22日) 
  15. ^ a b c “重国城趾天満宮 旗鼓堂々と進軍 栄冠のゴール間近く迫り 巨豪新鋭乱戦展開”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月25日) 
  16. ^ a b “爆撃の機今や来る 各陣営に突撃喇叭 殊勲は御所見の「見合不動」 風雲の影に挿話の泉”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月28日) 
  17. ^ a b “長谷川村長の采配に 石老山勝名乗り 勝敗を決すゴール、あと三日 全戦線に妖雲漲る”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年10月3日) 
  18. ^ a b “厳かに最後の審判 死闘力戦の一日 けふ締切は午後五時 油断は大敵、爆撃へ”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年10月5日) 
  19. ^ a b “王座に躍り出た 三眼六足稲荷 武相名勝新風土記に 青年団、村会総立ち”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月8日) 
  20. ^ a b c “一上一下の乱戦に 手に汗する県民 「君ヶ代発祥の地」躍進 四ツに組む三巨豪”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月10日) 
  21. ^ a b “ヒットヒット見事な好打だ 「志田山朝日寺」万歳 「城山」勇躍して五位陣へ 萩の宝泉寺も逆襲だ”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月27日) 
  22. ^ a b “果然龍虎の勢に 浅間神社第三位へ 頑張る安産帯解子育観世音 惑星妙香寺も驀進”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月29日) 
  23. ^ a b “期成会各地に活躍 “峰の円海山”驀進 目覚し渋谷「重国城趾天満宮」 城山も一気に爆撃”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月23日) 
  24. ^ a b “「石小屋」三度生還し 十位線の肉弾戦 永野村「日限地蔵」驚異の飛躍 「石老山」また不断の善戦”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月20日) 
  25. ^ a b “新登場踵を接し 十位線全く混乱 村会招集の高座麻溝 田名、成瀬も挙村蹶起”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月11日) 
  26. ^ “萩の名所「宝泉寺」 新鋭突如と進出 古豪も競って出て立てば 気負ふ各地の温泉郷”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月7日) 
  27. ^ “北相の気焔万丈 「八景の棚」王座へ 湘南の処女地「小和田海岸」 物々し新鋭の突撃”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月12日) 
  28. ^ “浜生糸街の熱援で 半原の「石小屋」突出 「与瀬の権現様」も御出陣だ 綱島温泉も突撃開始”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月14日) 
  29. ^ “石小屋(半原)盛返して 旋風を巻き起こす 王座を狙ふ玉泉寺、浅間神社 韋駄天の宝泉寺”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月19日) 
  30. ^ ““八菅神社”又も突撃 天馬空を行く志田山朝日寺 巨豪一斉射撃の下知 岡村天満宮颯爽と乗出す”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月21日) 
  31. ^ “魚河岸の声援に 柏山稲荷一躍五位 鳥屋の大滝も挺身的突出 十位線は四分五裂”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月24日) 
  32. ^ “見事な武者ぶり 石老山と宮ヶ瀬渓谷 新鋭万騎ヶ原古戦場、八幡台 果敢な奇襲に出づ”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月26日) 
  33. ^ ““宮ヶ瀬渓谷”勝名乗り 道了尊御本地風雲を衝く 各陣営に指令は飛んで 大船「松竹映画街」台頭”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年9月30日) 
  34. ^ “「水郷田名」の大躍動 玉杯は「浅間神社」へ あと五日、大量票殺到 決戦の大幟、全県を蔽ふ”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年10月1日) 
  35. ^ “「石小屋」の一投奏功 十位陣は大混乱 金沢「百態観音」俄かに出軍 ペルリ記念碑も大突撃”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年10月2日) 
  36. ^ “常勝軍「石小屋」だッ 新鋭、脅威の猛進撃 残された今明二日の決戦 最終締切は午後五時”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年10月4日) 
  37. ^ 柴田五万石 (1935年9月7日). “県下名勝 俳句川柳に就て”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社) 
  38. ^ “栄冠の四十五勝地へ 本社の「祝賀訪問隊」 「陸のヨット」ダットサンを連ね けふは北相の十勝地巡歴”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社). (1935年10月8日) 
  39. ^ 山田右京之進城跡碑”. 2022年4月11日閲覧。
  40. ^ a b c 石崎康子「展示余話 横浜貿易新報社主催「神奈川県名勝・史蹟四十五佳選」と地域の人々」『開港のひろば』第136号、横浜開港資料館、2017年4月26日、4-5頁。 
  41. ^ 矢部多喜好『ふえん』矢部多喜好、1991年、46-47頁。