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石塚尊俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石塚 尊俊
人物情報
生誕 (1918-09-21) 1918年9月21日[1]
日本の旗 日本島根県大津村[2]
死没 (2014-04-16) 2014年4月16日(95歳没)[3]
日本の旗 日本・島根県出雲市
国籍 日本の旗 日本
出身校 國學院大學[4]
学問
研究分野 民俗学
研究機関 民俗学研究所 (研究員)[4]
島根県 (教育委員会文化課主査、文化財専門委員、文化財保護審議会委員等)[4]
国立民族学博物館 (国内資料調査委員)[4]
学位 文学博士[4]
主要な作品 『日本の憑きもの 俗信は今も生きている』 (1959年)[5]
『鑪と鍛冶』 (1972年)[6]
『西日本諸神楽の研究』 (1979年)[7]
『女人司祭』 (1994年)[8]
『神去来』 (1995年)[9]
『鑪と刳舟』 (1996年)[10]
『民俗の地域差に関する研究』 (2002年)[11]
『里神楽の成立に関する研究』 (2005年)[12]
学会 日本民俗学会 (評議員)[4]
山陰民俗学会 (代表理事、名誉会長)[3]
主な受賞歴 柳田國男賞 (1980年)[13]
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石塚 尊俊(いしづか たかとし、1918年9月21日[1] - 2014年4月16日[3])は、日本の民俗学者、神職島根県を本拠地に、当地域を中心とした地方の民俗学を牽引した[14]

生涯

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1918年(大正7年)、島根県大津村[2](2006年現在の出雲市大津町石塚村[1][注釈 1]の社家の長男として生まれる[15]。少年時代は簸川郡大津村小学校[16](現・出雲市立大津小学校)、島根県立大社中学校[17](現・島根県立大社高等学校)に通った。中学時代は理数科が苦手であった反面、歴史に興味をもち、郷土史の作成、出雲市長廻谷横穴墓群の調査などをおこなった[18]

1936年(昭和11年)、 國學院大學神道部に進学するにあたって上京する[19]。小学校教員になるために師範学校へ行かせようとする親に上京を反対されたものの、伯母の助言で「伯母の監督つき」の条件のもと許されている[20]。神職養成のための講義・実習は退屈なものが多い一方で、教員免許を得るための歴史学・倫理学の講義や一般教養の国文学の授業を熱心に受講した[21]。このころ、退屈な講義の時間に図書館で読んでいた加藤玄智の『神道の宗教発達史的研究』は石塚に雑神への興味を引き起こし、後述の柳田国男の講演とともに石塚が民俗学を志すきっかけの一つとなっている[22][23][24]。1940年(昭和15年)卒業[4]

卒業後、島根県立安来農業学校(現・島根県立安来高等学校)、島根県立今市高等女学校(現・島根県立出雲高等学校)に歴史教員としてとして赴任する[25][4]。1944年(昭和19年)6月に太平洋戦争に際して教育のため召集されたのち7月末に中国に派遣される[26][27]。終戦は杭州で迎えた[28][29]

1946年(昭和21年)3月に復員すると、戦後になって日本の伝統や日本人の価値観が急速に変容しているのを目の当たりにする[30][31]。民俗学の将来について不安になり、4月8日柳田のもとを訪ねる[32]。石塚自身はこの日をもって入門の日としている[33]。しかしこの直後、日中戦争勃発以降に國學院大學で神道教育を受けていたため、教職追放を受けることになる[34][35]。学校を追われた石塚は、数か月間の無収入の時期を経て[36]1947年(昭和22年)島根県衛生課防疫指導員の仕事を得[4]、また同年柳田が設立した民俗学研究所の研究員となった[37][38]

この間、1954年に山陰民俗学会を発足し、実務を担当した[3](→#山陰民俗学会)。1975年から1999年には同学会の代表理事(会長に相当)を務め、それ以降は名誉会長に就いていた[3]

1955年(昭和30年)に出雲市立第一中学校教諭として教職に復帰する[4]が、1962年(昭和37年)からは島根県教育委員会に籍を置き、文化財行政に携わる[39]。1975年(昭和50年)に定年退職し、1976年(昭和51年)「里神楽の成立に関する研究─主してママ中国、四国、九州地方において─」[40][注釈 2]で國學院大學博士課程単位修得(文学博士)[4]。これを改題して出版した『西日本諸神楽の研究』[7]で1980年(昭和55年)柳田國男賞を受賞[13]

1983年(昭和58年)から1991年(平成3年)まで広島修道大学教授[4]を務めたほか、島根大学でも非常勤講師として教鞭を執っている[41]

2014年(平成26年)逝去。享年95歳[41]

