コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

神機隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

神機隊(しんきたい)とは広島藩軍隊1867年(慶応3年)9月に、藩士と農商出身者ら約1200人で結成された。回天軍第一起神機隊と名付けて、志和盆地(東広島市)で旗揚げした。西洋訓練、組織、最新鋭の武器で武装した部隊である。戊辰戦争が勃発すると、神機隊東北出軍第一隊326人が自費で上野戦争奥州戦争に参戦した。福島・浜街道の戦いで、神機隊は相馬藩仙台藩旧幕府軍の連合軍に対して戦闘を行った。

1868年(慶応4年)7月26日に、奥州広野の戦闘にて多数の犠牲者を出した第一隊の要請により、その補充隊として8月20日に神機隊東北出軍第二隊が仙台に向けて出発した。10月には、木原秀三郎が佐幕派脱走者の京摂地区への急襲に備え、尾道駐屯隊(回天軍第二起捷機隊)を尾道西国寺に置くことを藩庁に建議し、裁許された[注釈 1][注釈 2]

神機隊幹部の一部は、さらに東北遊撃軍の参謀となり、秋田、庄内、南部、会津へと進撃し、相次いで降伏させた。双方があいまって戊辰戦争の早期終結に寄与した。

神機隊の結成の由来

[編集]

禁門の変の後、第一次長州征討が起きた。幕府長州の間を仲介する広島藩は、毛利家の重臣たち切腹、参謀の斬首で解決した。しかし1866年(慶應2年)、幕府は長州処分が未解決であるとし、第二次長州征討へ向かう戦時体制に入った。仲介役の広島藩は、長州問題はすでに解決済であるとし、大義のない戦争と主張、広島表に来た老中・小笠原長行らに非戦を訴えつづけた。小笠原はこれに対して広島藩執政・野村帯刀辻将曹を謹慎処分とした。そのうえ、広島藩に先鋒を命じた。

この顛末に広島藩士らは若手有志ら55人[注釈 3]が母校である藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)に集結し、大義によって小笠原老中を暗殺してでも、この戦争を止めようと連署した。そして、町の辻角5か所に小笠原老中の首級を討取るという予告の張り紙を掲示した[注釈 4]。この55人のうち、11人がやがて神機隊の結成メンバーとなる[注釈 5]

この結果藩主・浅野長訓広島城内に小笠原老中を呼び出し、このままでは命の保証ができない旨を述べ広島からの退去を促し、不参戦を通告した[4]

同年6月、幕府軍と長州軍が戦いに突入し、芸州口の戦いが起きた。小瀬川を越えた長州軍が旧式装備の彦根藩越後高田藩を攻撃し、大竹玖波大野廿日市へと進軍した[5]。押された幕軍側は幕府歩兵部隊と紀州新宮藩の西洋式軍隊が巻き返しを図った。同時に、制海権をにぎる幕府海軍[注釈 6]が長州軍に艦砲射撃を浴びせ、今度は敗走する長州藩兵が岩国にまで追い返された。そして、芸州口の休戦がなされた。

約2か月間の芸州口の戦いで、広島藩の領民は幕府軍により甚大な被害を蒙った。非戦を訴えた芸州広島藩だったが、結果として戦禍から領民の生命、財産は守れなかった。藩士と農閑期に訓練を行なうだけの農兵制度だけでは領民は守れず、常に訓練を行う精鋭部隊が必要という認識から、神機隊の発足の動きが生まれた。しかし藩庁は財政難から、それを許可しなかった。

同年末には、徳川幕府の幕閣から、長州藩との戦いは家茂将軍の死去で休戦しただけで、幕府軍が負けたわけではないと主張[注釈 7]し、第三次長州戦争を模索する動きが出た。

広島藩はこのような動きのなか幕府に見切りをつけ、幕長の仲介役をやめた[注釈 8]。そして広島藩出身の思想家頼山陽日本外史皇国史観に基づき、藩論が大政奉還へと統一される。

