神尾春央
神尾 春央(かんお はるひで、貞享4年(1687年) - 宝暦3年5月5日(1753年6月6日))は、江戸時代の旗本。官位は若狭守。苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった。
経歴
[編集]貞享4年(1687年)、下嶋為政の次男として誕生。母は館林徳川家の重臣稲葉重勝の娘。長じて旗本の神尾春政の養子となる。元禄14年(1701年)仕官。賄頭、納戸頭など経済官僚畑を歩み、元文元年(1736年)勘定吟味役に就任。さらに翌年には勘定奉行となる。
時に8代将軍徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に延享元年(1744年)10月には自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、その甲斐あって、同年は江戸時代約260年を通じて収税石高が最高となった。ただし、百姓たちからは大いに恨まれ、摂津、和泉、河内、播磨、大和のうち、天領に属する農民たちが決起して、大坂町奉行、京都町奉行、京都所司代に年貢の減額を求め、また、翌延享2年4月には、摂津、河内3郡の農民ら2万が、京都御所に押しかけた。彼らは、内大臣、武家伝奏に、朝廷として、幕府に対する年貢の減額の斡旋を行ってほしいと求めた(摂津国河内国延享2年一揆)。徳川吉宗が将軍職を家重に譲って大御所と称したのは、その年の10月である。
しかし、翌年松平乗邑が失脚した影響から春央も地位が危うくなる。春央は金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行、長崎掛、村鑑、佐倉小金牧などの諸任務を1人で担当していた他、支配役替や代官の所替といった人事権をも掌握していたが、延享3年(1746年)9月、それらの職務権限は勝手方勘定奉行全員の共同管理となったため、影響力は大きく低下した[1]。
宝暦3年(1753年)、没す。
人物評価
[編集]およそ半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を反映するものとして、また江戸時代の百姓の生活苦の形容として広く知られている(ただし、逆に貧農史観のイメージを定着させてしまったともいえる)。
また、当時の勘定組頭・堀江荒四郎芳極(ほりえ あらしろう ただとう)と共に行った畿内・中国筋における年貢増徴の厳しさから、「東から かんの(雁の・神尾)若狭が飛んできて 野をも山をも堀江荒しろ(荒四郎)」という落書も読まれた[2]。