人物

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  • 筆名として、「さざなみ」[注釈 3]、「さざなみ生」[注釈 4]を用いることがある。石塚は旧制中学時代の課題として作成した郷土史に『楽浪彙纂(さざなみいさん)』と題しており、近江国の「大津」に係る枕詞である「楽浪(さざなみ)」を出雲の「大津」に借りてきたものとしている[44]。その他の筆名に岡田治道[注釈 5]、竹縄定二郎[注釈 6]、野坂久子[注釈 7]、野坂ふさ[注釈 8]、山田良夫[注釈 9]、山本忠一[注釈 10]がある。

2つの「山陰民俗学会」

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飯塚純平主宰民俗学会

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石塚が教職追放を受けていたころ、小学時代の同級生であった飯塚純平という人物が出版事業を興し、「山陰民俗学会」を名乗った[52]。地方における民衆の歴史に関する本を出版する会社として、石塚の執筆した『常民史に立つ日本婦道』と『こひに居る話』を発売したものの、1947年(昭和22年)2月ごろから東京の出版社が急速に復興するにともなって立ち行かなくなり、廃業した[53]

島根民俗通信部

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元々、島根県には1938年(昭和13年)牛尾三千夫ら石見部の研究者を中心に組織された島根民俗学会とその機関誌である『島根民俗』が存在した[54]。しかし島根民俗学会は戦争のために活動を中断していたので、これを復活させたいと考えた石塚は1947年(昭和22年)牛尾に連絡し、島根県内の他の会員とともに話し合った結果、『島根民俗』の復刊が決まった[55]。ただし「あくまでも本格的復活までのつなぎ」であり、雑誌名は『島根民俗通信』、発行所名は島根民俗通信部として、出雲で石塚が主宰することになった[56]

この発行所名に関して、石見部の会員から「島根民俗学会」を名乗れば良いのではないかという連絡を受けた石塚はその通りに「島根民俗学会」と彫った判を作成した[57]。しかし牛尾の立場としては、学会事務所はあくまでも石見部の牛尾のもとにあり、石塚のもとにあるのは通信部であるから、石塚方が「島根民俗学会」と名乗ることは認められなかった[58]。この確執の顛末として1948年(昭和23年)、『島根民俗通信』は第8号(特集号)をもって終刊、通信部は閉鎖に至った[59]。このころ石塚と牛尾は、学会主催の講演会の開催地に関しても揉めていた[60]

出雲民俗の会

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島根民俗学会は牛尾が石見部で引き継ぐこととなり、他方の出雲部の会員たちは新たな学会を創設することになった。こうして生まれたのが出雲民俗の会である[61]。機関誌は『出雲民俗』で、第1号が1949年(昭和24年)に刊行された[62]。石塚の事情で1951年(昭和26年)に1年間の休刊を挟んだが、翌年から季刊で復刊した[63]

山陰民俗学会

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1953年(昭和28年)、出雲以外の研究者も入会しやすいようにと鳥取県下の会員が提案したのをきっかけとして、翌1954年(昭和29年)に出雲民俗の会は山陰民俗学会に改称された[64]。初代代表委員(会長に相当)は岡義重[65]。機関誌は『山陰民俗』とし、当初は季刊で発行されていたが、1859年(昭和34年)以降は年4回のうち1回を専門誌『山陰民俗』、3回は普及誌『伝承』を発行することになった[66]。なお、このころになると石塚と牛尾の確執は解消していた[67]

しかし再び石塚の時間的余裕がなくなり、『山陰民俗』・『伝承』ともに1966年(昭和41年)から10年間、休刊することとなったが[68]、1975年(昭和50年)に活動を再開した[69]

1993年(平成5年)、機関誌を年1回刊行の『山陰民俗研究』とすることが決定した[70]

2015年(平成27年)に第50回柳田国男賞が贈呈されている[71]

