神楽座
種類 | 事業場 |
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市場情報 | 消滅 |
本社所在地 |
日本 〒515-0037 三重県飯南郡松阪町愛宕町69番地 |
設立 | 1897年 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | 映画の興行 |
関係する人物 |
初代市川左團次 後藤藤男 小津安二郎 |
特記事項:略歴 1897年 芝居小屋として開館 1921年 映画館化 1951年12月16日 火事で全焼・閉館 |
神楽座(かぐらざ)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。成立年代は不明であるが三重県飯南郡松阪町(現在の同県松阪市)に存在した「愛宕座」を1897年(明治30年)に愛宕町69番地に移転、「神楽座」と改称したのが起源であり、当初は歌舞伎を上演できる芝居小屋であった[11]。1921年(大正10年)に映画館に業態を変更、このころ10代であった小津安二郎が熱心に通ったことで知られる[11]。旧漢字表示神樂座[1][2][3][4][5]。
沿革
[編集]- 1897年 - 「愛宕座」を三重県飯南郡松阪町愛宕町69番地に移転、芝居小屋の神楽座とする[11]
- 1921年 - 内部を改装、映画館に業態変更[11]
- 1951年12月16日 - 「昭和の松阪大火」により全焼、閉館[11]
データ
[編集]概要
[編集]成立年代は不明であるが、古くから三重県飯南郡松阪町(現在の同県松阪市)の愛宕山龍泉寺の近辺に存在したとされる芝居小屋「愛宕座」(あたござ)を1897年(明治30年)、同寺の山門の正面近くに位置する愛宕町69番地に移転し、「神楽座」と改称したのが起源であるとされる[9][10][11]。「神楽座」という館名は、龍泉寺の脇にかつては「神楽坂」と呼ばれる坂があり、坂の名に由来したとされる[10]。同館は、相生座(のちの松阪劇場)とともに、伊勢松阪の芝居小屋としては著名であった[9][10]。同年6月、初代市川左團次(1842年 - 1904年)が名古屋の御園座での公演を終えて、次に乗り込んだのが「伊勢松阪町字愛宕町の神楽座」であるとの記録が残っている[12][13]。このころ駒田好洋がシネマトグラフを携えて、サイレント映画の上映を同館でも行っている[14]。当時の同館の経営は、貸座敷の主人連が共同出資して行われていた[15]。同館は歌舞伎等の芝居のほか、演説会にも使用されており、1913年(大正2年)1月28日、尾崎行雄らの憲政擁護会による「憲政擁護演説会」が開催されている[16]。
1921年(大正10年)に内部を改装し、映画館に業態を変更した[9]。のちに松竹蒲田撮影所に入社して映画監督になる小津安二郎(1903年 - 1963年)は、当時、同館至近に住む旧制・三重県第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)の生徒であり、同年すでに同館に通って、ウィリアム・S・ハート監督の『アラスカの地獄犬』、レオン・ド・ラ・モート監督の『迷路の秘密』、ジョン・エマーソン監督の『ドーグラスの蛮勇』等の作品を同館で観た記録が残っている[17]。1923年(大正12年)には小津は東京へ転居、1925年(大正14年)の同館では東亜キネマの上映館になっていた[1]。1927年(昭和2年)前後には、同館は後藤藤男(1903年 - 没年不詳)の個人経営になっており、配給系統も日活およびマキノ・プロダクション作品の上映館になっていた[2][3][4]。1932年(昭和7年)前後までは、松阪町唯一の映画館であったが[1][2][3][4][5]、1940年(昭和15年)前後にアサヒ館(現在の松阪大映劇場)が開館し、同じころに芝居小屋の巴座(のちの巴映画劇場)が映画館に転換している[6][7]。このころまでには、同館は渡邊正男の個人経営に変わってる[6][7]。
第二次世界大戦の終了後も、アサヒ館、巴映画劇場とともに引き続き映画館として残っており、1951年(昭和26年)11月、小津安二郎が脚本家の野田高梧とともに同市を訪れた際に同館の前を通りかかり、野田に対し「この神楽座がなかったら、僕は映画監督なんかになってなかったかもしれませんよ」と語ったという[18]。同年12月16日、同市内の愛宕町・平生町を襲った「昭和の松阪大火」により全焼、閉館を余儀なくされた[11][18]。このとき、火元となった小津の出身校である松阪市立第二小学校(当時の住所表記で湊町[19]、現在の五十鈴町にある五十鈴公園の場所にあり[20]、垣鼻町の現校地とは異なる)はもちろん、小津の松阪時代の家も全焼等の被害に遭っている[18]。
その後、同館が復興することはなく、国道42号の整備により跡地の大部分がその道路敷となって消えた[9][10][11][18]。「神楽坂」と呼ばれる坂もすでになく、道は平坦になっている[10]。2002年(平成14年)12月12日、小津の松阪時代の家の跡地(愛宕町2丁目44番地)に「小津安二郎青春館」が開館したが、同館のデザインは、小津が通った大正時代の神楽座をイメージしたものとされている[18]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 年鑑[1925], p.471.
