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高崎正秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高崎 正秀たかさき まさひで
人物情報
生誕 (1901-10-16) 1901年10月16日
日本の旗 日本富山県
死没 1982年3月2日(1982-03-02)(80歳没)
出身校 國學院大學
学問
研究分野 国文学
研究機関 國學院大學
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高崎 正秀(たかさき まさひで、1901年10月16日 - 1982年3月2日)は、富山県生まれの国文学者万葉学者歌人國學院大學名誉教授。國學院大學栃木短期大学名誉学長。文学博士

折口信夫に師事(著書『折口学への招待』(桜楓社)がある)、折口信夫の五博士のうちの一人である。主著に『高崎正秀著作集』(桜楓社、全8巻)がある。

略歴

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  • 明治34年(1901年) 富山県上新川郡太田村(現・富山市)に生まれる。
  • 大正8年(1919年) 富山県立富山中学校(現・富山県立富山高等学校)卒業。
  • 大正14年(1925年) 國學院大學国文科卒業。
  • 昭和21年(1946年) 國學院大學教授。
  • 昭和25年(1950年) 「日本書紀神代巻宝剣出現之章の研究」により文学博士
  • 昭和34年(1959年) 新年歌御会始に陪席。
  • 昭和41年(1966年) 國學院大學栃木短期大学教授。
  • 昭和44年(1969年) 國學院大學栃木短期大学学長。
  • 昭和47年(1972年) 正月の宮中歌御会始の儀にて召人を務める。
  • 昭和48年(1973年) 勲三等瑞宝章
  • 昭和53年(1978年) 國學院大學名誉教授。
  • 昭和54年(1979年) 國學院大學栃木短期大学名誉学長。
  • 昭和57年(1982年) 老衰並びに心不全で永眠[1][2]

エピソード

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  • 出生日時は、戸籍では10月19日であるが、本当は16日である。
  • 勉強する学生には懇切丁寧であるが、不勉強な学生には厳しかった。
  • 酒豪であった。晩酌は毎日三合飲んだ。著書に『酒徒随縁』がある。
  • 卒業論文は「唱導文芸の発生と巫祝の生活」で、主査は折口信夫、副査は高野辰之。博士論文は「日本書紀神代巻宝剣出現之章の研究」で、主査は折口信夫、副査は武田祐吉。戦争の空襲で書物やカードを焼失したため、博士論文は、乏しい資料と記憶力で書いた。
  • 建国記念日制定に功があった。昭和42年1967年)、建国記念日審議会に参考人として招集され、民俗学上から建国記念日制定を訴えたことがある。後に神社本庁からは、記念日制定功労者として感謝状を贈られる。
  • 昭和47年(1972年)の歌会始御題は「山」で、召人として「たたなはる 山青垣も かがよひて 今あらた代の 朝あけ来たる」を詠進した。
  • 折口信夫を中心に雑誌『白鳥』を創刊し、その講演会として三矢重松の「源氏物語全講会」開設に尽力。さらに白鳥社主催の「万葉集三十回講座」を開設。この二つの公開講座が、現在の國學院大學公開古典講座につながっている。
  • 県立富山中学校のころから作歌を始め、短歌を川出麻須美に学んだ。折口信夫から歌を求められ、「私のは自己流ですから」と言ったところ、折口信夫より「高崎、自己流というものがありますか。自己流でもそれを押し通せばそれが本流になります」と言われた。そのことをいつも肝に銘じていたという。
  • 趣味娯楽というほどのものはないが、湯泉が好きで山形へよく行った。
  • 越中おわら節が得意であった。
  • 絶詠は「八十路迎へて感深し生き生きて何にかくも生き長へし」。
  • 弟子筋の小林茂美・櫻井満・阿部正路の編さんで、昭和56年に『高崎正秀百首』刊行された(櫻風社)。

脚注

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  1. ^ 以上につきコトバンク
  2. ^ 以上につき阿部正路石井順三「高崎正秀博士年譜」『芸能』第24巻第4号 1982年 p23-26

参考文献

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  • 長野甞一「学者評判記」『解釈と鑑賞』第24巻第5号 1959年4月号
  • 高崎正秀『酒徒随縁』桜楓社 1971年
  • 小島瓔禮「餅を飛び石にした長者――高崎正秀先生の思い出」『國學院雑誌』第109巻第3号 2008年
先代
佐佐木行忠
國學院大學栃木短期大学学長
2代: 1969年 ‐ 1979年
次代
岸本誠二郎