1867年1月4日、広島藩は倒幕のさきがけとなり、執政・石井修理が藩主・浅野長訓の名で大政奉還建白書幕府に提出した[注釈 9]。翌5日には朝廷にも提出[注釈 10]。しかし、ともに無視された。

広島藩は世子の長勲、執政・辻将曹を中心に、京都において大政奉還の運動を加速させた[注釈 11]。同年7月3日、辻将曹薩摩藩家老・小松帯刀が会談し、軍事圧力で慶喜将軍に大政奉還を迫る策で合意した[9]小松家老の推薦で、同盟に土佐藩後藤象二郎を加えたが、後藤は薩芸に強く約束した土佐藩兵1000人の挙兵を山内容堂に反対され、実現できなかった[注釈 12]

『薩長芸三藩盟約書草稿』(京都大学附属図書館所蔵)

薩・芸の二藩は下関戦争長州戦争の実戦経験が今後において役立つと考え、奇策をもって朝敵長州藩を巻き込んだ[注釈 13]1867年(慶応3年)9月、薩長芸軍事同盟薩摩長州芸州広島)を成立させる[10][注釈 14]

広島藩は挙兵を前に強い軍隊を必要とした。木原秀三郎川合三十郎が藩庁に、神機隊結成の許可を申請した。これは200人募兵の許可だったが有事の際にはあまりに少ないため、結局1200人を採用した。同年9月19日志和村の西蓮寺を本陣として旗揚げした[注釈 2]

神機隊総督には、黒田益之丞を据えた。黒田は大目付の実弟であり、急進的な討幕派で押しが強い人物だった[2]。これに勘定吟味役小鷹狩介之丞、理財家の船越寿左衛門[注釈 15]が資金面で協力した。武具奉行の高間多須衛[注釈 16]は武器調達の面で積極的に協力した[2]

神機隊の結成後の動き

[編集]

1867年(慶應3年)10月3日後藤象二郎が薩芸との約束を破り、大政奉還建白書板倉勝静老中に提出した。薩長芸の軍事同盟による倒幕の足並みが乱れたうえ、広島藩も3日後の6日に大政奉還を建白したことから、三藩の挙兵計画が失敗した[11]。しかし、辻はこれを薩長芸軍事同盟の破棄と見なさず、10月8日に仕切り直しで、植田乙次郎が広沢真臣らを連れて来るなどして[注釈 17]三藩の話し合いが京都で行われ、薩長芸軍事同盟が再成立した。ただし薩摩の内情は複雑で、藩論を統一し出兵させるには討幕詔勅が欲しいと主張した。一方で長州復官入京詔書を欲しがった。このため岩倉具視の腹心の玉松操よる偽の詔書が書かれた[注釈 18]

10月14日、慶喜将軍が大政奉還を行なう。翌日、上奏勅許された。ただ佐幕派は依然として政治指導権を握り、復権を謀る動きがあった。三藩にとっては親政の確固たる確立のためにも、明治天皇を守る皇軍が必要となった[12]

薩長芸では同年11月(日付け不明)に、三藩進発(挙兵)が密議され、約6500人の軍隊の上洛が決められた。11月26日広島藩兵と長州藩兵が御手洗港(広島県呉市・大崎下島)に集結した。金子邸[注釈 19]で協議し、朝敵長州藩広島藩兵に偽装、広島藩薩摩藩の旗を掲げていくなど諸事項が決められた。同日夜には、芸長の大船団が上洛の途に就く[注釈 20]。その後朝敵である長州は一旦兵庫・西宮の大洲藩邸に留め置かれた。薩芸の軍隊が大坂で合流したうえで、まず二藩が上洛した。これら三藩進発には、神機隊幹部が積極的に下準備から決行までかかわっていた[注釈 21]

12月9日、京都の小御所会議で、王政復古による明治新政府が樹立された。と同時に、毛利家の朝敵認定が解除されたことから長州藩が上洛。ここに三藩の軍隊が合流し、京都の新政府の下で、明治天皇を守る皇軍となった。

神機隊が戊辰戦争へ初出陣

[編集]