関連人物

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  • 後藤憲一 - 義理の二従兄弟にあたる。子供のころは一対一で遊ぶ仲であり、工作をしたり『幼年世界』という雑誌を作ったりしていた[72]
  • 柳田国男 - 1936年10月、國學院大學で「原始教育」の題で講演をおこない、石塚が民俗学を学ぶきっかけを作った[73][74][75][注釈 14]。石塚は1939年に執筆したサエノカミの論文をきっかけに柳田の知遇を得ており[41]、「タタラのことは石塚に聞け」と研究者に助言する[28]など目をかけていた。戦後も、教職追放を受けていた石塚を民俗学研究所の研究員として拾い上げる(→#生涯)、自分の資料カードを貸し出す[76]など、石塚にたびたび便宜を図っている。学会発表の席で「只今の石塚君の発表は民俗学ではない」と叱られることもあった[77][78]
  • 折口信夫 - 國學院大學の国文学の講義のほか課外活動として「郷土研究会」を作っており、石塚も参加していた[79]
  • 高崎正秀 - 大学時代の石塚が初めて活字にしたサエノカミの論文に目をつけ、研究の指導をした[80][81]。石塚の大学卒業後も、金屋子神の研究をするように促すなど連絡が続いた[82]
  • 西角井正慶 - 大学で石塚に「祝詞作文」を教えており、1936年に石塚を「民間伝承の会」(現・日本民俗学会)に推薦し入会させた[83]
  • 祝宮静 - 大学で石塚に講義と演習を授けた[84]。晩年、石塚に博士論文の提出を勧めた[85]
  • 牛尾三千夫 -同じ島根県の民俗学者で、國學院大學神道部を卒業後に家業の神職をしている[86]など石塚と多くの共通点をもつ。石塚とは1941年のたたら製鉄の調査の際に出会っている[87]。石塚とは『菅谷鑪』 (石塚編 1968) の執筆など共に活動することがあった一方で、学会運営に関して対立することもあった(→#島根民俗通信部)。

著書

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石塚は単著39をはじめ、数多くの著作を世に出した[41][注釈 15]。以下は (石塚 2006) の「著書・編著一覧」の項および (浅沼 2019) の「主要著書」「監修・編集」の項を参考に、一部情報を修正したものである。

『常民史に立つ日本婦道』、『こひに居る話』の出版者は正確には「山陰民俗学会」であるが、戦後に石塚が発足させた山陰民俗学会と区別するために (石塚 2006) の表記に従い「飯塚純平主宰民俗学会」とする(→#2つの「山陰民俗学会」)。

単著

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編著・共著その他

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論文

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脚注

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注釈

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  1. ^ (浅沼 2019) には「島根県出雲市に生まれる」とあるが、1918年にはまだ出雲市が発足しておらず、当時は大津村である。
  2. ^ (石塚 1998, p. 223) などには「里神楽の成立に関する研究─中国・四国・九州地方を中心に─」とある。
  3. ^ 『山陰民俗』55号、『伝承』8号で用いている[42]
  4. ^ 『出雲民俗』4号で用いている[43]
  5. ^ 『出雲民俗』21号で用いている[45]
  6. ^ 『出雲民俗』21号で用いている[45]
  7. ^ 『出雲民俗』20号で用いている[46]
  8. ^ 『伝承』7号で用いている[47]
  9. ^ 『山陰民俗』28号、30号、34号、40号で用いている[48]
  10. ^ 『伝承』7号で用いている[47]
  11. ^ それ以前の代についても記録があるものの、傍証がなくただちに信じられるものではないという[1]
  12. ^ 延喜式神名帳』に記載される神産魂命子午日命神社の論社[49]
  13. ^ 『延喜式神名帳』に記載される阿湏利神社の参考社[50]。1962年の遷座以来、西谷9号墓の上に鎮座している[51]
  14. ^ 本来は長谷川如是閑と柳田の2人による講演会の予定であったが、長谷川の急用により柳田1人で2時間余り話すこととなった[73][74][75]
  15. ^ 山陰中央新報』2006年(平成18年)10月27日の記事「インタビュー:50冊目の本を出した石塚尊俊さん」では (石塚 2006) が共・編著15冊を含めて50冊目の著作であるとしている。

