石川定俊
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いしかわ さだとし 石川 定俊 | |
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石川定俊 | |
生誕 |
明治28年3月24日 (1895年3月24日) 日本 秋田県秋田市 |
死没 | 不詳 |
出身校 | 北海道帝国大学、東京帝国大学 |
時代 | 大正、昭和 |
肩書き |
台湾総督府交通局鉄道部長 陸軍司政官など |
配偶者 | 禮子 |
親 | 石川 龍助 |
石川 定俊(いしかわ さだとし、1895年(明治28年)3月24日[1] - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政長官、実業家。
経歴
[編集]石川龍助の長男として[1]、秋田県秋田市に生まれる[2]。札幌中学から東北帝国大学農学科予科にすすみ北海道帝国大学農学部を経て、1922年(大正11年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、台湾総督府殖産局に奉職する[3]、高等試験行政科に合格[4]。1924年(大正13年)10月、地方理事官に進み、台北州七星郡守に任じ、台北市助役[1]、新竹州内務部地方課長、警務部理蕃課長、台北州警務部長、内務局土木課長、交通局鉄道部長などを歴任した[5][6]。その後、1942年(昭和17年)7月に陸軍司政長官に任じ[7]、ケドウ州(現インドネシア共和国ジャワ島中部ジャワ州)長官となった[8]。 司政官の退任時期は不明だが、1945年(昭和20年)3月の陸軍異動情報でも名簿に記載されているため、終戦時まで就任していたと考えられる。[9]。終戦後については、1953年(昭和28年)の会社年鑑に企業の監査役として名前がみられ[10][11]。しかし昭和46年には名前が消えており[12]、また会員氏名録(学士会名簿)の昭和42・43年用に名前があるが[13]、昭和46・47年用からは削除されているため[14]、このころ死去したものと考えられる。
年表
[編集]- 1913年(大正2年)3月 札幌南高等学校卒業する[3]。
- 1914年(大正3年)9月 東北帝国大学農科大学予科に入学する[3][15]。
- 1916年(大正6年)9月 北海道帝国大学農学部農政経済科に入学する[3]。
- 1920年(大正9年)
- 1922年(大正11年)
- 1923年(大正12年)12月 高等文官試験行政科に合格する[4]。
- 1924年(大正13年)
- 1925年(大正15年)12月22日 台湾総督府台北市助役を命ぜられる[18]。
- 1927年(昭和2年)7月27日 台湾総督府新竹州勤務を命ぜられる[19]。
- 1928年(昭和3年)10月8日 台湾総督府台中州勤務を命ぜられる[20]。
- 1929年(昭和4年)12月14日 台湾総督府新竹州警務部長を命ぜられる[21]。
- 1931年(昭和6年)5月16日 台湾総督府事務官兼属、台湾総督府警務局理蕃課長、総督府警視を命ぜられる[22]。
- 1936年(昭和11年)10月20日 台湾総督府内務局土木課長を命ぜられる[23]。
- 1940年(昭和15年)
- 1942年(昭和17年)
栄典
[編集]叙位
- 従七位 1924年(大正13年)9月1日[26]
- 正七位 1926年(大正15年)2月1日[27]
- 従六位 1928年(昭和3年)5月1日[28]
- 正六位 1930年(昭和5年)11月15日[29]
- 従五位 1933年(昭和8年)8月15日[30]
- 正五位 1938年(昭和13年)9月1日[31]
- 従四位 1943年(昭和18年)5月1日[32]
勲章・その他
- 瑞宝章 1935年(昭和10年)5月11日[33]
- 瑞宝章 1939年(昭和14年)5月27日[34]
- 瑞宝章 1940年(昭和15年)4月29日[35]
- 瑞宝章 1943年(昭和18年)6月9日[36]
- 紀元二千六百年記念章 1941年(昭和16年)11月10日[37]
脚注
[編集]- ^ a b c 帝国秘密探偵社編 『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』 - 国立国会図書館デジタルコレクション,帝国秘密探偵社,1943年,p.海外3
- ^ 台湾新民報社編『台湾人士鑑 改訂』 - 国立国会図書館デジタルコレクション,台湾新民報社,1937年,p.14
- ^ a b c d e f g h 「石川定俊(任総督府属)」,大正11年台湾総督府府公文類纂永久保存進退(判)第3巻秘書,国史館台湾文献館
- ^ a b 『官報』第3398号「広告」大正12年12月19日
- ^ a b 『官報』第4051号「叙任及辞令」昭和15年7月9日
- ^ a b 『台湾総督府報』第3938号「叙任及辞令」昭和15年7月14日
- ^ a b 『官報』第4644号「叙任及辞令」昭和17年7月4日
- ^ 時事通信社編「時事年鑑 昭和19年版」1943年,p.414
- ^ 「第92号 昭和20年3月31日 陸軍異動情報」「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12120940200、中央-軍事行政異動通報-40(防衛省防衛研究所)
- ^ 日本経済新聞社編「会社年鑑 1954年版」日本経済新聞社,1953年,p.615
- ^ 国際連合通信社編「国勢総覧 第38版」国際連合通信社,1969年,p.605
- ^ 人事興信所編「日本職員録 第13版 中』人事興信所,1970,p.に70
- ^ 学士会編「会員氏名録 昭和42・43年用」,学士会,1967年,p.53
- ^ 学士会編「会員氏名録 昭和46・47年用」,学士会,1971年,p.61
- ^ 札幌農学校は札幌所在のまま、東北帝国大学農科大学となり、予科が付設された。北海道帝国大学となるのは大正7年である。
- ^ 『台湾総督府報』第3508号「叙任及辞令」大正13年5月6日
- ^ 『台湾総督府報』第3362号「叙任及辞令」大正13年5月6日
- ^ 『台湾総督府報』第3692号「叙任及辞令」大正15年12月24日
- ^ 『台湾総督府報』第3508号「叙任及辞令」昭和2年7月28日
- ^ 『台湾総督府報』第538号「叙任及辞令」昭和3年10月9日
- ^ 『官報』第904号「叙任及辞令」昭和5年1月7日
- ^ 『台湾総督府報』号外「叙任及辞令」昭和6年5月17日
- ^ 『台湾総督府報』第2816号「叙任及辞令」昭和11年10月22日
- ^ 『台湾総督府報』第2816号「叙任及辞令」昭和15年10月25日
- ^ 「軍政布告第一号」『ジャワ年鑑 昭和19年』ジャワ新聞社,1944年,p.口絵
- ^ 『官報』第3609号「叙任及辞令」大正13年9月2日
- ^ 『官報』第4080号「叙任及辞令」大正15年4月2日
- ^ 『官報』第489号「叙任及辞令」昭和3年8月13日
- ^ 『台湾総督府報』第1108号「叙任及辞令」昭和5年11月18日
- ^ 『台湾総督府報』第1887号「叙任及辞令」昭和8年8月17日
- ^ 『官報』第3515号「叙任及辞令」昭和13年9月19日
- ^ 『官報』第4920号「叙任及辞令」昭和18年6月9日
- ^ 『官報』第2506号「叙任及辞令」昭和10年5月11日
- ^ 『官報』第3715号「叙任及辞令」昭和14年5月27日
- ^ 『官報』第5252号「叙任及辞令」昭和19年3月18日
- ^ 『官報』第3715号「叙任及辞令」昭和14年5月27日
- ^ 『官報』第4462号「辞令二」昭和16年11月21日