1868年(慶応4年)1月3日には鳥羽伏見の戦いが勃発。広島藩の正規軍は伏見・銭取橋付近に出動したが、非戦論であった辻将曹は、これは薩摩会津の遺恨の戦いだと主張、一発の銃弾も撃たせなかった。三藩進発においては中心的であった広島藩だったが、これで立場が後退した。薩長が新政府軍の核となり、土佐藩も攻撃に加わっていたことから、薩長土が戊辰戦争の指導権を握った。

備中・備後の戦い

[編集]
1月22日に神機隊300名は本陣の西蓮寺を出発し、尾道で海路組と陸路組に分れ藩軍の先鋒として進軍した。(東広島郷土史研究会より)

明治新政府の要請で、広島藩は1月11日に、備中・備後地方の徳川家の直轄領に750人が出動した。うち、神機隊300人が22日に本陣の西蓮寺を出発し、尾道で海路組と陸路組に分れ藩軍の先鋒として進軍した。初の実戦で、先陣の活動をしている。備中の七日市、笠岡、玉島、成羽、備後の上下などの陣屋を接収し、鎮撫に成功したのち、3月1日に広島城に入り、藩主に拝謁した[15]


神機隊が自費で出兵

[編集]

神機隊の船越洋之助、小林柔吉には、北陸道鎮撫総督府付き参謀の拝命があった。京都に上がってみると、鳥羽伏見の戦いで、一発の弾も発射しなかった広島藩が笑い者となっていた。この状況を見て船越は参謀就任を断り、志和の神機隊の本拠地に戻ってきた[注釈 22]

在京の諸藩から、広島が嘲笑の的になっていることを船越が伝えると、神機隊の一同は大いに憤慨した。この上は激戦地に出動し、広島藩の名誉挽回に尽くすことを誓った。そして神機隊は関東出兵を決めたが、藩は財政赤字を理由に出兵を拒否する。

神機隊は軍費をみずから懸命に努力して調達し、自費で出兵を決めた。西蓮寺において六小隊で一個大隊を編成し、320人の精鋭を選んだ。かれらは脱藩まで覚悟していたが、藩主は出陣を聴許し、大坂までの軍艦・豊安号の輸送を認めた。

1868年(明治元年)3月15日に出陣した神機隊は、18日に大坂天保山の沖に到着。京坂の警備を経て、御所で、奥羽追討の錦御旗を受け取る。

黒田益之丞船越洋之助は、岩倉具視の要請で大坂に残った。他にも40人が残留した[注釈 23]

隊員の詳細は「神機隊東北出軍第一隊」を参照

上野戦争と奥州戦争に参戦

[編集]
神機隊は備中・備後の戦いの後、関東、東北へと進軍した。(東広島郷土史研究会より)

神機隊は閏4月16日に大坂から万年丸で出航し、東北行きの最中、暴風に遭い、同月27日に江戸・品川に入港する[16]大村益次郎から、世良修蔵の暗殺など奥羽の状況の悪化を聞き、浅野家の菩提寺である泉岳寺で待機する。その後5月15日上野戦争に参戦し、飛鳥山で彰義隊の討伐戦に加わった。さらに、飯能戦争では越生方面で振武軍を追討した。甲府の警固のあと、江戸に帰還[16]

奥羽出兵が決まると、大村から軍資金6500両を支給され、7月5日、貸与された長州藩の飛順号で平潟(茨城県)に向かう。しかしまたしても暴風に遭遇、磐城平城の戦いには間に合わなかった。

