石井子彭
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 元文3年(1738年)6月 |
死没 | 文化9年8月29日(1812年10月4日) |
別名 | 蠡(諱)、条大夫・左司馬[1](通称)、揚州[2](号) |
戒名 | 長寿院徳巖全尭居士 |
墓所 | 群馬県館林市当郷町善長寺 |
主君 | 松平武元、武寛、斉厚 |
藩 | 上野館林藩 |
氏族 | 服部氏、石井氏 |
父母 | 服部正之、石井高富 |
妻 | 石野氏、古山氏 |
子 | 石井芚、粲、棠 |
石井 子彭(いしい しほう)は江戸時代中後期の儒学者。上野館林藩松平武元右筆、道学館教授。『続三王外記』『東都歳時記』を著した。
経歴
[編集]江戸
[編集]元文3年(1738年)6月江戸北嶼に服部正之の末男として生まれた[3]。3歳で父を喪い人に預けられ、館林藩士石井高富の養子となった[4]。少年時より藩主松平武元の寵愛を受け[5]、右筆として武元の老中職を補佐した[6]。明和3年(1766年)の大火では財産を顧みず、自著のみを携えて避難した[7]。安永以来岡田寒泉と親交があった[7]。
大内熊耳に古学を学ぶも、時流に従い朱子学に転じ、闇斎学派服部栗斎に接近した[8]。天明6年(1786年)栗斎の紹介で頼春水と知り合い、その帰郷後、代わって江戸に来訪した頼杏坪と交際した[9]。この他、木内石亭、大田南畝[10]・安達清河・熊坂台州・稲葉黙斎等と交流があった[11]。
館林
[編集]館林に帰郷し[12]、藩校道学館教授[5]兼侍読を務めた[4]。記録方でも繰出し帳作成に従事し、休憩中は同僚が喫煙する間も歌書・稗史類を抜書し、「これが私の煙草だ。」と公言した[4]。
寛政13年(1801年)2月松平武寛長女蓮乗院、享和3年(1803年)2月武元側室貞林院[13]、文化元年(1804年)6月家老松倉惟水[14]、文化2年(1805年)8月武寛正室光寿院[13]、文化4年(1807年)9月藩士平石直右衛門敬勝の墓誌を記した[5]。
文化9年(1812年)8月29日館林字裏宿内伴木通北通(後の清水屋裏)の自邸で死去し[5]、当郷村善長寺観音堂北墓地に葬られた[15]。法号は長寿院徳巖全尭居士[3]。
著作
[編集]- 『続三王外記』[16] - 寛政初年成立[17]。主君武元が仕えた徳川吉宗・家重・家治の3代について、職務上知り得た情報を基に太宰春台著『三王外記』の誤謬を正し[18]、田安宗武の蟄居、御三卿の創設、松平乗邑の失脚等について内情を語る[19]。幕府を憚り[20]「東武野史若無子」と署名している[6]。
- 『五王制略』 - 幕府の制度について記す[17]。
- 『東都歳時記』 - 『荊楚歳時記』に倣い江戸の風俗を記す。頼春水校正[21]。『民間風俗年中行事』[22]、『続日本随筆大成』別巻11収録。
- 『望海亭詩集』[9]
- 『甲府支族松平家記録』 - 寛政12年(1800年)閏4月撰[23]。
- 『三世大超公御年譜』 - 松平武元年譜[24]。
- 『四世大隆公御年譜』 - 松平武寛年譜[24]。
家族
[編集]定紋は剣片喰・矢源氏車[15]。
脚注
[編集]- ^ 森 1943, p. 143.
- ^ a b 森 1943, p. 145.
- ^ a b c d e f g h i j 寺島 1932, p. 38.
- ^ a b c 寺島 1938, p. 10.
- ^ a b c d e 寺島 1938, p. 11.
- ^ a b 森 1931, p. 48.
- ^ a b c d 森 1931, p. 51.
- ^ 頼 1981, p. 34.
- ^ a b 頼 1986, p. 35.
- ^ 森 1943, pp. 146–148.
- ^ 森 1931, pp. 49–51.
- ^ 森 1931, p. 52.
- ^ a b 森 1931, pp. 53–54.
- ^ 森 1931, p. 50.
- ^ a b 寺島 1938, p. 8.
- ^ 『続三王外記』 - 早稲田大学図書館古典籍総合データベース
- ^ a b 森 1931, p. 49.
- ^ 森 1931, pp. 48–49.
- ^ 辻 1992.
- ^ 寺島 1938, p. 9.
- ^ 頼 1986, p. 34.
- ^ 『民間風俗年中行事』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ “浜田市立図書館文書”. 群馬県立文書館所蔵目録検索. 群馬県立文書館. 2018年1月23日閲覧。
- ^ a b “館林藩越智松平家文書”. 群馬県立文書館所蔵目録検索. 群馬県立文書館. 2018年1月23日閲覧。
- ^ 寺島 1932, p. 40.
- ^ a b 寺島 1938, p. 12.
参考文献
[編集]- 頼春水『師友志』頼又三郎〈春水遺稿別録巻3〉、1877年9月。NDLJP:778035/15
- 関根只誠『名人忌辰録』 上巻、吉川半七、1894年8月。NDLJP:992151/13
- 森銑三「続三王外記の著者」『日本及日本人』第237号、政教社、1931年11月15日。
- 森銑三「続三王外記とその著者」『書物と人物』熊谷書房、1943年6月。
- 寺島錬二「石井蠡翁の墓所につきて」『上毛及上毛人』第181号、上毛郷土史研究会、1932年5月。
- 寺島錬二「楊州石井蠡翁について」『館林郷土叢書』 第3輯、館林町立館林図書館、1938年5月。NDLJP:1172748/5
- 頼祺一「石井子彭著頼春水写『東都歳時記』」『日本研究』第2号、広島大学総合科学研究科日本研究研究会、1986年8月。
- 辻達也「田安宗武の籠居をめぐって ―『続三王外記』の信憑性―」『専修史学』第24号、専修大学歴史学会、1992年6月。