出典

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  1. ^ a b c d 石塚 2006, p. 7.
  2. ^ a b c 石塚 2006, p. 306.
  3. ^ a b c d e 酒井 2015, p. 85.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 浅沼 2019, p. 218.
  5. ^ 石塚 1959.
  6. ^ 石塚 1972.
  7. ^ a b 石塚 1979a.
  8. ^ 石塚 1994.
  9. ^ 石塚 1995a.
  10. ^ 石塚 1996.
  11. ^ 石塚 2002.
  12. ^ 石塚 2005b.
  13. ^ a b 浅沼 2019, p. 219.
  14. ^ 山崎 2011, p. 40.
  15. ^ 石塚 1979a, p. 2.
  16. ^ 石塚 2006, pp. 13–18.
  17. ^ 石塚 2006, pp. 31–38.
  18. ^ 石塚 2006, pp. 36–38.
  19. ^ 石塚 1998, p. 15.
  20. ^ 石塚 1993, pp. 381–382.
  21. ^ 石塚 1993, p. 382.
  22. ^ 石塚 1993, pp. 382–383.
  23. ^ 石塚 1998, pp. 15–17.
  24. ^ 石塚 2006, p. 49.
  25. ^ 石塚 1993, p. 385.
  26. ^ 石塚 1993, pp. 386–387.
  27. ^ 石塚 1998, pp. 43–46.
  28. ^ a b 石塚 1993, p. 387.
  29. ^ 石塚 1998, p. 46.
  30. ^ 石塚 1993, pp. 387–388.
  31. ^ 石塚 1998, pp. 46–47.
  32. ^ 石塚 1998, pp. 47–48.
  33. ^ 石塚 1998, p. 49.
  34. ^ 石塚 1993, p. 389.
  35. ^ 石塚 1998, pp. 49–50.
  36. ^ 石塚 1998, p. 53.
  37. ^ 石塚 1993, p. 390.
  38. ^ 石塚 1998, pp. 53–54.
  39. ^ 石塚 1993, p. 395.
  40. ^ 石塚 1979a, p. 1.
  41. ^ a b c d 酒井 2015.
  42. ^ 山崎 2011, pp. 64, 67.
  43. ^ 山崎 2011, p. 50.
  44. ^ 石塚 2006, pp. 36–37.
  45. ^ a b 山崎 2011, p. 53.
  46. ^ 山崎 2011, p. 52.
  47. ^ a b 山崎 2011, p. 67.
  48. ^ 山崎 2011, pp. 59–62.
  49. ^ 石塚 1983b.
  50. ^ 石塚 1983a.
  51. ^ 渡辺 2018, p. 86.
  52. ^ 石塚 1998, pp. 239–240.
  53. ^ 石塚 1998, pp. 239–241.
  54. ^ 石塚 1998, p. 242.
  55. ^ 石塚 1998, pp. 242–246.
  56. ^ 石塚 1998, pp. 242–249.
  57. ^ 石塚 1998, p. 250.
  58. ^ 石塚 1998, pp. 251–252.
  59. ^ 石塚 1998, pp. 260–262.
  60. ^ 石塚 1998, pp. 255–258.
  61. ^ 石塚 1998, pp. 262–263.
  62. ^ 石塚 1998, p. 263.
  63. ^ 石塚 1998, pp. 264–265.
  64. ^ 石塚 1998, pp. 265–266.
  65. ^ 浅沼 2019, pp. 212–217.
  66. ^ 石塚 1998, pp. 267–268.
  67. ^ 石塚 1998, p. 269.
  68. ^ 石塚 1998, pp. 270–271.
  69. ^ 石塚 1998, pp. 273–276.
  70. ^ 石塚 1998, p. 279.
  71. ^ 喜多村 2019, p. 1.
  72. ^ 石塚 2006, pp. 9–12.
  73. ^ a b 石塚 1993, p. 383.
  74. ^ a b 石塚 1998, pp. 17–19.
  75. ^ a b 石塚 2006, pp. 47–48.
  76. ^ 石塚 1993, p. 393.
  77. ^ 石塚 1993, pp. 393–394.
  78. ^ 石塚 1998, pp. 96–99.
  79. ^ 石塚 1993, pp. 383–384.
  80. ^ 石塚 1993, pp. 384–385.
  81. ^ (石塚 1998, pp. 20–22)など。
  82. ^ 石塚 1993, pp. 385–386.
  83. ^ 石塚 1998, pp. 19–20.
  84. ^ 石塚 2006, p. 43.
  85. ^ 石塚 1993, p. 396.
  86. ^ 石塚 1993, p. 386.
  87. ^ 石塚 1998, pp. 33–38.

参考文献

[編集]

石塚の単著については#単著を参照。

  • 浅沼政誌 著「歴代会長の事績」、山陰民俗学会 編『山陰民俗学会七十周年記念論集 山陰の暮らし・信仰・芸能』ハーベスト出版、2019年、211-234頁。 
  • 石塚尊俊 著「164 阿湏利神社」、式内社研究会 編『式内社調査報告 第21巻 山陰道4』國學院大學出版部、1983a、685-690頁。 
  • 石塚尊俊 著「165 神産魂命子午日命神社」、式内社研究会 編『式内社調査報告 第21巻 山陰道4』國學院大學出版部、1983b、691-693頁。 
  • 石塚尊俊「記録・石塚尊俊「民俗学への道」」『国立歴史民俗博物館研究報告』第51巻、1993年、381-397頁。 
  • 喜多村正 著「はじめに」、山陰民俗学会 編『山陰民俗学会七十周年記念論集 山陰の暮らし・信仰・芸能』ハーベスト出版、2019年、1頁。 
  • 酒井薫美「弔辞」『山陰民俗研究』第20号、2015年、85-86頁。 
  • 山崎亮「島根県民俗学関連雑誌等目次総覧」『松江市歴史叢書』第4号、2011年、39-72頁。 
  • 渡辺貞幸『出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群』新泉社〈シリーズ「遺跡を学ぶ」〉、2018年。