その後仙台征討総督・四条隆謌(たかうた)の麾下に入った神機隊は、浜街道の戦いで磐城平から北進。末続村から相馬・仙台・旧幕府軍と戦闘になる。7月26日に発生した第三次広野の戦いでは、同盟軍の激しい攻撃を受け鳥取藩兵と共に辛うじて陣地を保持する状況であった。しかし危急報を受けて長州藩兵2中隊と岩国藩兵1中隊が正午頃来援した。精強な長州藩兵は、戦況有利で油断していた同盟軍に対して間髪入れずに突入したため同盟軍は仰天して敗走した。鳥取藩兵と神機隊もこれに追従して喊声を挙げて突撃したので攻守は逆転し、同盟軍の潰走の度は増した。同盟軍は仙台藩が隊長2名戦死、相馬藩上級指揮官相馬将監は重傷、春日陸軍隊の隊長1名戦死と隊長の死傷が続出し木戸駅を自焼し、理想の陣地線たる上繁岡北方も放棄して熊ノ町まで潰走した[17]。この日長時間陣地戦をした神機隊は戦死4名の損害を出した[17]

神機隊は、その後も浜街道で同盟軍と戦闘を重ねた。7月28日の手岡原の戦いでは、長州、岩国、鳥取藩兵と共に中央攻撃隊を構成した[18]。本戦闘では、長州、岩国両藩兵が浜街道本道の左右に展開して夜ノ森方面の同盟軍陣地へ射撃しながら前進した。同盟軍は堡塁に籠って頑強に抵抗したが、後続の神機隊も直ちに戦闘に参加して攻撃を開始した。この時新政府軍は僅かに広島藩が砲1門を携行していたに過ぎなかったため、放火の火力が不足していた。ここで長州藩兵が戦死2名という損害を出しながらも堡塁に突入し、白兵の末これを占領したため戦況は新政府軍有利に転じ、引き続き追撃して神機隊は長州藩兵などと共に熊ノ町南方の関門を占領した[19]。この日の戦闘では戦闘に立って攻撃前進した長州藩兵が戦死2名、戦傷12名の被害を出したのに対して後発の神機隊は被害を出さなかった[19]。8月1日に新政府軍は、浪江の占領を目的とした作戦行動に移った。この日は前日戦闘しなかった長州藩兵と神機隊が第一線を担当した[19]。神機隊は作戦計画通り、正面から2小隊と砲1門が攻撃したが、同盟軍陣地は堅固で進撃は容易では無かった[20]。一方新政府軍西方迂回部隊を構成していた長州藩兵と岩国兵は浪江駅の西方に出て浪江北方西台の相馬藩砲台を背面から急襲した[20]。相馬藩砲兵は不意を食らって四散し、長州藩兵はそのまま背面から浪江に突入した。正面の神機隊と交戦していた相馬藩兵はこの背面攻撃に驚愕して散り散りに敗走した[20]。この日正面から攻撃した神機隊は戦死2名、戦傷13名という損害を出した。戦死者の中には砲隊長高間省三が含まれている[21]

その後も神機隊は駒ヶ嶺・旗巻峠方面で戦闘を繰り返し、仙台城に入城するときには、まともに歩ける隊兵は80人程度となっていた[注釈 24]

解隊とその後

[編集]

1869年(明治2年)夏、新政府は各藩で軍備再編を開始、「諸隊」に対して厳しい対応を取った。その時、長州藩では大規模な「諸隊」の反乱が発生した。(脱隊騒動

芸州藩でも明治3年初めに、「諸隊」の農商出身者に対して帰郷令が出されたが、反対運動の結果、神機隊、応変隊、新隊はそのまま存続が認められるが、その後、1872年(明治5年)2月15日に出された解隊令により、同17日に解隊。元隊員の一部は新陸軍に編入され上京、1874年(明治7年)の佐賀の乱に出征した。他の一部は県庁支配となるも、その後除隊。

1877年(明治10)の西南の役には本隊出身の旧隊兵が船越洋之助、木原秀三郎らの呼びかけにより三原に結集、遊撃歩兵第八大隊として編制され、元神機隊奉行添役加藤種之助が一時海軍より転じてその大隊長となり九州各地に転戦している。

