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真田幸世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
真田 幸世
さなだ ゆきよ
生年月日 1870年3月27日
(旧暦明治3年2月26日
没年月日 (1948-01-12) 1948年1月12日(77歳没)
出身校 学習院
所属政党 研究会
称号 正三位勲三等男爵
配偶者 真田綾子
親族 真田幸民(養兄)

選挙区 伯子男爵議員
当選回数 4回
在任期間 1897年7月10日 - 1925年7月9日
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真田 幸世(さなだ ゆきよ、明治3年2月26日1870年3月27日) - 昭和23年(1948年1月12日)は、日本政治家位階正三位勲等勲三等爵位男爵学習院出身[1]貴族院議員日本赤十字社常議員などを歴任。

寛政の改革を行った老中松平定信は高祖父、天保の改革の一翼を担った松代藩第8代藩主・真田幸貫は曾祖父に当たり、享保の改革を行った第8代将軍徳川吉宗の男系子孫に当たる。妻は阿部正恒の娘・綾子。子に真田幸邦(長男)、真田幸和(次男)。

生涯

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明治3年(1870年)2月26日、真田幸教の四男として生まれたが、父は幸世が生まれる前に死去している。父の養嗣子である幸民伊達宗城の長男)が松代真田家を継いでいたため、明治29年(1896年6月30日に分家し、特旨により華族に列して男爵を授爵する[2]

明治30年(1897年7月10日の第2回伯子男爵議員選挙で初当選し、貴族院議員に就任。研究会に所属した。明治37年(1904年)の日露戦争に際し、朝鮮半島および満州に派遣された満州丸に乗船して軍事視察を行う[3]。この功により、明治39年(1906年4月1日勲四等旭日小綬章を受章。明治43年(1910年)にはアルゼンチン独立100周年記念式典に派遣される生駒に同行し、貴族院の嘱託を受けて1年間の欧米視察を行った[3]大正5年(1916年)4月1日には第一次世界大戦の功により勲三等瑞宝章を受章した。

貴族院議員は連続4期28年務めたが、大正14年(1925年7月9日の任期満了と同時に政界を引退、東京を離れて長野県埴科郡松代町1番地(現在の長野市松代町)の真田邸で余生を過ごした。昭和23年(1948年1月12日、死去。77歳没。跡は長男の幸邦が継いだ。

栄典

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著作

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  • 『象山佐久間先生』(象山神社奉賛会、1938年)

脚注

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  1. ^ 華族会館[1937: 519]
  2. ^ 筒井[1911: 234]
  3. ^ a b 水野[1914: 701]
  4. ^ 『官報』第3901号「叙任及辞令」1896年7月1日。
  5. ^ 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。

参考文献

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  • 筒井住蓮編 『大日本華族大鑑』 都通信社、1911年、233-234頁。
  • 水野慶次編 『華族大系』 系譜社出版部、1914年、701頁。
  • 華族会館編 『華族家庭録(昭和11年12月調)』 華族会館、1937年、519頁。
  • 華族大鑑刊行会 『華族大鑑』 日本図書センター、1990年、462頁。
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
松代真田家(分家)初代
1896年 - 1947年
次代
華族制度廃止