神代三陵
神代三陵(かみよさんりょう[1])または神代三山陵は、日本神話に登場する神々である瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鸕鷀草葺不合尊の陵墓の総称。
1874年、宮内省(1869年 - 1947年)により、すべて鹿児島県内の陵墓に治定されている。
概要
[編集]それぞれの陵名は、『日本書紀』で「筑紫日向可愛之山陵」・「日向高屋山上陵」・「日向吾平山上陵」と記載されているが、場所の詳述はない。
また平安時代の『延喜式』諸陵寮では「日向埃山陵」・「日向高屋山上陵」・「日向吾平山上陵」と記載される。しかしいずれも「在日向国、無陵戸」とのみ記され、陵戸は置かれていなかった。他の陵墓のように郡名・兆域までは記載されていないので、『延喜式』当時には所在が失われていたものと推定する説もある[1]。
なお『延喜式』諸陵寮では、上記の3陵の記載に続けて「已上神代三陵、於山城国葛野郡田邑陵南原祭之、其兆域東西一町、南北一町」と記されており、平安時代には田邑陵(文徳天皇陵)の南側の祭場で3陵の祭祀が行なわれたことが知られる[1][2]。この祭場は京都府京都市右京区付近と推定されるが、確かな所在地は明らかでない[2]。
治定の経緯
[編集]明治7年(1874年)に現在の3陵(可愛山陵・高屋山上陵・吾平山上陵)に治定された[1]。治定地はすべて現在の鹿児島県(薩摩国、大隅国)の範囲であった。
ただし、薩摩国は大宝2年(702年)には日向国から分離して成立していたとみられ、大隅国は和銅6年(713年)にすでに日向国から分離して成立していたにもかかわらず、日本書紀は720年にウガヤフキアエズが日向国(宮崎県)で没した旨を記録していることなどから、本来の神代三陵の場所は、宮崎県日南市宮浦の鵜戸神宮の周辺であるとする説は根強い。
比定地を巡り諸説が生じたため、宮崎県の陵墓は陵墓参考地に治定されており、現在はいずれも宮内庁により管理されている(治定の経緯は各項目参照)。
明治7年の治定
[編集]被葬者 | 陵名 | 所在地 | 座標 | 形状 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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神代三陵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
天津日高彦火瓊瓊杵尊 | 可愛山陵 (えのみささぎ) |
鹿児島県薩摩川内市宮内町字脇園 | 北緯31度49分41.21秒 東経130度17分33.48秒 | 方形 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
天津日高彦火火出見尊 | 高屋山上陵 (たかやのやまのえのみささぎ) |
鹿児島県霧島市溝辺町麓字菅ノ口 | 北緯31度49分36.76秒 東経130度41分28.76秒 | 円丘 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊 | 吾平山上陵 (あひらのやまのえのみささぎ) |
鹿児島県鹿屋市吾平町上名字吾平山 | 北緯31度17分16.98秒 東経130度54分55.18秒 | 洞穴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連陵墓参考地 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
瓊瓊杵尊 | 北川陵墓参考地 | 宮崎県延岡市北川町長井 | 北緯32度39分11.39秒 東経131度41分15.96秒 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
瓊瓊杵尊 | 男狭穂塚陵墓参考地 | 宮崎県西都市三宅 | 北緯32度7分18.71秒 東経131度23分4.22秒 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鸕鷀草葺不合尊 | 鵜戸陵墓参考地 | 宮崎県日南市宮浦 | 北緯31度38分59.28秒 東経131度27分46.97秒 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関係略系図 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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脚注
[編集]参考文献
[編集]- 戸原純一「神代三陵」『国史大辞典』吉川弘文館。
- 『日本歴史地名大系 47 鹿児島県の地名』平凡社、1998年。ISBN 4582910548。
- 「日向埃山陵」、「日向高屋山上陵」、「吾平山上陵」。
- 「中野村」『日本歴史地名大系 27 京都市の地名』平凡社、1981年。