神機隊の特徴

[編集]
  • 農商から募集した壮丁に対して、学問所、講武所で教えている学問を学ばせた。
  • 身分、地位、格差による差別は持ち込まなかった。
  • 神機隊の幹部は、募兵に当たっては農商の知識人、神官、医者など、高い教養をもった人材を優先した。
  • 神機隊の教育訓練は、洋式で英語を取り入れており、高度な知識と意欲がなければ適応できなかった。
  • 学問所出身の優秀な藩士が立ち上げた神機隊は、隊員が交代で寄宿し、皇国思想も含めた教育を施した。そのため意思統一された同志結社的な気風が強い軍隊となった。
  • 軍律は厳しく、違反者には容赦なく切腹も命じた。規律を破った3人が京都の大仏方広寺で切腹。江戸においても1人が斬首となった。帰路の白河城下でも1人が切腹となった(戦死扱い)。
  • 1868年(慶応4)8月5日、相馬藩領小高において新政府軍が同藩の米倉を押収した際、同藩よりその倉の米が人民のための救荒米であるため、有償で返還されたい旨の申し出があった。隊中の会計方士肥幸四郎が「吾隊は幕府の悪政に苦しむ人民救済のための新政を期待して参戦したのであり、この米が救荒米である以上、無償で返還すべきは当然である」として隊費欠乏の時にもかかわらずこれを断行。この時、新政府軍諸隊の中で、神機隊のみが無償で返納している。後日これを聞いた軍務官及び大総督府は、新政府軍の鑑たるべきものとして篤く賞し恩賜金を下付している。


奥州戦争の幹部

[編集]

神機隊は出陣に際しては、義勇同志として隊を総括する総指や総督などは置かなかった。ただし軍隊である以上、戦闘においては参謀、軍監、小隊長をおいて、合議制とした。

  • 参謀:川合三十郎(31) 藤田次郎(22) 平山寛之介(25)
  • 監察:橋本素助(30)
  • 一番小隊長:加藤種之助(25)
  • 二番小隊長:森熊之進(27)
  • 三番小隊長:清水永賀(24)
  • 四番小隊長:丹土薫之丞(23)
  • 五番小隊長:藤田太久蔵(23)
  • 六番小隊長:佐久間儀一郎(27)
  • 大砲隊長:高間省三(21)
  • 会計方:篠付幾蔵(24)
  • 軍医:小川道甫(29)

年表

[編集]
1866年(慶応2年) 5月23日 広島城下の町辻5か所に張り紙が出される[注釈 4]
6月2日 老中・小笠原が広島から小倉に退去
6月4日 広島藩の出兵拒否を幕府に通告。第2次長州征伐には直接参加せず
6月8日 第二次長州征討が周防大島で始まる
6月14日 第二次長州征討・芸州口の戦いが勃発
8月9日 芸州口の休戦協定
9月2日 宮島の大巌寺で、幕府と長州の休戦協定

この頃に神機隊の建白書が藩庁に出されるが財政難を理由に拒否される

1867年(慶応3年) 1月4日 広島藩が第一回目の大政奉還を幕府に建白する
7月4日 薩摩藩と広島藩が薩芸による大政奉還で合意
9月19日 神機隊が回天軍第一起神機隊として旗揚げする
9月20日 薩長芸軍事同盟が結ばれる
10月1日 出発直前にして三藩出兵が頓挫
10月6日 執政・辻将曹が大政奉還の建白書を幕府に提出
10月15日 大政奉還が勅許される
11月25日 三藩進発で広島藩と長州藩の軍団が御手洗港に集結
12月1日 辻将曹により広島藩兵へ京都離脱命令が下りる
12月9日 京都・小御所会議で王政復古が発せられ明治新政府が樹立
1868年(慶応4年) 1月3日 鳥羽伏見の戦いが勃発
1月11日 新政府から広島藩に備中・備後の鎮撫が命じられる
1月22日 神機隊が本陣の西蓮寺を出発
1月23日 広島城へ入城
1月24日 藩船「豊安丸」で出航、同日、4・5番隊が尾道に上陸
1月25日 1・2・3番隊が笠岡へ上陸
1月26日 笠岡陣屋を接収(1・2・3番隊)
1月27日 一橋家陣屋を接収(4・5番隊)
1月28日 矢掛代官所を接収(4・5番隊)
1月29日 板倉摂津守領陣屋を接収(4・5番隊)
2月1日 川辺駅を接収(4・5番隊)
2月2日 西しま陣屋を接収(1・2・3番隊)
2月4日 成羽陣屋を接収(4・5番隊)
2月11日 瀬川より川下りで帰途(4・5番隊)
3月1日 広島城へ入城し、藩主に拝謁
3月17日 神機隊の第一隊326人が自費で関東征討にむかう
5月15日 神機隊が上野戦争に参加、つづいて飯能戦争・甲府警固にむかう
7月11日 神機隊が平潟(茨城県)に上陸
7月18日 磐城平に入るが磐城の戦いには間に合わず仙台攻撃を選択する
7月22日 神機隊と鳥取藩が陸前浜街道の戦いへと進軍する
同夜 末続で戦闘はじまり広野の戦いに及ぶ壮絶な戦いになる
8月1日 浪江の戦いで砲隊長の高間省三が戦死。さらに相馬・駒が峰・亘理へと進軍する
8月20日 神機隊の第二陣193人が補充として広島・志和から出陣
9月17日 仙台藩が降伏
10月 回天軍第二起神機隊が尾道で結成
12月25日 神機隊の第一隊が広島に帰藩
1869年(明治2年) 9月5日 神機隊の第二陣が広島に帰藩

