大内熊耳
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄10年(1697年) |
死没 | 安永5年4月28日(1776年6月14日) |
別名 | 忠太夫(通称)、承裕(名)、子綽(字)、熊耳山人、白蘋当軒(号)[1] |
墓所 | 練馬区広徳寺 |
主君 | 水野忠辰、忠任[2] |
藩 | 岡崎藩、唐津藩 |
氏族 | 余姓大内氏 |
父母 | 大内弥五右衛門、根本善左衛門娘 |
兄弟 | 貞之介 |
妻 | 山本氏 |
子 | 大内蘭室 |
大内 熊耳(おおうち ゆうじ)は江戸時代中期の儒学者、詩文家[3]。陸奥国三春藩(福島県三春町)出身。荻生徂徠門七才子の一人[4]。江戸で秋元子帥に学び、岡崎藩・唐津藩水野家に仕えた。
経歴
[編集]元禄10年(1697年)生まれ[5]。大内家は陸奥国田村郡山根村(福島県田村市常葉町山根)庄屋を務めたが、宝永4年(1707年)父弥五右衛門の死去に伴い熊耳(くまがみ)村(三春町熊耳)に帰農した[6]。
三春城下の寺院に住み込んで学問を修めた[7]。正徳3年(1713年)平野金華を頼って[8]江戸に出て秋元子帥に師事し、荻生徂徠門下で活動したが、正式には入門しなかった[4]。7,8年後京都に上り、徂徠と敵対する伊藤東涯に会うも、またも入門せず、中国の風教を求めて長崎に渡り、『李滄溟集』を愛読した[9]。徂徠の死後江戸に戻り、徂徠学に立ち帰って服部南郭に兄事し、浅草に塾を開いて成功した[10]。
水戸藩への仕官を志望し、彰考館総裁安積澹泊からの課題として「対封建策」「対礼楽策」[11]他1篇を提出するも、採用されず、門弟立原翠軒・毛利扶揺門弟等を通じて『大日本史』「志」部の編纂を促した[12]。
元文3年(1738年)春[13]家老松本尚炯の推挙で[2]三河岡崎藩江戸藩邸に出仕し[13]、宝暦12年(1762年)9月肥前唐津藩転封後も仕え、明和5年(1768年)5月致仕した[14]。飯田藩堀親長の招聘を断り、外臣として諮問に応じた[2]。
安永5年(1776年)4月28日江戸唐津藩邸で病没し[15]、下谷広徳寺末泰寿院に葬られた[16]。法名は敬心斎宮義山紹勇居士[16]。明治初年泰寿院は桂徳院に合併した[16]。大正12年(1923年)関東大震災で墓碑が倒壊し[16]、寺と共に練馬村に移された[17]。
著書
[編集]門人
[編集]家族
[編集]先祖柏木田監物義久は安達郡小浜城主大内義綱の弟で、柏木田(福島県二本松市長折)に住み、熊耳村に隠居したが、伊達政宗・田村清顕に招かれて根柄村(本宮市稲沢)に移り、根柄氏を称した[23]。義久の長男弾正は家を継がず、田村郡南成田村(三春町南成田)、更に熊耳村に移った[24]。次男源助は奥州仕置の際伊達氏に仕え、延宝年間山根村庄屋となった[25]。
- 実父:道耆府君 – 享保12年(1727年)10月24日江戸で死去[17]。
- 養父?[7]:大内弥五右衛門 - 源助の子。宝永年間山根村庄屋。宝永4年(1707年)没[6]。
- 母 - 田村直顕弟重顕子孫常葉村庄屋根本善左衛門重元長女。根本家文書「根本忠隣覚書」によれば、名はフリ
- 姉:三春藩御番組松本杢左衛門妻。前出「根本忠隣覚書」によれば、名はサン
- 兄 - 家業を怠り、庄屋職を継がなかった[6]。前出「根本忠隣覚書」によれば、名は佐七と称し、江戸芝口守山町で「三春屋」なる商家を営んだとある。
- 妹:関本村庄屋安瀬八郎右衛門妻
- 妻:山本氏[26]
- 実子:貞之介 – 9歳で没[26]。
- 実子:大助。前出「根本忠隣覚書」によれば、熊耳の実子であり養子蘭室の跡を継いだとある。
- 養子:大内蘭室 – 旧姓は遠藤[26]、名は衡、字は孟玉・子銓、通称は良助[27]。唐津藩に仕えた[18]。門人に大竹麻谷[28]。
熊耳村樋渡にあった生家は母屋・隠宅・土蔵・厩舎・湯殿・厠・鍛冶場を擁する大邸宅で、佐内屋敷と呼ばれた[29]。菩提寺は船引町笹山大聖寺[30]。
子孫は安達郡杉田村(二本松市杉田)に移ったとも、庶子が山根村庄屋株を買って移住したともいう[26]。
脚注
[編集]- ^ 大内 1981, p. 143.
- ^ a b c 大内 1989, p. 153.
- ^ 大内 1989, pp. 141–142.
- ^ a b 鎌田 1932, p. 77.
- ^ a b 鎌田 1932, p. 76.
- ^ a b c 大内 1989, p. 145.
- ^ a b 大内 1989, p. 146.
- ^ 大内 1989, p. 147.
- ^ 鎌田 1932, p. 78.
- ^ 鎌田 1932, p. 79.
- ^ 共に『熊耳先生文集』巻十三所収。
- ^ 永吉 1981, pp. 87–91.
- ^ a b 永吉 1981, p. 88.
- ^ 永吉 1981, p. 89.
- ^ 鎌田 1932, p. 85.
- ^ a b c d 磯ヶ谷 1959, p. 36.
- ^ a b 鎌田 1932, p. 86.
- ^ a b c d e f 鎌田 1932, p. 82.
- ^ a b c 鎌田 1932, p. 83.
- ^ 鎌田 1932, p. 80.
- ^ a b c d 鎌田 1932, p. 81.
- ^ a b 『熊耳先生文集』巻頭
- ^ 大内 1989, p. 143.
- ^ 大内 1989, p. 144.
- ^ 大内 1989, pp. 144–145.
- ^ a b c d 鎌田 1932, p. 88.
- ^ 磯ヶ谷 1959, p. 37.
- ^ 鎌田 1932, p. 89.
- ^ 鎌田 1932, pp. 86–87.
- ^ 鎌田 1932, p. 87.
参考文献
[編集]- 鎌田悌次郎「大内熊耳先生」『倉谷鹿山先生之記 附・平野金華先生之記、大内熊耳先生之記』鹿山先生百年祭記念会事務所、1932年。
- 永吉雅夫「大内熊耳と水戸藩学」『文学』第49巻第5号、岩波書店、1981年5月。
- 大内寬隆「徂徠学者大内熊耳」『福大史学』第46-47号、福島大学史学会、1989年。
- 今関天彭『東京市内先儒墓田録』政教社、1913年。NDLJP:937197/120
- 磯ヶ谷紫江『広徳寺共葬墓所考』紫香会、1959年。
外部リンク
[編集]- 熊耳先生文集 - Google ブックス
- 餘承裕 – 藤田篤訳『譯註 先哲叢談』卷七