- ^ a b c d 総覧[1927], p.674.
- ^ a b c d 総覧[1929], p.272.
- ^ a b c d 総覧[1930], p.579.
- ^ a b c 昭和7年の映画館 三重縣 18館、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』)、2013年8月23日閲覧。
- ^ a b c d 年鑑[1942], p.10-67.
- ^ a b c d 年鑑[1943], p.490.
- ^ a b 年鑑[1952], p.509.
- ^ a b c d e 山田[1974], p.91.
- ^ a b c d e f 松阪市[1981], p.51.
- ^ a b c d e f g h i 中村[2000], p.95-96.
- ^ 国立[2009], p.371-381.
- ^ 塚田[1981], p.155.
- ^ 前川[2008], p.465-470.
- ^ 前川[2008], p.104.
- ^ 三重県[1988], p.192-193.
- ^ 田中[2005], p.38-39.
- ^ a b c d e 伊勢(松阪・山田・津)の文化が育んだ 世界の映画監督 小津安二郎、三重映画フェスティバル実行委員会、2013年8月23日閲覧。
- ^ 「大火から50年 あす松阪で講演会 パネル展示も」朝日新聞2001年12月12日付朝刊、三重版24ページ
- ^ “幸小誕生秘話を連載 まち協伝部会が11月号広報から記録文や写真 子供や住民に伝えたい”. 夕刊三重 (2016年11月15日). 2018年9月22日閲覧。
参考文献
[編集]- 『日本映画年鑑 大正十三・四年』、アサヒグラフ編輯局、東京朝日新聞発行所、1925年発行
- 『日本映画事業総覧 昭和二年版』、国際映画通信社、1927年発行
- 『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』、国際映画通信社、1929年発行
- 『日本映画事業総覧 昭和五年版』、国際映画通信社、1930年発行
- 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
- 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
- 『映画年鑑 1952』、時事映画通信社、1952年
- 『松阪近代略史』、山田勘蔵、夕刊三重新聞社、1974年2月5日
- 『日本映画史の研究 活動写真渡来前後の事情』、塚田嘉信、現代書館、1981年1月 ISBN 4768477054
- 『松阪市史 第10巻 史料篇 民俗』、松阪市史編さん委員会、蒼人社、1981年3月 ISBN 4326200219
- 『三重県史 資料編 近代2 政治・行政2』、三重県、1988年3月
- 『若き日の小津安二郎』、中村博男、キネマ旬報社、2000年10月1日 ISBN 4873762359
- 『小津安二郎と戦争』、田中眞澄、みすず書房、2005年7月24日 ISBN 4622071487
- 『頗る非常! 怪人活弁士・駒田好洋の巡業奇聞』、前川公美夫、新潮社、2008年8月 ISBN 4103090316
- 『近代歌舞伎年表 名古屋篇 第3巻』、国立劇場近代歌舞伎年表編纂室、八木書店、2009年4月 ISBN 4840692378
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]画像外部リンク | |
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小津安二郎青春館 |