東北で現存する神機隊慰霊碑

[編集]

自性院(双葉町)

[編集]
(自性院)神機隊の砲隊長 高間省三の墓。福島・双葉町に眠るが、放射能汚染地で参拝はむずかしい。(2020年3月に避難解除)

高間省三[注釈 25][注釈 26]  大砲隊長 浪江で8月1日戦死

木村徳三郎  三番銃士 浪江で8月1日戦死

性源寺

[編集]
(性源寺)亡くなった戦死者たちが境内に祀られている。広島藩・神機隊の死傷者の数が最も多い。

木本義平信晴   磐城広野で7月26日戦死

大谷亀之助清秋  第二小隊 磐城広野で傷のち7月29日死亡

山岡吉平貞順   磐城広野で傷のち8月2日死亡

山路関之助種春  第一小隊 磐城広野で傷のち8月4日死亡

桧垣助八武秀   磐城平城下で8月5日に戦死

影山佐平利高   磐城平病院で8月5日に病死

村上貞兵衛宗正  回天軍 磐城広野で傷のち8月26日死亡

高崎熊蔵政重   磐城広野で傷のち8月27日死亡

宮原千代蔵幾光  磐城広野で傷のち8月30日死亡

田中佐太郎成高

修行院

[編集]
(修行院)福島県・広野町では広島藩と鳥取藩が相馬・仙台・旧幕府軍連合と連日大激戦を行った。この墓石は東日本大震災により倒壊していたが、地元の石材店が無償で修理した。

菅勝之助     第一小隊 豊田郡高崎村 磐城広野で7月26日戦死 22歳

出本健之助    第二小隊 安芸郡和庄村 磐城広野で7月26日戦死 24歳

佐々木藤三郎   第二小隊 豊田郡小原村 磐城広野で7月26日戦死 25歳

造賀善太郎    第三小隊 賀茂郡原村 磐城広野で7月26日戦死 19歳 

万持寺

[編集]

加藤善三郎    第三小隊 白河で11月4日有事屠腹 25歳

参考文献

[編集]
  • 川合三十郎・橋本素助編『芸藩志』
  • 武田正視『木原適處と神機隊の人びと』
  • 穂高健一『芸州広島藩 神機隊物語』(新)平原社、2018年。ISBN 4938391635 
  • 鳥取市歴史博物館『因州兵の戊辰戦争』
  • 広島県立歴史博物館『幕末の動乱と瀬戸内海』
  • 田原俊典『修道開祖の恩人・十竹先生物語』修道中学校・修道高等学校、2011年。 
  • 大山柏『戊辰戦役史 上下』時事通信社、1968年。 
  • 東広島郷土史研究会 http://higashihiroshimakyoudoshi.web.fc2.com
  • 戊辰掃苔録 http://boshinsoutairoku.bufsiz.jp/index.html
  • 大山柏 『戊辰役戦史上』時事通信社 1968年

