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真砂石濱五郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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真砂石 濱五郎
基礎情報
四股名 真砂石 濱五郎
本名 千葉 長七(旧姓:遠藤)
生年月日 (1891-05-15) 1891年5月15日
没年月日 (1918-04-06) 1918年4月6日(26歳没)
出身 宮城県仙台市
身長 170cm
体重 88kg
所属部屋 尾車部屋峰崎部屋
成績
現在の番付 引退
最高位小結
生涯戦歴 47勝38敗5預4休[1](21場所)
幕内戦歴 39勝34敗3預4休(8場所)
データ
初土俵 1908年1月場所
入幕 1914年5月場所
引退 1918年1月場所
備考
2019年6月23日現在

真砂石 濱五郎(まさごいし[2] はまごろう、1891年5月15日 - 1918年4月6日[3])は、宮城県仙台市出身の大相撲力士。本名は千葉 長七(ちば ちょうしち)(旧姓:遠藤)。

来歴

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1891年5月15日宮城県仙台市で生まれる。尾車部屋に入門して1908年1月場所で初土俵を踏むと、1913年5月場所で新十両昇進、1914年5月場所で新入幕を果たした。この間1916年に師匠が死去し、峰崎部屋へ移籍している。1917年5月場所で小結に昇進するも大敗し、一場所で陥落してしまう。1918年1月場所で勝ち越したことで一場所での三役復帰が濃厚だったが、その後に参加した台湾巡業中に大腸破裂を起こし急死した。26歳没[4]。死因について、当時日本本土ではまだ本格的に流行していなかったスペインかぜによるものという説もあり[5]速水融はスペインかぜであった可能性を指摘している。因みに、台湾日日新聞6月20日付では「不思議な熱病現はる 伝染性流行と為せり」と報じられていた。日本に戻った力士達は免疫を得たのか大事には至らなかったが、1918年の秋には各地で感染が爆発し、整備が進む鉄道網に乗って全国へと拡大していった[6]

成績

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  • 現役在位:21場所
  • 関取成績:47勝38敗5預4休(10場所)
  • 幕内成績:39勝34敗3預4休(8場所)

場所別成績

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真砂石 濱五郎
春場所 夏場所
1908年
(明治41年)
西序ノ口22枚目
 
西序二段41枚目
 
1919年
(大正8年)
東序二段12枚目
 
西三段目40枚目
 
1910年
(明治43年)
西三段目24枚目
 
東三段目46枚目
 
1911年
(明治44年)
西三段目10枚目
 
西幕下66枚目
[7] 
1912年
(明治45年)
東幕下27枚目
 
西幕下17枚目
 
1913年
(大正2年)
東幕下11枚目
4–0
1分
 
西十両5枚目
3–2
1預
 
1914年
(大正3年)
東十両5枚目
5–2
1預
 
西前頭16枚目
7–2–1 
1915年
(大正4年)
西前頭3枚目
4–5–1 
西前頭8枚目
4–6 
1916年
(大正5年)
西前頭9枚目
4–5–1 
西前頭10枚目
8–1
1預
 
1917年
(大正6年)
東前頭2枚目
6–4
東小結
1–7–1
1預
 
1918年
(大正7年)
西前頭5枚目
引退
5–4–0
1預[8]
x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 幕下以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。

出典

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  1. ^ 勝敗等の数は関取の分のみ示す。
  2. ^ 『相撲』2020年7月号の門脇利明によるレポートによれば、最期の巡業のときに、弟弟子が「真砂岩」と名乗って出場していることと、養家の人の証言からしこ名のよみは「まさごいし」が正しいと考証している。
  3. ^ http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19140503.htm
  4. ^ 大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709
  5. ^ 余録:「春のさきぶれ」といえば何か聞こえが良いが…”. 毎日新聞 (2020年5月15日). 2020年5月17日閲覧。
  6. ^ 巡業力士、台湾に死す 西日本新聞 2020/7/23 12:56(2020年8月16日閲覧)
  7. ^ 西幕下最下位。
  8. ^ 場所後4月現役中に死去。

関連項目

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外部リンク

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