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碧川企救男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

碧川 企救男(みどりかわ きくお、明治10年(1877年4月27日) - 昭和9年(1934年4月12日)は日本ジャーナリスト

婦人運動家碧川かたの夫、映画カメラマン碧川道夫の父。

経歴

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福岡県企救郡小倉町(後の小倉市、その後北九州市小倉区を経て現在は分区により小倉北区)に長崎裁判所小倉区裁判所長碧川真澄、みねの二男として生まれた。父真澄は、もと伊予新谷藩の下級武士

米子の角盤高等小学校、鳥取中学(現在の鳥取西高等学校)を経て東京専門学校英語政治科(現在の早稲田大学)を卒業。北海道集治監釧路分監出張所(現在の網走刑務所)に行き、そこで一年間生活をした[1]

明治35年(1902年)『小樽新聞』の論説記者になる。北海の地に横行した財閥の土地収奪や、囚人を駆り立て、鉄道線路敷設を強行して、多くの凍死者を続出させた極悪非道な、監獄部屋人夫の惨、先住アイヌの追い立ての残酷さを主題に、鋭くメスを入れ、為政者の猛省を促し、世論喚起を図った[2]。同僚に宮原晃一郎がおり、また「小樽日報」に勤務していた石川啄木とも交流があった、

大正13年(1924年小樽高商に始まる軍事教練制度が発令されると、全国の新聞に反対運動のキャンペーンを開始し、ついには北海道から追放された[2]

昭和9年(1934年4月12日)56歳で亡くなった。

家族

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参考文献

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  • 『カメラマンの映画史 碧川道夫の歩んだ道』 山口猛編 1987年 社会思想社 12-13頁

関連

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脚注

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  1. ^ 『カメラマンの映画史 碧川道夫の歩んだ道』 11頁に「熱心なクリスチャンでしたから、あるいは教誨師かとも推理しましたが、形跡は全くなく、音に聞く重刑囚と起居した異色な人間研究だったんでしょうか?クラーク博士の札幌農学校の教授を父君に持った中島健蔵さんは“日本にも『志願囚』の歴史がある。昭和十六年から二十年まで司法省行刑局長をしていた正木亮氏が志を立て、いったん官を辞し、市ヶ谷刑務所に入った志願囚の異色の存在とすれば、君のお父さんは、その一号だよ”と評してくださいました」とある。
  2. ^ a b 『カメラマンの映画史 碧川道夫の歩んだ道』 12頁。