関連項目

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 回天軍第二起捷機隊は木原秀三郎を総括に任命し、尾道の西国寺に置においた。地元尾道の竹内要助、天野嘉四郎、土屋市之介らを中心に新たに230人をもって編成した[1]
  2. ^ a b 三藩同盟の挙報告のために黒田益之丞が帰藩する。(神機隊)壮兵募集の建議は、財源無く許されず、独り執政石井修理が断然これを許可すべきだと上言し、裁許を得た。しかし、兵員はわずかに二百人。小鷹狩元弼と謀り、王事に尽力せんとすれば、二百人の他は有志者をして、この支出を尽力せしめん。賀茂郡志和奥屋村の西蓮寺をもって仮屯所と定める。これを回天軍第一起神機隊とする[2]
  3. ^ 掘小一郎~農医(小林)柔吉の55人の実名が列記、高間省三は14人目[3]
  4. ^ a b 『雲雨晦冥 日月光を失ふ 逆党小笠原壱岐守・室賀伊予守の首級を六月一日までに討取り神明正道に備へん』[3]
  5. ^ 船越洋之助、小林柔吉、木原秀三郎、川合三十郎、橋本素助、加藤種之助、高間省三など
  6. ^ 幕府海軍は震天丸、朝日丸、砲台丸、明光丸、翔鶴丸より長兵に艦砲射撃をする。紀州藩兵と連絡を取り合う[6]
  7. ^ 水野閣老より家茂将軍死去に就き、暫時休兵の勅命を毛利家に通達する[7]
  8. ^ 国家はすでに窮地に陥り、(中略)、従来の失政を訂正し、幕官の有罪を糺し、大変革を成して、天下に謝罪し、更始一新する他なし。「中略」、幕府は自分の権威を回復する勉めか、もしくは幕府のために防長の処分(戦争)の決議をする[8]
  9. ^ 長訓公は今日天下の急務としては(慶喜)将軍において断然、反正治本の処置あるべき建白書を造り、石井修理をして携帯上京し、これを幕府に呈出せしむ[8]
  10. ^ 一般に言われている後藤象二郎の大政奉還よりも、10か月も早い建白である。
  11. ^ 浅野長勲公は、六月、幕府に勧め、政権を朝廷に還政させしむことを尽力せらるる。目的はすでに述べたこと。越前、宇和島の二侯と会合し、還政建白を協議する。また、辻将曹をして隅公の寓居にさしむける[9]
  12. ^ 後藤象二郎は藩主へ申請として帰藩せりしかるに帰京の期日を過ぎてすでに八月にいたりし。建白もむなしく遅延する。時勢は日を遂て変遷し、建白の時機を逸れる情況になり[9]
  13. ^ 9月10日、小松帯刀と辻将曹が面議して、(幕府が)長藩をして往の召命に應し速やかに使者を上阪せしむるに託し、貴藩(薩摩)と弊藩(広島)との兵をもってこれを護送すると称し(カムフラージュし)、長藩の兵をも合わせて一挙して政権を奉還せしむるの擧(奇策)にでる他になし(中略)、貴藩(薩摩)に異議がなければ、長藩と協議のために、両藩から使者を派遣することとする如何かな。辻将曹はこれを(自ら判断で)許諾し、小松帯刀は翌日に下阪しこの義挙を隅州(島津久光)につげる。薩摩は大久保一蔵、広島は植田乙次郎を長州に差しむける[2]
  14. ^ 大久保一蔵は9月16日、植田乙次郎は9月17日に山口に至る。毛利大膳父子に謁し、木戸準一郎、広澤兵助らと会見する。木戸から「すでに一蔵から9月25日に鹿児島から軍艦2隻で三田尻に来る。芸長(広島・長州)はこの知らせを得て、御手洗に会合し、出発、上京する」と聞いて、藝薩長三藩同盟の出兵の条約が定まった[2]
  15. ^ 船越寿左衛門は、藩士船越洋之助の父親である。私財は町人も顔負けの蓄財をする。70代で子どもをつくる。政治には惜しみなく金を出す奇特な人物であった。
  16. ^ 高間多須衛は武具奉行を経て、大監察となった。高間省三の父親である。
  17. ^ 植田乙次郎が朝敵である長州の広沢真臣らを広島藩士に見せかけて、京都に連れて来て、三藩が顔を合わせて詳細な各論を協議し、条約を再構築した。
  18. ^ 広島藩は辻将曹が第一線で活動し、藩論が統一されていたので、偽の詔書の必要がなかった。
  19. ^ 江戸時代に御手洗の庄屋役であった金子家が,様々な要人を接待するために建設した茶室を含む数寄屋座敷と長屋門からなる複合建築[13]
  20. ^ 11月24日午後八時半、浅野長勲は式部公子と宇品より豊安号で出帆する。330人。役職・人名は列記されている。大坂に向かう。番頭(広島藩・総大将)岸九兵衛は、長藩の家老などと御手洗で会合し、これを大坂に護送せしむ。(幕府からみれば、毛利家老は罪人であり、護送の名目を使っている)。長藩は11月25日三田尻を出帆し、御手洗に着き、合流する。神機隊が芸長の応接をする。その名前の列記があり[14]
