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大内熊耳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大内 熊耳
時代 江戸時代中期
生誕 元禄10年(1697年
死没 安永5年4月28日1776年6月14日
別名 忠太夫(通称)、承裕(名)、子綽(字)、熊耳山人、白蘋当軒(号)[1]
墓所 練馬区広徳寺
主君 水野忠辰忠任[2]
岡崎藩唐津藩
氏族 大内氏
父母 大内弥五右衛門、根本善左衛門娘
兄弟 貞之介
山本氏
大内蘭室
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大内 熊耳(おおうち ゆうじ)は江戸時代中期の儒学者、詩文家[3]陸奥国三春藩福島県三春町)出身。荻生徂徠門七才子の一人[4]江戸秋元子帥に学び、岡崎藩唐津藩水野家に仕えた。

経歴

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元禄10年(1697年)生まれ[5]。大内家は陸奥国田村郡山根村(福島県田村市常葉町山根)庄屋を務めたが、宝永4年(1707年)父弥五右衛門の死去に伴い熊耳(くまがみ)村(三春町熊耳)に帰農した[6]

三春城下の寺院に住み込んで学問を修めた[7]正徳3年(1713年)平野金華を頼って[8]江戸に出て秋元子帥に師事し、荻生徂徠門下で活動したが、正式には入門しなかった[4]。7,8年後京都に上り、徂徠と敵対する伊藤東涯に会うも、またも入門せず、中国の風教を求めて長崎に渡り、『李滄溟集』を愛読した[9]。徂徠の死後江戸に戻り、徂徠学に立ち帰って服部南郭に兄事し、浅草に塾を開いて成功した[10]

水戸藩への仕官を志望し、彰考館総裁安積澹泊からの課題として「対封建策」「対礼楽中国語版策」[11]他1篇を提出するも、採用されず、門弟立原翠軒毛利扶揺門弟等を通じて『大日本史』「」部の編纂を促した[12]

元文3年(1738年)春[13]家老松本尚炯の推挙で[2]三河岡崎藩江戸藩邸に出仕し[13]宝暦12年(1762年)9月肥前唐津藩転封後も仕え、明和5年(1768年)5月致仕した[14]飯田藩堀親長の招聘を断り、外臣として諮問に応じた[2]

安永5年(1776年)4月28日江戸唐津藩邸で病没し[15]下谷広徳寺末泰寿院に葬られた[16]。法名は敬心斎宮義山紹勇居士[16]明治初年泰寿院は桂徳院に合併した[16]大正12年(1923年)関東大震災で墓碑が倒壊し[16]、寺と共に練馬村に移された[17]

著書

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  • 『明四先生文範』[18]
  • 『作文一班』[18]
  • 『家世遺図』[18]
  • 『熊耳文集』[19]
  • 『熊耳文集後編』[19]
  • 『熊耳遺稿』[19]

門人

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家族

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百済琳聖太子を祖とし、姓を称した[5]

先祖柏木田監物義久は安達郡小浜城大内義綱の弟で、柏木田(福島県二本松市長折)に住み、熊耳村に隠居したが、伊達政宗田村清顕に招かれて根柄村(本宮市稲沢)に移り、根柄氏を称した[23]。義久の長男弾正は家を継がず、田村郡南成田村(三春町南成田)、更に熊耳村に移った[24]。次男源助は奥州仕置の際伊達氏に仕え、延宝年間山根村庄屋となった[25]

  • 実父:道耆府君 – 享保12年(1727年)10月24日江戸で死去[17]
  • 養父?[7]:大内弥五右衛門 - 源助の子。宝永年間山根村庄屋。宝永4年(1707年)没[6]
  • 母 - 田村直顕弟重顕子孫常葉村庄屋根本善左衛門重元長女。根本家文書「根本忠隣覚書」によれば、名はフリ
  • 姉:三春藩御番組松本杢左衛門妻。前出「根本忠隣覚書」によれば、名はサン
  • 兄 - 家業を怠り、庄屋職を継がなかった[6]。前出「根本忠隣覚書」によれば、名は佐七と称し、江戸芝口守山町で「三春屋」なる商家を営んだとある。
  • 妹:関本村庄屋安瀬八郎右衛門妻
  • 妻:山本氏[26]
  • 実子:貞之介 – 9歳で没[26]
  • 実子:大助。前出「根本忠隣覚書」によれば、熊耳の実子であり養子蘭室の跡を継いだとある。
  • 養子:大内蘭室 – 旧姓は遠藤[26]、名は衡、字は孟玉・子銓、通称は良助[27]。唐津藩に仕えた[18]。門人に大竹麻谷[28]

熊耳村樋渡にあった生家は母屋・隠宅・土蔵・厩舎・湯殿・厠・鍛冶場を擁する大邸宅で、佐内屋敷と呼ばれた[29]。菩提寺は船引町笹山大聖寺[30]

子孫は安達郡杉田村二本松市杉田)に移ったとも、庶子が山根村庄屋株を買って移住したともいう[26]

脚注

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  1. ^ 大内 1981, p. 143.
  2. ^ a b c 大内 1989, p. 153.
  3. ^ 大内 1989, pp. 141–142.
  4. ^ a b 鎌田 1932, p. 77.
  5. ^ a b 鎌田 1932, p. 76.
  6. ^ a b c 大内 1989, p. 145.
  7. ^ a b 大内 1989, p. 146.
  8. ^ 大内 1989, p. 147.
  9. ^ 鎌田 1932, p. 78.
  10. ^ 鎌田 1932, p. 79.
  11. ^ 共に『熊耳先生文集』巻十三所収。
  12. ^ 永吉 1981, pp. 87–91.
  13. ^ a b 永吉 1981, p. 88.
  14. ^ 永吉 1981, p. 89.
  15. ^ 鎌田 1932, p. 85.
  16. ^ a b c d 磯ヶ谷 1959, p. 36.
  17. ^ a b 鎌田 1932, p. 86.
  18. ^ a b c d e f 鎌田 1932, p. 82.
  19. ^ a b c 鎌田 1932, p. 83.
  20. ^ 鎌田 1932, p. 80.
  21. ^ a b c d 鎌田 1932, p. 81.
  22. ^ a b 『熊耳先生文集』巻頭
  23. ^ 大内 1989, p. 143.
  24. ^ 大内 1989, p. 144.
  25. ^ 大内 1989, pp. 144–145.
  26. ^ a b c d 鎌田 1932, p. 88.
  27. ^ 磯ヶ谷 1959, p. 37.
  28. ^ 鎌田 1932, p. 89.
  29. ^ 鎌田 1932, pp. 86–87.
  30. ^ 鎌田 1932, p. 87.

参考文献

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  • 鎌田悌次郎「大内熊耳先生」『倉谷鹿山先生之記 附・平野金華先生之記、大内熊耳先生之記』鹿山先生百年祭記念会事務所、1932年。 
  • 永吉雅夫「大内熊耳と水戸藩学」『文学』第49巻第5号、岩波書店、1981年5月。 
  • 大内寬隆「徂徠学者大内熊耳」『福大史学』第46-47号、福島大学史学会、1989年。 
  • 今関天彭『東京市内先儒墓田録』政教社、1913年。 NDLJP:937197/120
  • 磯ヶ谷紫江『広徳寺共葬墓所考』紫香会、1959年。 

外部リンク

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