  21. ^ 長藩の一半はわが藩兵(広島)を装う、軍旗、徽章など皆わが藩と同じ。淡路沖に停泊する。27日、兵庫沖にて、川合三十郎(神機隊)が長州人を同地に上陸させる。このとき幕兵が通過したので、長兵は打出浜より上陸し、後日、西宮に転営させる[14]
  22. ^ 黒田益之丞らは、時事に感ずるところあり、神機隊三百人を率い費用自弁にて、上京し、征討従軍を太政官へ奉請せんことを出願する。(中略)3月17日神機隊は出発する[16]
  23. ^ 船越洋之助は5月12日に江戸府判事を拝命、8月1日には池田徳太郎とともに東北遊撃軍の参謀となる。
  24. ^ 『本隊300人の兵卒も、漸次(ぜんじ)、減少して、僅(わず)かに80人を残留するに至れり。ただし、軽傷・加藤種之介(実弟は加藤友三郎内閣総理大臣)のごとき負傷治療して再戦できるものも参入した80人である』[22]
  25. ^ 高間省三は頭脳明晰で、18歳で学問所の助教だった。四芸(槍、馬術、弓、剣術)にも優れていた。神機隊の砲隊長として高間は奥州戦争に参加。連戦連勝の一番乗りをくり返す。慶応4年8月1日、浪江の戦いで、砦に一番乗りした瞬間、敵弾が頭部に当たり戦死する。
  26. ^ 浪江の戦いで戦死した高間省三は、広島護国神社の筆頭祭神として祀られている。

出典

[編集]
  1. ^ 武田正視著「木原適處と神機隊の人びと」より
  2. ^ a b c d e 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第七十九巻より
  3. ^ a b 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第五九巻より
  4. ^ 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第六十巻より
  5. ^ 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第六十六巻より
  6. ^ 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第六十七巻より
  7. ^ 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第七十二巻より
  8. ^ a b 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第七十五巻より
  9. ^ a b c 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第七十八巻より
  10. ^ 薩長芸三藩盟約書草稿 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ”. rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp. 2018年5月23日閲覧。
  11. ^ 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第八十巻より
  12. ^ 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第八十一巻より
  13. ^ 外部リンク呉市豊地区地域の情報
  14. ^ a b 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第八十二巻より
  15. ^ 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第八十七巻より
  16. ^ a b c 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第百二十三巻より
  17. ^ a b 大山 (1968: 532)
  18. ^ 大山 (1968: 537)
  19. ^ a b c 大山 (1968: 538)
  20. ^ a b c 大山 (1968: 542)
  21. ^ 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第百二十四巻より
  22. ^ 芸藩志より

外部リンク

[編集]